第3話

 ガタガタガガタガタガタタガタガ

 歯がカチカチ鳴っている。

 果たしてどのくらいの時間私はこの場に立ち続けただろう。

 十一月中盤、北風はますます冷気を含み、体温を刻一刻と削ぎ落としていく。早朝の風はさらに酷い。

 巻いてきたはずのマフラーも、気づいた時には田んぼの中に沈んでいた。

「……」

 ずっと見ていても、シャムは動かない。

 心の中で、どこかの拍子でふっと目を覚まして歩き出すのではないかという意識があるからか。足を止めて一体何分間が経っただろうか。


「宮田君」


 淡い青色の別世界へいってしまいかけていた意識が、スーッとよく通る、のびやかな声で現実世界に戻った。

「これは、どういうことだい?」

 中沢は、眼鏡をかけ直し、言った。

「し、シャムが、シャムが……」

 来た時と一ミリも変わらぬ位置でだらんと横たわるシャム。その痛ましい姿を両目で直視すると、途端に膝の力がガクンと抜けた。

「しゃ、シャムが……死んで……あぁっ、ああっ、あああっ……」

 このショップに来て二年で、初めて味わった悲劇だった。冬将軍に閉ざされかけた喉からは、途切れ途切れの嗚咽が止まらず、ここに来て初めて大量の涙が私の顔を濡らしていく。

「どこからか、脱走したんだろうね。仕方ないよ、これは。あと三十分くらいすれば他の店員も来る。その時に、みんなで葬ってやればいい」

「て、てんちょ……本当に、少し目を離した時に……本当に、す、すみませんでしたっ、私の不手際で、本当に、私がちゃんとしてたらこんなことにはならなかったのに、あぁっ、グズッ、あ゛あ゛あ゛っ、ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛……っ!」

 涙に鼻水が混じった液体がアスファルトを漆黒にしてゆく。涙で濡れた顔が北風で、氷風呂に浸かっているかのような痛みを訴える。

「君のせいじゃない。いや、君の責任もあるかもしれないが、それだけじゃない。大事なのは、経験をしっかりと生かすことだ。君の猫を大事にする精神、めちゃめちゃ良いよ。だから、これからもそれを続ける。それが、宮田君のシャム猫への最大の弔いだと思う」

「は、はい゛……グズッ、ズルルルズルッ」

 店長の言葉の一言一句が、私の核を少しずつ温めてくれている気がした。

「それじゃあ、店に入ってシートを取ってこようか。お墓に入れてやらないといけない。また、次の猫も探さないといけないしね。……ん?」

 それでも私は立ち上がることが出来なかった。立ち上がろうとすれば膝がカクンと折れ曲がり、顔面からアスファルトにぶつけてしまう。何より、液状化した胸の中を直すには、もう少し時間が必要だった。

 ポツン、ポツンと、また雨が降ってきた。シャムの短い、儚い命を表すようだった。




「そうか、シャムが見つかったのね……寒かっただろうにねぇ、可哀想に」

 加藤は、数珠を手にはめ、目を閉じた。

「残念だなぁ、結構懐いててくれたのになぁ……」

「富岡さんは結構引っかかれてたじゃないですか」

「でもさ、やっぱり可愛かったよ……」

 富岡は、助手の浅田にツッコまれながらも、悲哀な目で室外機に横たわるシャムを見つめている。

 他のトリマーや犬の担当も、祈りを捧げたり、十字を切ったりしていたが、ショップに入って日が浅い、大倉や宇野、小石はただ無言で、じっと死体を見つめていた。

「それじゃあ、ちょっと手伝ってもらって、お墓に入れようか。一階の開店時間も近いしね。はい、それじゃあ」

 数人が手袋をはめて室外機の前に集まる。

 私は、シャムを移動させようと腰を入れた。

 と。


 ――え、毛が……?


 隣の大倉や向かいの浅田は気づいていないみたいだ。だが、確かに、少しだけだが、毛がぺちゃんとへこんでいるところがあるのだ。

 まるで、細長い紐を当てた時のような跡が微かに出来ているのだ。首の真ん中あたりには、紐に付いていた何かで押し当てられたかのように、長方形が三つ並んでいる。

 ――気のせいかな?

 だが、シートを持たずに歩いている富岡が、目をタカのように鋭くしているのを見て、私は確信を深めた。


 仮説が当たっていたら、という最悪の展開を考え、私は戦慄しながらもロッカールームの入り口近くにある小さな塚まで運んできて、そっとシートを降ろす。

『来世で良き家族に巡り合いますよう』と書かれた石碑の元にある土をザクザクと、シートを持っていないスタッフがスコップで掘る。

「……みんな、聞いてほしい」

 中沢がそっと切り出した。

「これを最初に見つけた宮田君はね、自分の責任だって言って、ものすごく泣きじゃくっていた。宮田君と同じ思いの人が何人もいると思う」

 少し恥ずかしくなるが、泣きじゃくるのが当然なのだと理性が諭す。

「だが、君たち一人一人の責任はそこまで重くはない。シャムは恐らく、排気口などの細い穴を通って脱走したのだろう。これは、誰のせいでもない。仕方のないことだったんだ。だが、ただの事故で片付けず、その責任感を持ち続け、今後の職務に生かしてほしいと思う。少しでもたくさんの動物が、良き家族と巡り合えるように」

 真剣に話す中沢だが、実はそれが、ただの事故ではなかったら、と考えるとふつふつと鳥肌が浮かんでくる。

「それじゃあ、みんな、シャムの冥福を祈って、黙祷」

 ピュルルルル、と時を合わせて風が吹きつけてくる。

 祈りの沈黙が、私には、恐怖からくる沈黙であるような気がしてならなかった。

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