第8話 川辺にて

「置いてけぼりだって思ってたのよ。

 あなたと別れた頃の私も」

「え?」

 隣を見るが、彼女の横顔は川を見たままだ。


「今思えばホームシックだったんでしょうね。精神的に疲れてて、それでもあなたは研究を黙々と続けてるし、勝手に取り残された劣等感を感じて……だから別れたの。気を使わせて、あなたの負担になりたくなかった」


 瞬間、よりを戻したい衝動に駆られたが、可能性は微塵もなかった。


「……そうか。今はどう?」

「平気。たぶん都会が合わなかったのね、私」

「幸せそうで、よかった」

「健一さんは今、恋人はいるの?」

「……」


 見得をはって嘘をつこうかと思ったが、田舎の朝の空気は冷たく澄んで、自分を脚色するのがはばかられた。白い息まじりに本音を吐き出す。


「いないよ。仕事と結婚してるようなもんでさ」


「きっといい人見つかるよ」という返しを予測した。何百回と言われた言葉だ。慣れても心には微細な傷がつく。その覚悟をした。


「ずっと同じ仕事に打ち込むなんて、すごいね」


 僕は目をぱちくりさせた。

「そうかな」

「そうよ。

 『仕事と結婚した』って言うと、結婚できないネガティブな言い訳みたいだけど、あなたはずっと研究を続けて、仕事にして、一本の筋を通している。

 素晴らしいことだよ。


 変わるのも素敵だけど、変わらないひたむきさとか情熱とか、それも素敵だと私は思う。

 昔のことも、気にしないでね。

 私とあなたは合わなかった、それだけのことだよ」


 僕は圧倒されていた。

 久しぶりに人の言葉をまともに聞いた気がした。仕事とか関係なく、素の人間の言葉を。


 1人で生きてきた気になってたけど、うらやましがったり、その逆もあったり、恋をしたりすれ違ったり、そんなふうに周りと影響し合って生きてきて、これからもそうだと、目からウロコが落ちた気になった。


「ありがとう。気持ちが楽になった。

 彩……さんは先生みたいだな」


 彩さんは微笑んだ。相変わらず、人の良さが内面からにじみ出てくるような笑顔だった。


「なんて、私も落ち込んだときに周りに声かけてもらってね、その受け売り。

 あなたに渡せてよかった」

「うん」

 そろそろ朝ごはんの支度を手伝わなきゃ、と彩さんは立ち上げる。一緒に帰るのもなんだから、僕は時間を置いて戻ることになった。


「ちなみに、私が言うことでもないけどね……お正月、親戚の子とくれば、やることがあるんじゃないの?

 実香ちゃん、期待してるみたいよ」

 そう言って、また彼女は笑った。

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