第4話

 無事に埋葬を終え、私たちは仕事に入ることにした。

 ……が、何とか切り替えて仕事に励もうとする犬猫担当とトリマーたちの身体をガチガチに固めるものが、ロッカールームの入り口にはあった。

「……これって、あれですか」

 小石が引き攣った顔をして問った。

「シャムの、かな……?」

 私のロッカーの真下ほどにある、赤黒いしみ。

「まさか、そんなわけないでしょう。ほら、なんか、石油とかそういう黒い液体がこぼれただけなんじゃない……?」

 加藤が、少し震えつつも明るく言った言葉は、私たちの根底にある恐怖心を揺すぶっただけだった。

「そんなもの、来たことありましたっけ……?」

 大倉のとどめの一撃で、私たちの戦意はそこはかとなく失われた。

 ヴーン

「キャッ!」

 飛んでたのはこんな寒い時期にどこから湧いてきたのか知れないコバエどもだった。

 赤黒いしみの周りへと一直線に降りてゆく。鉄臭い臭いが鼻をすんとかすめてきた。

 目を凝らしてみれば、少しぶよぶよした赤いものが、ハエの飛んでいく先に落ちていた。




 シャムが死んだ、との趣旨の紙が、無愛想な事務方によって貼り出され、気分はどん底まで落ちていた。

 それと同時に、脳にかすかなざわめきが聞こえるのだ。そう、かすかに、ざわざわざわざわ、と、テレビの砂嵐のような嫌なざわめきが。

「……加藤さん、本当に気のせいですかね?」

「まさか、そんなわけないって。可愛すぎて、死んでも死ねない猫を殺すような残忍な人間がどこにいるって言うのよ」

 加藤は大きく手を広げて言う。

「いや、でも、確かに首のところに……」

「はーいはーい、この話はもうおしまいね。おしまいおしまい。そんなこと考えたって仕方ないじゃない、ね?」

「まあ、そうですけど……」

「おっけ、さっさと仕事仕事」

 それだけ言って、加藤は商品を並べに、せっせかに飼育室を抜けていった。

「クーン、クーン」

 悲愁な顔をしたミケが聞くだけで切なくなるような声を上げる。はぁ……と、長い溜息をついた。




 どうしても胸の棘に刺さったものが取れなくて、私はサロンへと足を運んだ。

「鈴奈さん……」

 一番奥のトリミングテーブルで、ショップのポメラニアンのカットをしていた富岡はすぐに気づいて、いつも通り砕けた笑みを浮かべた。……が、それは一瞬のことで、こちらの纏う雰囲気に気付くとすぐに顔を引き攣らせた。

「どうしたの、咲月ちゃん、珍しい」

「鈴奈さん、朝のシャムに、違和感ありませんでした?」

 趣味でボディビルをしているという富岡の筋肉がこわばった。

 淀んだ空気が二人の間に溜まっていく。

「あった。首、でしょ?」

「そうです。あれ、何の跡ですか?」

「……あの子に首輪とかリードを付けさせたことはここ一週間無かったはず。それよりも太かったし……分からない」

 一番聞きたくない返答が返って来て、私の身体もこわばり、肩が少し上がった。

「まあ、考えすぎない方が良いよ、たまたまそんなのがあっただけだって」

 引き攣った笑みを浮かべて、顔の前で手をひらひらさせるが、あの跡をたまたまで片付けられるとは、私も富岡も考えてはいない。


「いやぁ嬉しいですねぇ、これは加藤の決定的な汚点ですよ」

 と、元の場所に戻ろうとすると、いつの間にやら丸々とした背中。

「大きな事件には小さなミスやヒヤリハットがものすごく積み重なるって言いますからねぇ、割れ窓理論ですよ。これはちょっと猫売り場心配ですねぇ、これからどんどん消えてくんじゃないですかぁ?」

 サロンで、若いくせに職人のような渋い顔をした大浪おおなみを相手に、葉山はマシンガンのように加藤の粗探しをしている。

「もうね、最初っから本当に私は猫が大嫌いなの。そして、それと同じくらいに加藤厚子という人間が嫌いなわけ。あの人ね、同期なんだけど最初に犬の扱い方をかなりこっぴどく非難されてね。あっちも右も左も分からない状態だってのに言われて。私の方が学歴も何もかも上って言うのにね。おかしいと思わない、大浪君?」

 大浪は眉を顰め、早く帰ってくれ、とばかりの態度を取っている。

「加藤は本当に意地っ張りだし高圧的なのよ。あんなデカい態度のわりにはめんどくさいことはすぐに逃げる、後輩に任せるだけだしね。アタシみたいに背中で語れないのよ、全く。猫に対する愛情もどこに行ったのやら」

 葉山は一度言葉を切って、ニンマリと鼻の穴を大きくして、真剣そのものの目つきでトリミングをする大浪に唆した。


「実は、私今回の事件ね、加藤の仕業だと思ってるのよ」


 私の、比較的長い方の導火線はここでプツンと切れた。

「葉山さん……」

 想像以上にドスの効いた声に、葉山は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに下唇を突き出し、挑発的な表情を浮かべる。

「加藤さんはそんなに悪い人間じゃありません! 後輩教育もしっかりしているし、仕事に対する態度も猫に対する愛情も一級品ですっ! 葉山さんなんかよりもずっと背中で語ってくれているんです! そんな加藤さんがどうして、どうしてそんな猫を殺すんですかっ?!」

「んん? なら聞くけど、加藤はなんで何も聞かされてないのに数珠なんて持ってきてたの? 何でさっき、あんたに対してはぐらかすようなことを言っていたわけ? 加藤に何かのアリバイがある? どうよ、説明してみなさいよあんた。証拠を示してみなさいよ?」

 こちらを嘲笑うような表情で、葉山はずいと顔を近づけてくる。

 私はぐっと言葉を詰まらせた。

「どう? 何か出る? 出ないわねぇ」

 くっさい口臭に、嗅覚が悲鳴を上げる。

「分からないなら、さっさと出ていきなさい。そして、加藤の本性を見ておいで。あんた、きっと絶望することになるわよ? 覚悟はきっちりしていなさい」

 オホホホホホホと高笑いする女王蟻を抑える手段はどうやら見つからなかった。

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