第一章・宮田咲月
第1話
『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。この世の猫は全部消えてしまえ。全てを滅茶苦茶にしやがって。全てを奪いやがって』
ここまでシフト表の裏面に殴り書き、それでも腕は我慢できず、シフト表をビリビリに引き裂いてしまった。
もうじき、兄がコチラへ仕事ついでに駆けつけてくれるらしい。それでも、腕の震えは治まることは無かった。
――母さん。
かび臭くて、大した家具も何もないモノトーンな部屋に飾ってある一枚の写真に、一人声をかけてみる。
「絶対、仇とるから」
◆◇◆
ピュルルルルル
身を凍らすような冷気が、十一月中旬にして首筋に吹き付けてくる。
「おぉ寒っ」
私は深緑のエプロンの小さなポケットに、手を半分だけ入れた。
「ちょっと
身長も私より十センチ高いが、横幅も私の二十センチ長い豊満な女性が、ガサガサになっている手のひらをこれ見よがしに見せつけてきた。
「しもやけが二千個出来るくらいに頑張ること。分かった?」
「はいはーい、
「三十六歳にしてこうなるのは、なかなか悲惨ですね」
ここまで視線を宙にやっていた、黒いショートボブのぱっつんが言った。
「しっかり仕事してたらこうなるわけ。
どうも、学級委員長タイプの小石が気に入らないらしく、加藤は嫌味半分毒気半分で言った。
「ほら、もう荷物が来るから」
その直後に『フーズ・Z・プレミアム』のロゴをでかでかと載せたミニバンが入ってきた。
ガチャリ
「……よおばあさん。今日の品物だ」
サングラスを外し、かすかな太陽光を浴びて輝くスーツをまとった男が降りてきた。髪には少し茶色の髪が混じって、切れ長の耳を持っている。
「はい、どうも」
「あんた、また老けたんじゃないか? さらに太ったな。飯食いすぎなんだよ」
「
挑発的な物言いをする今川に対し、加藤はきっぱりと言った。
「そうか。ひとまず、腰潰さねぇように、ここは若い二人に持ってもらえばいい」
「まだ三十六歳なのでね」
降ろされてきた荷物を加藤はヒョイと持ち上げる。
「残りの荷物お願いね」
「はーい」
「分かりました」
やっと帰れる、と私は白い息をふぅと吐いて、ルンラランと軽い足取りでロッカールームを歩いていった。
「よぉ咲月ちゃん。冷気持ってこないでよ。こっちは繊細なんだから」
ツインテールの、整った顔の女性がハサミをチョキチョキさせながら話しかけてきた。
「
「いつものことじゃーん」
いつものやり取りを
今日のフードの入荷分をササッと並べていく。
「……わ!」
気配を感じて、そちらを向くと、ぱっと見百八十センチありそうな、よく焼けた、少し茶髪の混じった男性が上の方に商品を並べていてくれた。
「ありがと、大倉君」
「いや」
痩せ細った木のような彼はささっとサロンへと戻っていった。
その背中を、私は温かい表情で見守っていた。
「あぁ? “こせき”だか“こいし”だか知らんが、いい加減にしろよ新入りが。こっちはフードを仕入れてやってる企業の社員だぞ? 上下関係を知らねぇやつは企業では生きてけねぇんだよ!」
と、いきなり怒号がショップに響き渡った。
「だってそうじゃないんですか? そういう変態だってことはずっと知ってますよ。自分の目線がどこに行ってるのか自分で分かっていないのですか?」
肩がビクンと上がり、恐る恐る振り返ると今川に対し、小石が見上げる形で言い合いをしている。
――またなんか喧嘩?
「黙れ! どうして俺が
今川は小石に対して唾をマシンガンのように飛ばしまくり、顔は火で燃やしたような、尋常じゃない赤さになっていた。
「じゃあなんでこんなところにいるんですか? 普通はすぐに帰ってお給料アップがあなたの性格でしょ?」
それに対し、学級委員長は、全く物怖じする様子も無く、淡々と状況説明を続ける。おまけの挑発付きで。
大手企業の社員と、小さなペットショップの新入り女性店員の対決。優劣は誰の実から見ても明らかだった。
「ナニナニ? サロンからめっちゃ聞こえてくんだけど。ワンちゃんもニャンちゃんも怖がってんのよ。止めてくんない? 大手社員が新入りの子を威圧してんの? うわーないわー」
富岡がサロンから首をひょこんと出す。
途端に、今川は顔を信じられないほど青に染め、数秒間目を見開き停止。と思えば、覚えてろよ、とギロリと小石を睨んで唾を吐いた。そのままクルリと踵を返し、ズンズン、ガニ股でロッカールームへ消えていった。
ちなみに、小石は獲物を狙うライオンのような表情で、ヨレヨレになっている背中を見つめていた。
「ただいまーっ!」
お客の対応を終え、暖房が効いた細長い長方形の形の部屋に入ると、すぐにミャオーン、ンニャーン、という歓迎の声が聞こえる。
真っ先に寄って来たのは、ミケだ。
おさかなクッションからノロノロとやって来て、私に向かってニャーゴニャーゴと、ささみの缶詰をねだる。
「今はムリかなぁ。また今度」
毎回言うこのセリフを、ごめんねーと思っている風に言うと、ミケはニャァン、とだんだんと声のトーンを下げ、またおさかなクッションに潜り込んだ。
――すぐ拗ねるんだから。
苦笑しながら、私はミケの親友のブチ、ハチワレネコのハチ、メインクーンで勇者みたいなキング、シャムネコのタイをそれぞれ撫でていく。
もっとも、女王と呼ばれる長毛のシロと猫のリーダー的存在であるロシアンブルーのブルーはまた逃げていくけれど。
グルルルルルル……ピシャン! ゴロゴロ……
ッザーという凄まじい雨音をベースにして、雷がドカンと『ショップ・ミラクルアース』を脅している。
「……それで、この子にはどんなブラシが合うんですか?」
二階が透けているだけの天井を思わず目で見ていると、すかさずお客様からツッコミを食らう。
「あ、すすすすみません。その、えーとですね、この子は……」
ピッシャーン!
「キャッ!」
刹那、私の三半規管は大きく揺れ、ゆっくりゆっくりとたくさんのブラシが並ぶ棚が目の前に迫ってくる。
ドシーン、ガシャン
加藤がドアを開け放し、猛スピードで駆けてきた。鬼の形相に、私は世界が終わったような絶望感を味わった。
「すみませんでした……」
小石が客に対応している間、私は猫たちが物珍しげに見守る中、加藤に大目玉を食らっていた。
「いくら雷が怖いからってこれは無いでしょ。全く、さっき大倉君も富岡ちゃんに叱られてたけど……」
「そうなんですか……でも雷が鳴ってるとどうしても思い出しちゃうんです」
ブルルン……キキィという耳障りな金属音と共に、地面に落ちた雨粒のごとく消えていく小さな命を。
「それはそうでも、さすがにお客様の前ではそういうことはしちゃぁね……元々咲月はドジなのは分かってるけどそれでも……」
――これ、まだ続くよ……。
私は可愛らしい猫たちに救いを求めるつもりで、メンツを見回していく。
ブチ、ミケ、ブルー、キング、ハチ、シロ……。
――あれ?
ムカムカしていた心の中が、すんと静かになった。眉がピクリと動く。
「ん?」
加藤も何かが起こったということに気付いた。
私は辺りを見回すが、ゲージの中にもシンクにもエサ台にもキャットタワーにも、どこにも姿は無い。
グロロロロロ……ビッカーン!
ガタガタと、小さなペットショップの壁が揺れた。
「……シャムが、いなくないですか?」
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