第5話
今日もまた寒い日になりそうだ。バスの車内との気温差に、身体の全細胞が悲鳴を上げる。
「八時なのにこの寒さ……」
空は四日連続の曇天だった。見上げるだけで身体を重くするような、分厚い雲。
ぶつぶつと呟きながら、私はロッカールームへと向かう。
――と、した刹那。
「ごからすさまごからすさま、どうかどうかわたしにふくしゅうのごかごを」
拍子の無い念仏のような、淡々とした声が聞こえてくる。
「どうかわたしにふくしゅうのおちからぞえを」
それから何も聞こえなくなった。
「何、あの声……」
声が聞こえたの、私がいる場所とは反対方向だ。恐らく倉庫の辺りだと思われる。
声質は本当に無機質で、何一つ意思を含んでいない。まるでロボットのような。もちろん、一切の聞き覚えが無い。
「……何だろ?」
――ごがらすさま、って一体何?
どこかで聞き覚えのあるような気がするが、脳内を探っても出ては来なかった。
――復讐って、どんな? 誰が誰に?
喉に、毒性のある物質が溜まっているような気持ち悪さを感じる。呼吸が知らず知らずの間に早くなっていた。
それでも、私は知的好奇心には勝つことが出来なかった。
何か、とんでもないものが私のことを待ち受けているような気がして。
「わっ!」
倉庫の方へ歩き出そうとするとすぐに、ロッカールームへ猛スピードで誰かが突入していった。
「誰?」
黒い影。黒いコートを着ている人物だろうか。
手前にある、シャムが眠る墓に少し目をかけて、ロッカールームの中を覗き込んだが誰もいない。
――何?
そのまま、私は倉庫の方へ息を殺して歩き続ける。首筋に脂汗がふつふつと浮かび上がってくる。それが下着に付着して、身体と下着が密着するねっちゃりとした気持ち悪い感じのおかげか、胸の中はかなり黒かった。
刹那。
ヴヴヴヴヴヴヴヴッ……ヴルルルルルル……ッ
全身の毛が一斉に逆立った。
あの角の反対側に、何かがいる。
――犬?
だが、聞き慣れた犬の声ではない。もっと低く、冷たく、禍々しく、恐々しく、そして恨みがましい。
「グガァァァッ、ガアアッ、ガアアアアッ!」
と、焦るような、唸るような音。冬なのに、珍し……。
「ヒャッ!」
と、そんな悲鳴とともに、空から降ってきた真っ黒い矢が私の前髪をかすめた。
――いや、矢じゃない。
烏だ。
烏は目を苦しそうに歪め、ガアガア喚きながら羽をバサバサとばたつかせる。
「ググッグググガアァッ!」
奥深い喉から真っ赤な液体が、ブシュッと噴水のように飛び出した。すぐにビシビシッとアスファルトにしみを作る。私の白いスニーカーにもそれは飛び散り、真っ赤な斑点を生み出した。
つい三日前にも臭った、鉄の臭い。
「ガアアアアアアアアアッ! グガアアアアッ! ガガァッ!」
烏はなおももがき続けるが、やがてその動きは小さくなり、ついにはポト、と首を地面に落とした。
私の脳は、明らかに不吉なこの真っ黒い鳥にどんな反応をしていいのか分からず、ただ指先がビビビビビと痺れているだけ。
ピュルルルゥン
北風が真正面から顔面を押さえつけるように吹き付ける。真っ黒くて、所々ボロボロになっているたくさんの羽も、同様にひらりと宙を舞った。
ヴルルルルルルル、ヴグルルルルルルル、グヴヴヴヴヴヴ
まだ唸り声が聞こえる。烏の拍動と事前に打ち合わせをしていたかのように、ピタリとまたその音が、私の鼓膜をビリビリに引き裂き、内部の器官をガクガク震盪させるのだ。
それと同時に、今度は腐った水のような臭いが嗅覚を刺激する。喉の
もはや、私にこの曲がり角の向こうを覗く体力は残っていなかった。
足はガクガクガクガクと激しく痙攣し、体重が前に行って何度もこけてしまいそうになる。
心臓は完全に液状化。脳は機能停止。
知的好奇心なんてものは皆無だった。
ガチガチガチ、ガリ、ガリガリガリ、ギリリリリリリ
今度は硬いものが打ち付けられたり、擦すり付けられたりするような音。
――歯ぎしり?
聞いているだけでイライラして、その場から逃げ出したくなるはずなのだが、潰れた心はもう何も感じていない。
ただ、確かな恐怖心を持っているだけ。
ジャーッ!
そして、蛇の威嚇するような音が聞こえた。
刹那。
ザワザワザワ、と畑に生えたたくさんの葉が一斉に強く揺れた。どこかのホラー映画のような展開に、私の身体は一瞬で硬直した。
ヒィュン!
新幹線が風を切るような音。
それと同時に黒い影が私の隣をものすごいスピードで走り去っていった。
風は止み、辺りには平穏が戻った。気づけば烏もどこかへ飛ばされて行っている。
――夢か。
そうだ、夢だ。悪い夢を見てしまったみたいだ。全くこんなところで何を。早く仕事に行かなければいけないのに。
いつの間にやら脱力した身体で、ベチッベチッと頬を叩く。
が、そこではらり、はらりと、宙で回転しながら落下していく一枚の黒い羽を見て、再び私の全ての筋肉がガッチガチに固まった。
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