第5話 トーマ、王宮に部屋をもらう
「姫のごきげんは麗しそうだったから、初日は、まあ、うまくいったようだな」
階段の踊り場で、僕より一歩先を歩いていたジャジャビットが振り返り、にやりと笑う。
僕は、むすっ、と押し黙っていた。
「ところでな。おまえは今日からこの王宮に一室を与えられる」
「え?」
王都のちょっとごみごみした一角にある居酒屋兼宿屋の『穴熊亭』。僕は、こっちの世界へ転生して(って考えると死んだことなるけど、転移しただけなのかな?)から今日までのあいだ、『穴熊亭』の二階で寝起きしてきた。不安な毎日ではあったけれど、宿屋の居心地は悪くなかった。
「来春の婚礼まで、時間はあるようで、無い。サンサーラの歴史の概略や政治組織のあらましなども、姫は習っておく必要があるからな。あの国の歴史といっても、眉唾の建国神話のようなものだが。そういった内容の講義はホサイン博士が引き受けておられる。一回一時間とはいえ、あのご高齢で週に五回の講義は、ちと難儀ではあるかもしれん。博士が体調を崩しでもすると、無駄に時間が空いてしまう。そのとき、おまえがこの王宮にいて、すぐに穴埋めできれば効率的というもの。――それに、だ。姫とおまえとの関係はごくごく親密なものであってほしい」
どきり、とする。東京生まれだけど、思わず、なんでやねん、とツッコミたくなった。どうしてこいつに「あってほしい」なんて願望表現されなきゃいけないんだ?
「姫がおまえに全幅の信頼を寄せる。それが、この大事な講義が実を結ぶか否かの核心なのだからな。すべては完璧な婚姻のためだ」
――というわけで。
僕はエマリアナ王国の王宮で寝起きすることになった。
◇
ジャジャビットに案内された部屋は、迷路のような王宮の廊下のどんづまりにあった。質素ながら、暖炉はついているし、ベッドも机も椅子もあって、まあまあ快適そうだった。
「食事の世話や何やかやは、王宮の
勝手なことを並べて、ジャジャビットは消えた。
ゾーシメって、何だろう? 王宮に仕える末端の誰か、ってことなんだろうけど。
あっ!
ジャジャビットに、あいつの執務室がどこにあるか、うっかり聞き忘れた。こちらから緊急に連絡したいとき、どうすりゃいいんだ?
くそ……。ま、いっか。
「ふぇ~」
緊張を解いて、僕はベッドにごろんと仰向けになった。
エリカ姫の姿が眼前にちらつく。
彼女が今日着ていた衣服は襟が詰まっていて、大人の女性を感じさせるものでは全然なかった。鈍器本の内容に沿って、つまりジャジャビットの思わくに沿って講義を続けるなら、いずれ、彼女にはもっと刺激的な――
「暖炉に薪を足しましょうね」
えらく元気のいい声のおばちゃんだった。
え? おばちゃん?
「す、すみませんが、ノックくらいしてもらえませんか」
「あんれ、まあ。三度もしたですよぉ」
ふくよか過ぎる体形に血色のいい頬。どこかで見たような……『穴熊亭』のおかみさんそっくりだ。いとこ同士だったりして。
目の前に現れたおばちゃんは、薪の入った木箱を提げている。
「そ、そうでしたか」
妄想に耽り過ぎていた奴がいるらしい。反省……。
「いや、まあ、なんてこってすぅ?」
「――?」
「姫さまのご教育係って聞いてたもんで、てっきり、髭でもたくわえて眼光鋭いご老人が見えるのかと――。あっは、は~。なぁんて、また、おかわいらしい。なんだか……コリンを思いだしちまう……」
「誰を、です?」
「あたしのコリン坊やですよ。二十年前、流行り病で亡くしちまって……」
おばちゃんは目元をぷっくりした指先で拭って、
「昔語りはしないが、いちばん。申し遅れましたですぅ。先生さまのお世話をさせていただくナタリアにございます」
「あっ、僕は望月冬馬、じゃなくて、トーマです。よろしくお願いします。先生さまは、やめてください」
「先生さまは、先生さまですぅ。暖炉に薪を
ナタリアは暖炉の前に膝をついて、要領よく仕事をすすめる。
「それにしても、ねぇ……。あのエリカ王女さまがサンサーラなんかに行っておしまいになるなんて。さびしくなっちまう。あの姫さまだけは、国王さまも王妃さまも、お手放しにはならないと思っておりましたですよ。姫さまご本人だって、相手がどこの誰であれ、お嫁に行くなんて、まっぴらだったはずなんですよ。いつまでも、ずうっと、このお城にいたい、国王さまと王妃さまのおそばにいたい。この土地を離れるなんて想像もできない。ちょくちょく、そんなふうに、おっしゃってましたからねぇ」
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