第2話
「え? いない?」
加藤は、訝しげに私の顔を見回してくる。
「本当です。ちょっと探してみます?」
「咲月、説教から逃れたいからそんなこと言ってるんじゃないだろうね?」
「そんなわけ無いじゃないですか」
雷はだんだんと過ぎ去り、雨が屋根を突く音だけが私のBGMとなる。
「ほーいシャム、出てきなさーい」
シンクの中、ゲージの中、引き出しの中……。開きっぱなしだったゲージから逃げ出したのだろうか。
猫たちは不思議な目でこちらを見つめている。
「どこに行ったか、知らない?」
猫たちはきょとんとした顔をして辺りを見回す。
唯一、ブルーだけが一点をじっと、見つめていた。
「何見てるの?」
だが、視線の先には何も無い。シンクの上をずっと見ているだけ。シンクにはハサミと先ほど陳列棚に並べたエサが無造作に置いてある。
どこか、ロシアの風のような冷たいものを私は青く細い瞳から感じた。
「はぁ? 何がよ。あんたみたいなババアに言われたく無いわ!」
「それはこっちのセリフよ! アタシよりも太ってるくせに!」
と、犬の部屋と繋がっているドアでは加藤と
「あんたはね、失礼だとは思わないの? こっちは大事に育てている猫が消えて大変だってのに!」
「そんなの知ったこっちゃないわよ! 猫売り場の分は元々犬が全てを占めてるはずだって言うのに……何でこうなってるわけ?! さっさと猫売り場なんて潰れてしまえばいいのよ!」
――元々犬が全てを占めるはずだったというのは、明らかな嘘だけど。
「……ちょっとちょっと、君たち。毎度のことだけど、そんなに大声出したら犬猫が驚くことも分からないの? 二人揃って長い間いるというのにねぇ……」
と、スーッと通る声が二人の言動をピタリと止めた。
「シャム猫がいないんだって?」
スーツ姿の中沢が、ずれた銀縁の細眼鏡を直しながら言う。
「はい、店長……すみませんでした」
いたずらがバレた子供のような顔をして、加藤はしょぼくれた。
「小石君から聞いたんだけども、誰も中にいなかった十分ほどの間に消えたんだね?
「はい、多分……」
いきなり話を振られ、私は慌てふためきながら答えた。
「いや多分って……まあいいや。とりあえず、どのみちもう閉店時間だし、お客さんもそんなには来ないだろうから、トリマー陣もほぼ総動員で探す。オッケー?」
「了解、しました……」
葉山は勝ち誇った顔をして、項垂れる加藤を見ていた。
「……トリミングサロンは、いる気がしないですね」
小石が言った。
「
ミラクルアーススタッフのアイドル、
「でも、今日はサロンにシャムは来てないね。シャムが最後に来たのは一週間前だ」
一週間前というと、何があったっけ。
「確か、
「これ以上は言わないでください」
大倉にしては強い口調で、浅田の言うことを遮った。
「そうか」
浅田にしても気分を損ねたような表情を浮かべた。
――ん?
いきなり脳が冴えわたった。右と左の鼓膜が、確かに私の脳に違和感を訴えている。その証拠に、胸中には金属の重りがドスンと乗っかったような感覚が微妙にきつい。
「咲月ちゃん、どうしたの、そんな眉をヒクヒクさせて。大丈夫だって、すぐ見つかるから」
いきなりで心臓がドキンと跳ねたが、今はそんな感じではなかった。
「……あの、浅田さん」
「ん、どうしたの?」
何だか唇がムズムズする。浅田と直接話す機会はよくよく考えたらあまりないな……ということを考えながら私は言った。
「ずっと、なんかザーっていう、水が勢いよく出る音が聞こえるんですけどこれって雨ですか?」
「確かに」
ザァァッー
雨の音に紛れて、確かにすぐそこから聞こえる。
「これじゃない? 浴槽の。何でだ、水を出しっぱなしにしてんのか? ちょっと
「あっ、浅田先輩、今は洗浄してるんで開けちゃダメです!」
裏からいきなり駆けてきて、浅田の手をバシッと払いのけた。
「洗浄? そんなことやったことないぜ」
浅田は右の眉を吊り上げ、上唇を噛んだ。
「あ、それはあの、そういう機能があったので使ってるんです。ちょっと浴槽が汚れている気がしてたんで……」
大倉は彼から目を逸らすように、黒目を右上に向けた。
「……確かに、あるにはあるな。だが勝手に使うのはよしてくれ」
「はい」
だが、反省の色は微塵も見ることが出来ない。
「洗浄はあとどれくらいなんだ、宇野」
「えぇぇ? いやそんなの知りませんって。壮紫が勝手にしただけでしょ」
よく焼け、体格もがっぷりしているワイルドな男が応えた。宇野は犬担当だが、トリミングも出来るため、中学時代の野球部のバッテリーでサロンにも来ている。
「そうです。彼に責任はありません」
宇野によると、高校が分かれ、自分だけ控え捕手でも甲子園の土を踏んだため少し溝が出来たんだそうだ。
「そうか。じゃあ大倉、責任を持って片付けてくれ」
「はい」
それ以外のところには特に問題は無かったようで、次に行くことになった。
が、私の頭には、浴槽のねちゃっとした何かの触感がずっと脳にごびりついていた。
そこから、トイレや二階の魚・爬虫類・両生類・鳥の売り場なども、蟻一匹も取り逃がさないように探したが、とうとう出てくることは無かった。
雨は一晩中続き、私の心の中の黒雲はどんどん厚くなるばかりだった。
「フワァッ……」
バスを降り、スタッフ用ロッカーへとぐるりと店の周りを回る。
目がしょぼしょぼして、瞼が重い。目元には、小さな鉛玉が入ったような感覚を覚えていた。
「日曜日なのに早出当番はキツイなぁ……」
――え?
脳の全ての活動が一度止まった。
――見間違い?
いつも見る景色に、紛れていたような気がしたのは、気のせいか?
恐る恐る、右目を二台の真っ白い室外機に向ける。
刹那、脊柱に一本の細い氷柱が突き抜けた。
「……なんで?」
私の両目は確かに、室外機の上にだらんと横たわっている灰色の物体を認識している。
近寄ろうとしても、足が完全に硬直していて使い物にならなかった。
「……シャム」
真っ赤っかな舌をだらんと垂らし、黒目は一切見えない。美しかった毛には水滴が刺さっていて、毛色が生前よりも濃くなっていた。
ヴォォォォン
室外機の音だけが規則正しく鳴り響く中、私は切なさと、やるせなさでしばらくこの場から動けなかった。
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