第69話

 ――サラ、そんな……。

 どよんと深い青色の霧が身体を駆け巡る。私はがっくりと項垂れ、コンマ数秒後に訪れる裁きの時を待った。


 ガタン!


「え」

 扉が開く音。そして、大倉が驚いた顔をして硬直した。

「……もう、良いだろう。やり切っただろう?」

 聞き覚えのある声。動きたくてもまだ身体が動かないから後ろを見ることが出来ないが……なんとなく人懐っこさと幼さのあるこの声は、間違いなく。まさか本当に。

「……なのに、この人たちまで殺しちゃあ、何にもならないじゃないか。君の復讐は既に終わってるんだ」

「て、店長。それでも、自分は……」

 後に続く言葉が出てこないらしく、しばし黙り込む大倉。

 ――店長。

 肩に乗った重荷が降り、すんと軽くなった。月の上にいるような心地いい軽さ。

「……あれ?」

 ――さっき、私ちょっと飛び跳ねなかった?

 ガチガチに凝った肩回りをグルグル回してみる。

 ――動く。

 振り返れば、イエロー・アーモンド・アイはソロソロと大倉の足元へ歩いて行った。尻尾は垂れ下がり、低い姿勢で。

「……良かった」

「店長、本当に来てくれたんですね」

「……ああ。そりゃあまあ、店員の危機と店員の葛藤を放っておくわけにはいかないからね」

 照れているのを誤魔化すように、中沢はクイっと銀縁眼鏡のフレームを上げた。

「知っての通り、大倉君、君のことは全部分かっているんだ。猫に嫌な思い出があって、復讐のために就職したも同然だということ。だが、最初の一カ月は何もせず、優秀な働きっぷりで感心していた。……だが、そこからだった」

 よりによって今川圭壱朗の兄だったとは思わなかった、とアメリカ人のように肩をすくめて見せる。

「最初にシャムが死んだ。これに関しては事故だと信じていたが、ハチワレ猫が無残な姿で見つかったのはさすがに看過できない。葉山君が告白したこともあったし、すぐには断定できなかったが君は確実に候補に入っていた」

 そして、ますます確信を深めた、と中沢は言った。

「そして今日。小石君が店長室に来た。『実は全て知ってるんじゃないんですか?』といきなり吹っ掛けてきたことにはさすがに驚いたが、その通りなんだ。店員のことは大体知っている。……必要以上に不安を持っている人間は、沈黙が襲うと勝手に喋り出すものだからね」

 なるほど……。小石はそんなことを言っていたのか。


 そう言えば私も中沢にサラとの話をいくつか明かしたことがある。あの時も、就職してすぐの時店長室に呼ばれて、

「話してくれるなら君の動物にまつわる思い出話を聞きたい。別に無かったり言いたくないのならすぐに業務に戻ってもらって構わない」

 と言われ、そのまま真っすぐ、無言でさりげなく私と眼を合わせてくる。本当ならすぐに店長室を出たいのだが、なぜかそれが出来ず、結局バイクに轢かれたところまで話すことになった。


「まあ、そういうことでね。君が復讐をすることは分かっている。そして、もう総仕上げの段階になっていることも。朝、予告状がポストに届いていた。楔形文字みたいな変な字で、『今日、全てを終わらせる』とゴガラスノミギケンシ殿からね」

「……」

「なぁ、大倉君、君はやっぱりどうしてもそんな悪い人間には思えないし思いたくない。それこそやはりこれほどたくさんの間違いを犯してしまったわけだけれども、実際はかなり葛藤していたんじゃないかい? それでわざわざ見つけてくれと言わんばかりの仕掛けをしたんじゃないのかい?」

 大倉が唇を噛んだ。歯に血が滲む。

「……全部知ってるんだ。お母さん、憎いな。猫も憎いだろう。それでミケ猫を殺し、君は目的を果たした。……目的、果たしたんだろ? まだやり残していることでもあるのかい?」

「……いや」

「なら、もう無意味なことはやめないか? これ以上意味のないことをしたって、どのみち警察はすぐに君に辿り着くんだ。今川の家庭関係なんかからすぐに辿り着く。いや、すでに辿り着いているかもしれない。なら、余計な罪状を増やすのは得策かい?」

「……でも」

「知ってる。君の性格からして、どうせここにいる面々を殺した後、自分の胸を刺して死のうと思っているんだろう?」

「……」

 擦り傷をいじられたような顔をした。図星だ。

 私たちは、ただ無言で二人の会話、意思のキャッチボールに引き入られていた。

「君は、復讐のために猫を殺した。その後に死んでしまったら、果たして復讐は成功したといえるのかい? 色々背負うものから逃げてしまおうだなんて、それこそ両親と飼い猫に屈してしまうことなんじゃないかと思って仕方がないけど、どうだい?」

 大倉は確かに逡巡していた。

 中沢は、それを、少し気を抜いたら泣いてしまいそうなほど優しい表情で彼を見つめていた。


「……せん……した」


 やがて、大倉は結論を出した。

「どうしたんだい?」

「すみません……でした」

 か細い声だった。耳を澄まさないと聞こえないほどの。

「……良いんだよ。それで良いんだ。マハトマ・ガンディーの言葉に『もし過ちを犯す自由がないのなら、自由を持つ価値はない』というものがある。これがとても大好きでね……」

 フフフッ、と不思議な包容力を持つ笑顔で、中沢はゆっくりと、息もつけないような顔をした大倉に近寄った。

「……もう一度やり直して、またうちに戻ってきてくれ。そしたら、喜怒哀楽を持ったたくさんの動物を、足枷を自力で外し、逆境を切り抜けた大倉君の力で幸せにしてやってくれ。……亡くなった動物たちのためにも、心優しい君なら出来るな?」

「は、はいっ……!」

 力強く言い切った大倉はへたりと座り込んだ。両目を両手で抑え、地面に伏した。


 そして、皆が見守る中、おうおうと大きな声を出しながら大粒の涙を一生分流した。

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