第6話

 やっとこさで私はロッカールームに入った。

 まだ、赤黒いしみは消えていない。それどころか、腹を膨らませたコバエの死骸まで折り重なっている。

「あらら、遅かったじゃない! どうしたの? 寝坊した?」

 加藤が腹をブルンブルンと揺らしながら近寄ってきた。

「それが……別に寝坊したわけじゃないんですけど……」

「じゃあ何よ? もう開店時間間近。もちろん咲月が一番最後。何かあったわけ?」

「……それが」

 言っていいことなのか言ってはいけないことなのかがよく分からなかった。言ったところで信じてくれるかは分からないし。

 第一、今の加藤はご機嫌斜めみたいだし。

 ――けど?

 一応、言ってみる価値はあるかもしれない。


「加藤さん、ごがらすさま、って知っていますか?」


「ごがらす、さま?」

 一瞬目を見開いたが、すぐに顔を元に戻した。

「さぁ、知らない……? 何、それ。烏?」

 明らかに顔は青白くなっている。

 ――烏、か。

 と、私はあの烏のことだったのだろうかと考えを巡らせる。

 だが、ご加護を、というようなことを唱えられておきながら、悲痛な声を上げて墜落してしまうというのは理にかなわない。

「……まあ、ひとまず仕事。早くしないともう開店なのよ。一人いないだけで私と小石の体力はかなり削られるわけ」

 そのまま加藤は陳列棚へと移動していった。

 ――やっぱり。

 なんだか、のらりくらりとかわされているような気がしてならない。




 今日はキングのトリミングの日だった。

「浅田さん、この子、お願いしますね。今日は確か、見学の方がいたはずなので未来のトリマーを育ててください!」

「はいはい、了解。任しといてください」

 トリミング嫌いのメインクーンは浅田の胸の中で、どうにか逃げ出そうと身体をくねらせるが、それも無駄な抵抗ですぐさまトリミングテーブルへ連行される。

 浅田は、富岡の下で培われたさすがの腕で、キングの長毛を減らしていく。

「はい、カットはまあこんなもんかな。冬だし……」

 キングは、早く帰してくれ、とばかりに腕を舐めている。

「……あらら、ちょっとちょっと。そんなに腕舐めちゃダメだよ」

「この子のクセみたいなのかな? ちょっとアレなんだよね」

「菌でもついてたらダメですからね……」

 私の心はポワポワ弾み、朝の恐ろしい出来事は記憶の隅に追いやられていた。


 ――あれ、キングなんか殴られた跡みたいなのが……。


 浅田に視線を向けたが、彼は気づいていないようで、ウキウキしながら毛を散らしていく。

「ブワァックション!」

 途端に肩がビクンと上がった。

 振り返れば、犯人は大倉だった。

「ちょ、なんだ壮紫。風邪か?」

「大丈夫です……ブワァックション! ズズズ……アレルギーかな」

 浅田は怪訝な顔をしていたが、とりあえず、と大倉に指示を出した。

「この子風呂に入れといてくれ」

「え……」

 浅田は彼の反応を聞かずに、富岡の手伝いに行ってしまった。

 私は浅田についていこう、という突発的な反応を抑える。大倉は、シャンプーなどが置いてある棚をじっと見ていた。

「あの、大倉さん……」

「あ、はい」

 うたた寝から覚めたように、大倉はパッとこちらを向き直り、キングを抱えて小走りで浴槽へ向かった。

 私も大倉を追おうとした、刹那。


 ガシャン


 そこにいた者全員がビクリとして、恐る恐る天井を見た。

 だが、細長い電球が吊るしてあるだけの天井には何も無かった。

 ――いや。

 一番端、キャットタワーの頂上付近にある電球がかすかに揺れている。

「ちょっとオウちゃん!」

 二階から、鳥の担当のスタッフの怒鳴り声が聞こえた。

 ――オウムが脱走したのかな。

「ブワァックション!」

 私はコキッと音が鳴った首を元に戻し、キングのトリミングに視線を戻す。

「さっきの、なんだったんだろうね」

 鳥が止まっただけ。何の違和感もない話だが、何かが、どこかに引っ掛かっていた。

「さあ」

 言葉少なめに返してくる。細長い身体をしておいてこの無口さ。顔もまたおとなしそうな顔をしている。学校では一体何をしていたのだろう。

「何か、ペット飼ってる?」

「ウサギを一匹」

 少し気まずい雰囲気を打破したくて、私は切り出した。

「へぇ。学生時代とかどうだった? かなり無口だけど」

「……別に」

「部活は?」

「野球、ピッチャー」

 ちょっとビックリした。このヒョロヒョロが野球。

「へぇ、サウスポーかぁ。すごいなぁ、モテたんじゃない?」

「それは……フ、ハ、ハァ、ハァッ……」

 私は条件反射で身体をぎゅっとかがめた。



 ◆◇◆



 ごがらすさまの件は、未だ信じられなかった。そもそも、あれが本当のごがらすさまだとも思っていなかった。

 あんなに異様な目をしているとは思わなかったし。

 それでも、ごがらすさまではないとしても、確かに自分の意思を汲み取ってくれているな、とは薄々感じていた。

 それが、今日のあの出来事である意味確信に変わった。

 ――なんだか、ごがらすさまと、自分は似ている。

 そう思う時がある。常に張り詰めたような、怒りを持っているのだが、どこか寂しそうな気がする。


「ねぇ思わない? そうでしょう? ちょっと雑すぎるのよ。こんなできないのを職場で使っていいと思ってるの? 猫はいくらでも傷つけたらいいわよ。でもあんた、犬を傷つけるのは良くないと思うわ。ねぇ? 思わない?」

 隣から、特等床山に、罵声が降りかかる。

「お前は何も気にするなよ、本当に。何も気にしなくていいからな。いざとなったら、俺の鞄の中の“あれ”で殺しちまえばいいから」

 面倒見の良いが、その分面倒くさくもある先輩が言ってきた。

「……あれ?」

「まあ、ゲームのグッズだけど、結構切れ味あるっぽいぜ」

 ニヤリと笑う顔に、悪魔を見た気がした。


 あの謎の生き物の素顔は一体何なのだろう。

 そして、このペットショップにはこれからどのような厄災が降りかかることになるのだろう。

 やる側なのに想像がつかなくて、勝手に身体がブルンと震えた。

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