わたしには好きな人がいました。

茜谷夏澄

わたしには好きな人がいました。

 わたしには好きな人がいました。

 ええ、そうです。過去形です。


 日焼けした肌が特徴的な、はつらつとした方でした。

 二つ年上の先輩。

 陸上部の短距離走でインターハイに何度も出場しており、そのためか肩口で髪の毛を切り揃えていました。よくも悪くも女っ気がなく、運動なんてからっきしなわたしにも同じ委員会のよしみでやさしく接してくれ、学校以外でもたびたび一緒に買い物に行きました。

 わたしがちょろかったわけでは、おそらくないと思います。

 ただ、ひまわりのような強さと美しさ、かわいらしさを兼ね備えた方で、その魅力にだんだんと私が毒されていっただけだと思います。

 恋に落ちた、という表現はまさしくわたしとは正反対でしょう。

 ゆっくり、ゆっくりとその魅力に引っ張られ、いつの間にか好きになってしまったというだけの話ですから。

 わたしが、レズビアン、というわけでもないと思います。

 初めてわたしが好きになった方が、たまたま女性だっただけ、という話です。


 おととしの冬、その人は晴れて幼馴染みと付き合うことができたそうです。

 そのまま大学進学のために二人そろって上京、いまも仲睦まじく暮らしているとかなんとか。

 ……同棲しているわけではないらしいのですが、相手の男が憎らしいです。


 *


 初恋が儚く散った、という風に思ったことはあまりないです。

 当然そうなるべきだったものが、そうなるべき形に収まっただけ。

 先輩が付き合い始めても素直に祝福できましたし、先輩を盗られたとも思いませんでした。


 ただ、思っていた以上に先輩に寄せていた感情は強かったみたいです。

 あれから二年が経ち、先輩たちが付き合い始めた歳にわたしもなりましたが、いまだにわたしの好きな人の席には、先輩が座り続けてしまっています。


 先輩の影響で、わたしもいくらか変わりました。

 眼鏡っ娘なことには変化がありませんが、一年生時よりは性格が明るくなりましたし、女っ気がない先輩を反面教師としてファッションにも少しだけ力を入れ始めました。

 読書はまだ好きなままですが、本の世界にひとりで沈み込むことはなく、ちょうどいいバランスで人との関わりは増えています。そのおかげか、数度男子からお付き合いを申し込まれることもありましたが。


「先輩以上に魅力的な人、いないんだもんなぁ」


 わたしは小さく呟きます。

 今日、散歩の最中に偶然出会ったクラスメイトに告白されて、「まずは友達から」と返したばかりでした。仲が悪いわけではありませんが、特別仲がよかったわけでもありません。なのでまあ、とりあえず相手のことを知ることから始めるつもりです。

 自分の姿を見ます。

 秋口に差し掛かり、袖の長さが少しずつ長くなっていく時期になりました。

 白を基調とした七分袖のブラウスに、柄のついたロングスカートを合わせたファッション。

 いつも通り眼鏡をつけたメイクもしていない顔のはずですが、どうなんでしょう。顔に対する自己評価はどうしても、他人が見るより低く評価しがちです。

 少なくとも、わたし自身が先輩に見合うような女の子になったとは思えませんし。


 首をひねっていてもしょうがないので、また散歩を再開しました。

 特に目的地はありませんが、読書ばかりでは運動不足だと思うので週末は散歩をするのが習慣になっています。


 今日はいつもとは違うルートで回ることにしました。

 いつもは散歩の真ん中ぐらいに立ち寄る川沿いの土手を、最後に回してみます。

 先ほどのクラスメイトからの告白について、土手に腰を下ろして思慮を重ねたいと思ったからです。


 夕暮れどきになれば、センチメンタルな気持ちになるにはちょうどいい景色に。

 西日の差し込む河川敷は見慣れた光景ではありますが、少しの高揚感と同時にどこか安心させられます。

 土手からおりれば、背丈の低い雑草が生えた広い土地があるので、子供たちが遊んでいたり、健康に気を遣う年頃の人たちが散歩やランニングしていたりする姿もあります。人々の生活に寄り添った場所なので、心が馴染みやすいのかもしれません。


 土手からおりて散歩をすることもなくはありませんが、私はどちらかというとこの土手は休憩地点といった印象でした。おりた先にベンチがあるのでそこに腰を下ろして景色を眺めたり、頬に当たる風を楽しみながら読書に十数分読書に耽ったりすることも楽しいのです。


 しかしその日は、ベンチに座る前、景色を眺めるなかで違和感を覚えました。

 河川敷付近にいる若者は動きやすい恰好をしている人が多いのです。

 今日は明るい茶髪をしたセミロングの女性が、ネイビーワンピースにシックなカラーのカーディガンを羽織った姿で雑草のうえを歩いていました。

 靴がスニーカー、というのは彼女らしいと思いますが。

 その女性は誰かを探しているようにきょろきょろしていましたが、わたしの姿を見つけると表情にぱあっと花を咲かせます。


「やぁっと見つけた!」


 ワンピースとは思えない速さで駆け寄ってくると、肩をがしっと掴まれます。そのままうれしそうに前後に揺さぶられ、最後には力強く抱きしめられました。柑橘系の良い香りがします。それがシャンプーやボディーソープの香りなのか、香水の香りなのかは判別がつきませんが。


「く、くるしいです」


「あっ、ごめん。結構探してたから、見つけた瞬間うれしくなっちゃって」


 身体を離すと彼女は照れくさそうに後ろ頭をかきました。そのちょっとした男っぽさに昔の面影を感じます。


「……髪伸びてるし染まってる……大人っぽくなってる」


 先輩の、早川ミサキ先輩の変化に、わたしは少しショックを受けました。

 いつも日焼けしていた肌はあまり焼けていません。髪も高校生のときからはかなり伸びていて、大学生らしく染めてしまっています。服装もおしゃれになっちゃって……。

 変わらないところもたくさんあります。スキンシップが力強いことも、ちょっとした仕草に見せる男勝りな部分も二年前から変わっていません。

 ただ、なんというか、『男ができた女』って感じが……けっこう心に来ます。


「帰ってきてるんなら言ってください……。ラインあるじゃないですか」

「いやあ、急に帰ってきたほうがびっくりするでしょ。そっちのほうがうれしいかなって」


 うれしさは、たしかにあります。

 高校を卒業してからは会えていなかったので、驚きもありましたがうれしく思わないわけではありません。


「どうしてここで待ち伏せていたんですか? わたしがここに来るって確証もないでしょうに」

「それは陸上部の後輩に訊いたのよ。『休日はよく散歩しているから、ここなら来る可能性が高いよ』って言われて」

「む」


 ちょっとだけ嫉妬心を覚えます。

 わたし以外の人にはあらかじめ連絡していやがったのか、と。

 どっきりを仕掛けたいほどわたしが特別だった、という話もありますが、それはそれ、これはこれです。

 渋い顔をしていると、ミサキ先輩は噴き出して笑います。


「あははっ、その顔ひさしぶりに見たっ。ハルカもすっごいかわいくなったけど、全然変わんないね!」

「そりゃ、たった二年ですし」

「二年もあれば、人が変わるには十分だよ」


 若人には特にね、と言って先輩は得意げな顔になります。

 さらっと流しつつ、「せっかくですから散歩しましょうか」と歩き始めた。


「先輩は、あんまり変わりませんね」

「えっ、そう? ちょっとショックだなぁ。これでもたくさん変わったんだよ」


 たしかに外見的特徴はかなり変わったように思います。ほんのちょっとだけ身長も伸びたのではないかとすら思います。高校に入学してからはほとんど伸びていないわたしからすれば少し恨めしい……。


「中身は全然です。多少大人っぽくなったかな、とか女性らしくなったかな、とかこれまで会う妄想したときは考えていたんですが……全然ですね」

「流し目で見ないでっ」


 ぎゅっと肩を両腕で抱きしめて身体をそらされます。

 悪い、とは言っていないんですけどね。

 わたしとしてはあまり変わっていなくてうれしかったんですけれど、それを伝えると飛び跳ねて喜びそうなので言いませんが。


「それで、ミサキ先輩はどうして急に?」

「え、もう訊いちゃう? 訊いちゃうの?」

「あ、じゃあいいです」

「訊いてっ、お願いだからっ」


 うざったい態度を取られたのでつんけんとしてみれば、頭を下げられました。少し勝った気分です。

 先輩は少し歩調を早めてわたしの前に出ると、夕日を背に振り返ってわたしを見つめます。


「彼氏と喧嘩しちゃって」


 照れくさそうに、先輩は笑いました。


「べつに、大したことじゃないの。些細なきっかけで起こったちょっとした喧嘩。ただ、たまにはこういうこともするんだよ、って教えておこうかなって。食べ物に対する怒りは怖いんだから、ハルカも覚えといてよ」


 こういうこと、というのは急に地元にひとりで帰ってくるってことなのでしょうか。


「齋藤先輩とはまだ続いてるんですか?」

「うん。あいつは全然変わってないよ。男子大学生って女子と付き合うためにおしゃれしだすんだけど、あいつは私っていう素晴らしい彼女がいるからなぁんにも変わろうとしないの」


 ミサキ先輩は、ぷふふと彼氏のことを思い出して笑います。

 齋藤先輩はミサキ先輩の幼馴染みです。先輩の幼馴染みということで二人が付き合い始める前から認知はしていますが、元からある程度センスのある人だったので、変化がなくともミサキ先輩とは釣り合う人でしょう。


「ま、些細な喧嘩の積み重ねで、カップルの絆は強固になりますから」

「絆が綻ぶ要因にもなるけどね」

「……どうせ、喧嘩した後は前よりも仲良くなってるくせに」

「あっはは。それはそう!」


 どんどんと仲良くなっていく姿が絵に浮かびます。

 今回の帰省も、さらに仲良くなるための布石なのでしょう。

 胃もたれがしてきました。ううう。


「ハルカはどう? 変わりない?」

「……とくには変わりないですよ。年相応におしゃれにも興味出て、運動不足にならないように散歩し始めたくらいで」

「うん、たしかにかわいくなったよね!」


 うれしいことを言ってくれます。

 先輩のとなりに追いつくと、その腕に自らの腕を絡ませます。


「今日も、たまたま会ったクラスメイトから告白されまして」

「えっ!?」


 心底驚いたような反応をされました。


「私のハルカに告白なんて、なかなか勇気あるやつだなぁ!」先輩は握りこぶしを振り上げて、大きな声で叫びます。「それで、結局どうしたの。……付き合っちゃうの?」

「べつに……特別仲良かったわけではありませんから。とりあえずもう少し仲良くなってからじゃないと判断できませんので、今日は断りました」

「そっかぁ。えへへ」


 先輩は安心したようにゆるんだ声を出します。

 その空気が心地よくて、しばらく会話がないまま歩き続けます。

 夕日の傾きが増していくたびに、世界の赤さが増していきます。こういう景色が、いつまでも先輩と見られればいいなぁ、と思いますが現実はそうもいかないでしょう。

 わたしだけの先輩というわけではないのです。

 現状のままなら齋藤先輩とそのまま結ばれそうではありますが、べつにその人と必ず結婚するとも限らないわけですし。

 わたしは、先輩と付き合って結婚して……と夢想しているわけでもありません。

 好きな人が好きと言ってくれて、仲良くしてくれればそれだけでうれしいですし、それ以上は求めていないのです。

 ただ、わたしたちが大人になって社会に出ていくにつれて、わたしの求めているものは少しずつ手に入りづらくなっていくでしょう。

 そう考えると、さみしさが出てきます。


「……先輩」

「ん?」


 ふとあることを思いついて呼ぶと、先輩は不思議そうにわたしを見下ろしました。

 そのまま目をつむると、意を決してキスしてみました。

 そのやわらかさを、初めて直接感じます。あたたかくて、少しだけ濡れているような気もして、味なんてわからないはずなのに、酸っぱくも甘くも感じました。


 永遠にも思えるその時間は、夢中になってバランスを崩したのがきっかけであっけなく終わってしまいます。

 先輩を下にして倒れ、慌てて押しつぶさないように手を突き出しました。手首に少しの衝撃を感じましたが、痛みはなし。先輩を見ると、先輩も特にダメージはなさそうでした。


 幸か不幸か床ドンみたいな形になっていました。

 調子に乗って再度唇を重ねようとすると、先輩はにっこり笑って人差し指でわたしの唇を押さえます。


「だめだよ。それ以上は浮気になっちゃう」


 さっきのキスは大丈夫だったことに、少し安堵しました。

 先に立ち上がって座り込む形になっていた先輩に手を差し出すと、それを快く握って立ち上がります。

 なんだかくすぐったくて笑うと、先輩も笑ってくれました。

 気まずい雰囲気にならなくてよかったと思います。


「あっ、ごめん電話だ」


 ぱんぱんとお尻についた草を払っていた先輩のスマホが震えました。ポケットからそれを取り出すと、わたしに背を向けてスマホを耳に当てます。

 相手は齋藤先輩のようでした。

 数度頷いて「いいよ、いいって。え、お詫び? いらないいらない、今べつの人からもらったばかりだもん」と話します。


 話し方から推測するに、わたしからのキスはうれしかったことのようです。でなければ、お詫び扱いはされないでしょう。

 心の中で齋藤先輩に対しほくそ笑んでいると、その間に先輩たちの話は終わったようでした。


「それじゃあ、私はそろそろ帰るよ。目的は達成できたからね」

「ええ、もうですか?」


 さみしく感じて抱きつくと、先輩は苦笑いしながら言います。


「なんだかんだ、今回は弾丸での帰省だったからね。そろそろ帰らないと来週の講義に影響でそう」

「そうですか……」

「なぁにさみしそうにしてんの。一回帰ってきて上手な帰省の仕方は掴めたから、これからはもっと頻繁に帰ってくるよ」


 落ち着かせるようにわたしの頭を撫でる手が、とてもやさしく感じます。

 大事にされている、とさすがにわかります。

 うれしい、という言葉はすぐに出てきますが、本当はもっと言語化するのも難しいほど大きな感情なんでしょう。いろいろひっくるめて、ありきたりすぎる言葉に落ち着いただけという話です。


「今度はいつぐらいになりそうですか?」

「んー、わかんないけど年末には帰省しなきゃね」

「じゃあ、それを心待ちにしています」

「うん、待ってて。あ、また喧嘩したら早く帰ってくるかもだけど」


 自虐するように言うミサキ先輩もかわいく見えます。


「……あ、それと」あることを思い出して、わたしは先輩の顔を見つめます。「わたし、先輩の大学受けますから、受験のときは泊まらせてください」

「お、私を追っかけてきてくれるんだね。うれしいなぁ」


 先輩は破顔します。


「いいよ。ぜひ泊まって。そんときはあいつを寄せ付けないようにしとくから」


 そう言うと先輩は歩き始めます。慌てて追いかけて「駅まで送ります」というと、先輩はうれしそうに腕を組んできた。

 当然、わたしたちは付き合っていない。

 仲がよいだけの女友達で、先輩と後輩という関係で、それ以上にもそれ以下にもなることはないだろう。


 でもだからこそ、この関係が心地いい

 だからこそ幸せで、だからこそこれからも頑張る勇気をもらえます。

 でも、とはいっても。


『……また齋藤先輩と喧嘩してくれたらいいなぁ』なんて。


 ちょっとだけ贅沢なことを考えますが、本人にそれを伝える必要はないでしょう。


 ただこの夕焼けと、それに照らされるミサキ先輩の幸せそうな顔を、わたしは静かに楽しむことにします。

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わたしには好きな人がいました。 茜谷夏澄 @hayasemiya

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