第68話

「そして最後、満を持して……と行きたかったけど、まさか意外だったよね。まさか自分からこっちに来てくれるなんてね。まさかまさかまさかまさか。フハッ、クハハッ、キャハハハハハハハハ」

 酔っ払ったように呂律がだんだんと怪しくなっていく。フラ、フラ、と少しくらついた。

「ブチ猫と仲が良かったのか知らないけど、もう殺しちゃったっ。どのみち死んでたし。いやぁ儚いですよねぇ、そういう友情って。一時的にはものすごく強いんですけど、時間が経つにつれて廃れ、何か事件があればプツンと切れちゃってね。あるいは、どちらかがどっか遠い所に行っちゃったり、なんてね」

「で……どうしたんですか」

 さぞ無念そうな顔をして横たわっているミケに目を差し伸べてから、私は大倉と向き直った。

「え? ま、全部サラちゃんがやってくれましたよもちろん。ものすごいスピードでミケ猫を攻撃して、まず背中に牙を突き立て、記憶が朦朧としてきたところあんたらが来て、その直後に首にぶすん。大動脈ぷつん。自分なんもしてない」

 ――サラ、あんた、いつの間にそんな。

 これは私の知らぬところでよほど酷いじめを受け、その反動でこんなことになったのだろう。どうにか、サラを正気に戻させねば。玄関に迎えに来てくれて、一緒に散歩してくれて、疲れた時には顔を舐めてくれて……。そんな時のサラに戻さなければ。そして、一緒にまた……。


「あなたの、元飼い猫が、ご立派なお仕事をしてくれましたよ」


 大倉の発した一言が私を逆上させた。

「あんた、いい加減にしてくれる?! ずっと遊んでくれてたと思ったら自分の問題で私の飼い猫をいいように躾けて。その問題も猫やお母さんが悪いわけじゃなくて、全部、全部があんたの勝手な妬みとか幼さのくせに。よりに、よりによって罪のない猫を殺すのに使うなんて! 許されたもんじゃないわよあんた! うちのサラを返して! 返して! 返しなさい! 人の感覚ないわけ? 本当に。人の感覚があるんだったら、サラを私の愛する飼い猫に戻して!!」

 大倉は、何も聞いていないような顔をしていた。目は曇り、止まったアンドロイドのような表情。


「……人の感覚なんて、もうとっくの昔に失くしてますよ」


 彼はポツンと漏らした。

「母から酷い扱いを受けて、自分を認めない中で自分だけが浮いたようなことにされて、野球でも認めてもらえなくて、誰にも好かれなくて……。とっくに、人の感覚なんてないんです。自分は、人とは違うんです」

 ポツンポツンと零れる本音に、私も思わず黙った。急激に身体が冷却されていく。大倉の一人語りは続く。

「……サラちゃんはもうどうしようもありません。既に死んでますし、ごがらすさまになっちまってるんだから。自分がどうこうしなくても、サラちゃんは猫の首に長い牙を突き立て、腹を切り開き、膵臓を貪り食っていたはずですよ」

「……そんな、そんなわけはない……そんな、んなわけあるわけないでしょうがこのぼんぼんあまえたしりあるきらぁひとごろし……」

「警察に通報しよう」

 ふと富岡が言った。

「彼はもう普通じゃない。私たちが対応できる相手じゃないから……。自首、してくれるよね? もう、良いよね? 全部、やり切ったよね? これ以上何かやっても、いらない犠牲とあなたの罪状が増えるだけ。出頭、しよ?」

 彼女は先ほどの喝とは全く違う、母親が赤ん坊に絵本を読み聞かせするような声で丁寧に語りかける。

「ね?」

「それは無理です」

 大倉はしばらく目を閉じて耳を傾けていたが、唐突に拒否の文言を私たちに突き付けた。

「え、何で……」


「これから、あなた方全員には、死の刃を首に受けて頂きます」


「……え、ちょっと、何を……」

「富岡先輩」

 フフッ、と大倉は柔和な表情を浮かべた。ずっとこんな表情ならモテモテだっただろうというほど、優しさに溢れた笑顔。

「今まで、色々なことを教えて頂いて。それは色々な意味で、全て血となり肉となりました。そんな富岡先輩には、感謝の印として、世の中の苦しみと煩悩から解放して差し上げます」

 富岡の顔がみるみる間に青くなっていく。糸で操作されてるように、口元がピンピン引かれている。

「小石さん」

「……何ですか」

「あなたは、単純に嫌いです。加藤さん、あなたもです」

「なっ……」

 小石は平然と受け流すが、加藤は顎を落っことして言葉を失くした。

「宮田さん」

「……はい?」


「あなたは、別にどうでもいい存在だ」


 次の瞬間、これまで寝転がっていたイエロー・アーモンド・アイがスクッと立ち上がり、ぴょぉぉんと飛び跳ねた。高さは二メートルくらいはあろうか、天井擦れ擦れだった。

「……え」

 そして、私の前にピタッと着地を決め。口を大きく開け、牙を剥き出しにした。尻尾をピンと立てて、


「ヴヴヴヴヴヴヴウッヴヴヴヴウヴヴヴヴヴヴヴヴスッヴヴウスヴヴルルルルルルルヴヴヴヴウヴァヴァヴァヴァヴァヴァッヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァヴァガガガガッガガガガガァググググググググァァァァァァァァッツツッッゥツッッッッ!!!!」


 耳を介さず、体中をガチガチに固めていく低い呻き声。

 私は元愛猫に手を伸ばそうとした。

 ――が、手がピクリとも動かない。

 まるで銅像にされたかのように、身体の全てが全く動かないのだ。ピリピリと電気が体表を走っているかのような感覚と、足には痺れと強い張り。髪は逆立ち、腕はプルプルと小刻みに、極限状態まで震え続ける。

「サ、サラ……」

 口が開けたまま吊り上げられたように動かなくなる。


「フフ、クククッ、カカッ、ハハッ、フハハハハハッ、クヒヒヒヒヒヒヒヒッ」


 大倉が可笑しそうに腹を抱える。


「全て、お終いにしましょう。……サラ」


 元愛猫が私の背中に回り込む。かと思えば、一瞬で肩に強い重みを覚える。

 グゥ、グゥ、グゥ、グゥ

 むさ苦しい熱のある息が首筋にかかる。それがかえって私の首筋を凝り固まらせる。


「……ミィヤァオォ……」


 ——あ!

 勘違いだろうか。いや、確かに聞こえた。

 ——間違いなく、あれはサラの心地いい時に出す声。

「さ、もぉとっ、飼い主さんともバイバイだ、サラ。やっちゃいな」

 ——お願い、やめて、サラ、そんなことしないで、もうこれ以上悪いことはしないで、私の猫に戻って、サラ、サラ、サラ、サラ、サラ……!

 首筋にヒヤリとした感触。直感で、サラの牙だと分かった。すすっ、とナメクジが這うようなこそばゆさ。唾液が、首筋を垂れて行っているのだ。

「ヴルルルルゥッ」

 高い声を出した。

 ——高揚しているんだ。

 私はその時、絶望に近い感情を覚えた。頭にあった物、首にあった物、全てが腹の奥底の洞穴へ急降下していく。鉛の重りがずん、と腹の奥底を揺らす。


「行け!」


 サラが頭を強く振り上げるのが空気の動きで感じた。

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