第4話 ああ~ん♥

 初日の講義の内容はくだらないものだった。

 婚礼の日までは規則正しい毎日を心がけましょう。夜更かしは禁物です。

 食事はきちんと摂りましょう。朝食のオートミールを残してはいけません。

 ダンスの稽古の回数を少し増やしましょう。

 竪琴と刺繍の腕をさらに磨きましょう。

 などなど。


 最後に一つだけ、僕には口にしにくい項目があった。

 月の満ち欠けの記録を続けるように。――生理日の記録をきちんとつけるように、という意味なのだ。 


 この王都の王族や上流階級の娘たちは、母親や姉、あるいは乳母や侍女たちから教えられ、記録をつけはじめる、という。だから、エリカ姫にとっては、いつも清潔なハンカチ数枚を手元に置いておきましょう、とか、手指の爪はやすりできれいに手入れしておきましょう、と言われたのと変わらないはず、ではあるのだけれど。


「月の……満ち欠け……の……記録は……こ、これまでどおり……」

 言いながら、顔が赤くなってくるのが自分でもわかって、どこを向いていいかわからない。急に口のなかが乾いて、しゃべりにくくなった。この程度で赤面していて、この先どうする? そうは思うものの、なにしろ心臓をズキュンズキュンやられっぱなしの僕なのだ。

「わ、忘れずに続けて……く……さい……いえ、ください!」

「はいっ、きちんと続けます」

 エリカ姫は、貴重な教えを初めて耳にしている、一言半句も聞き漏らすわけにはいかない、とでもいうように、真剣な眼差しで僕を見つめている。


 この王都には、というか、この世界には、紙というものがない。羊皮紙はあるが、それを必要なだけ使えるのは、国王と王妃、高位の男性たち、そして何かしらの知的専門職についている男性たちのみ、のようだった。王女とて、羊皮紙を普段使いできないようなのだ。

 ジャジャビットから教わったところによると、王女や貴族の令嬢たちは、月の満ち欠けを布に刺繍して記録しているのだという。


 というわけで、エリカ姫は、聞いた内容をノートに書きとめられない。全身「耳」状態で、ひしっ、と僕に眼差しをぶつけてくるのだ。

 ああ、なんて真面目な生徒なんだ! 年上なのに、可愛すぎる!


 教える側と教わる側の「お互いに、どうぞよろしく」みたいな講義内容だったにもかかわらず、僕は汗びっしょりになって、初日を終えた。

 お辞儀をして部屋を出ようとすると、エリカ姫が、

「冬至祭りの晩餐会には、いらっしゃいますよね?」


 冬至を祝う祭り。そういうものがあるとは聞き知っている。世話になっている『穴熊亭』(宿屋兼居酒屋だ)の亭主のロッコと彼のおかみさんが、先週あたりから祭りのことを話題にしていたのだ。祭りのための特別料理の仕込みが大変らしい。冬至は三日後だ。


 王宮で晩餐会が開かれるなんて、ジャジャビットからは聞かされていない。なんにせよ僕なんかが招かれはしないだろう。学寮の首席だかなんだか知らないけど、所詮、平民だもの。そもそも、よそ者だし。

 そう思ったけれど、お招きにあずかってはおりません、なんて返したら、お互いに気まずくなるだろうから……無言のままにっこり笑って退場が無難かな、と迷っていると、

「ぜひ、いらしてください。踊り明かしましょう」


 ください、しましょう、っていう語尾がいちいち爽やかに弾ける感じで、僕は胸をエリカ姫の指先でツンツンされた気分。

 ブリリアントカットされたサファイアみたいな瞳はきらきら輝いて。まあるい唇の奥に、真っ白で小粒の歯がのぞいて。ああ~ん♥


 と、控えの間とのあいだの扉がノックされ、一呼吸おく、なんて遠慮も気遣いもなく、扉が開く。

「今日の講義は終了ですな。予定の時刻を少々過ぎております」

 くっそいまいましい――けど、この瞬間ばかりは、助け舟といえなくもない――ジャジャビット登場。右手を左胸に当て、左手を背後にまわして、うやうやしく礼の姿勢で待機していた。

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