第66話
――これで、リヒトをグサッと。
首にハサミを振り下ろす練習を丹念にしてから、大倉は階段をそろりそろりと身を屈めて降りてゆく。
ピロリロリロリロリロリン♪
と、ちょうど何か音が鳴った。
――見つかったか?
身を丸くするが、奥のキッチンにある電子レンジの音だった。
「ごめんね、すぐ戻ってくるからね」
母の声と、布の擦れる音。
――今しかない。
大倉は階段を滑り降りた。そのままこたつの中に潜り込む。リヒトはさぞ心地よさそうな眠りに落ちていた。
――しめた。
リヒトの首根っこを掴み、すぐさま階段を上がっていく。そして、多機能トイレほどの大きさがあるトイレに裸足のまま入った。
「起きろ!」
片手で首を掴んだまま、もう片方で体感マッハ五十のビンタを浴びせる。
「ギャッ?!」
虚ろな目をしていて、自分の身に危険が迫っていることも知らなかったリヒトは一気に目覚めた。
「殺してやる!」
なるべく高いところから、大倉はリヒトをトイレの床に叩き付けた。素早く左手で地面に落ちていたハサミを拾う。そして、一気に振り下ろす――。
「壮紫!!」
トイレの開き戸がフルオープンで、仁王立ちしている母の阿修羅のような眼光を大倉は真に受け、思わずハサミを上げてしまった。
「……ミャァオ」
リヒトが安堵の声を出して、母の元へと走っていく。
「……このクソババアめ、畜生よくも」
「あんたこそ、アタシのリヒトをどうするつもりなの人でなし!」
その後のことは思い出そうとしても頭が痛くなるばかりだった。
次の記憶は、真っ暗の空間の中で一人頭を抱え、すすり泣く自分の姿だった。
その次の記憶は、馴染みのない家の布団の中で目覚めた時のものだった。だが、見覚えがある。線香の臭いが布団に染みついていた。
その日から、祖父母宅で、全く違う学校での生活がスタートした。
部活はやはり野球部だった。野球部ではそもそも人に馴染むことすら無く、チームプレーからは程遠かった大倉の姿に熱血漢だった顧問はろくに試合にも出してくれなかった。
チームの中でも、唯一の友・宇野元気以外、ほぼ誰も接してくれることは無く、食事などに誘われたとしても大抵断っていた。
やがて学年が上がるにつれ、県大会でも上位に進出する実力となった野球部員となれば、基本誰もがモテた。大いにモテた。バレンタインデーにチョコレートが三個以上来なかった奴は僕を除いていなかった。大倉だけは、一個も来なかった。そもそもこちらの中学に来てから、結束が強いクラスメイトと口を利いたことは授業以外で無かった。
その経験から、大倉は三年になる少し前暗いから女子にモテることを目指しだしたが、富豪の家のくせして風貌は清潔感ゼロの枯れ木で、誰とも口を利くことも無かったため、計画が成功するかどうかは誰に目にも明らかだった。
大倉は「臭くて気持ち悪いのにカッコつける奴」として余計に避けられることとなった。
高校は、祖父母宅の隣の市にある公立高校を選んだ。特段偏差値が良いわけでも無い。
特に波乱は無く高校生活は進んでいく……はずだったが、ここに来て大倉は美容に気を遣うようになり、顔こそ良くないが、野球部生活である程度整ったスタイルになったことで、初めて彼女が出来たのだ。名前は
結局その時は猫アレルギーということで誤魔化したが、感情を表さない性格も幸いして、二カ月ほどで別れた。
大学は電車で四十分ほどの場所にあるところを選んだ。産業大学で、どこに入ろうかと迷った時、ふとリヒトのことが思い浮かんだ。
そこで大倉はペット関連科を受講することにした。どんな形であれ、リヒトと、その取り巻きたちに危害を加えるために……。
ある程度の多さの仲間がいたが、次々とみんな落第していく。不思議と、大倉は残っていた。生まれつきの器用さや、大富豪の家に生まれて家庭教師などを雇ってもらえ、ある程度の勉強が出来たこと、小学校五年生まで動物が好きだったことなどが勝因だったのだと思う。
三年の後半、進路を決める時。大倉は迷わずトリマーを選んだ。猫を様々な方法で痛めつけることが出来るし、猫以外の動物のケアをすることだって出来る。男性のトリマーは少ないから、誰かからカッコいいと思われるのではないかという淡い期待も持っていた。
かくして、それは現実となった。
二人目の彼女が出来た。語学を専攻している
大学四年の後半になり、就職先が決まった。地方にあるペットショップチェーン、ショップ・ミラクルアースだった。そこのサロンで勤務することが決まった。場所は、自分の故郷である新津市。真っ先に、サラに再び会うことが出来るのだろうか、というのが思い浮かんだ。
美湖は証券会社に就職することが決まり、お祝いとして美湖の家で一緒にご飯を食べることになった。美湖の家は初めてだった。
ドアを叩くとすぐにブチ猫を抱っこした美湖が出てきた。あの時の、ヒュッと顔の血が胴体へ引っ込んでいく感覚はよく覚えている。
結局家にあるハサミでトリミングをすることになったが、あまりにその猫を見るのが嫌で、手が震え、とんでもない出来栄えになりそうなことは確かだった。
だが、良く分からない美湖は無邪気そうに愛猫と話している。
そこで、大倉は最悪の展開を演出してしまった。
彼女の愛猫の首筋に、ハサミを真上から刺したのだ。
◆◇◆
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