三年目(6)
渋澤と二人で駅の改札をくぐった。
この時間帯は電車の本数も多く、さして待たずに乗り込めた。
並んで吊り革を掴んでから、俺はふと思い出して尋ねる。
「藤田さんとは、何かあったのか」
渋澤は目の端で俺を見た。軽く笑う。
「あったと言えばあった」
「やっぱり、そうなのか」
電車が動き出す。がたごとと揺れて繁華街よりもずっと大きな、騒々しい音を立てている。
渋澤はそれでも構わず口を開く。
「告白って言っていいのか、それっぽいことを言われたよ」
新人の子達について語る時よりも、心なしか柔らかい表情をしていた。
「でも、あの人の気持ちも僕にはわからなかったな。本気だったのか、そうじゃなかったのか」
「あの人は本気だったと思う。根拠はないけど」
むしろ俺は、本気だったのだと思いたかった。
藤田さんのことは好きではないし、時々きついことを言われて、へこまされるのもしょっちゅうだ。でも、渋澤に対する気持ちだけは本当だったのだと思いたかった。あの人にも一応は人間らしい面があるのだと――当人に知れたら、大きなお世話だと噛みつかれそうな思いだろうが。
「だとしても、僕にはわからなかった」
渋澤はそんな言葉で、あの人の気持ちを断ち切った。
俺の表情を見て、困ったような顔をしてみせる。
「恋愛ってそんなもんだろ。わからなかったら意味がない。気づけなかったらどうしようもない。自分の気持ちは最終的には、自分自身でしか動かせない」
電車の揺れに合わせて吊り革が揺れる。俺達を含めた乗客も揃って揺れる。
「播上はどうなんだ?」
奴が畳み掛けるように問う。
「今は恋愛してるのか?」
それも先月、清水に聞かれたばかりだ。
だからまるっきり同じ答えを返した。
「全くしてない。ご縁がないからな」
すると渋澤は、清水とは違う反応をした。
「気づいてないだけじゃないのか、自分で」
「は? 何を?」
「いや、言ってみただけだよ。傍観者としてはそんな気がするな、ってね」
からかうような顔つきをされて、俺は困惑するしかない。
もしかして渋澤、酔っ払ってるのか。
送別会ではあまり飲んでいるようでもなかったのにな。困ったものだ。
会社の人間を部屋に招いたのは初めてだ。
そもそも今までそういう機会も、必要もなかった。学生時代の付き合いとは違うから、部屋に呼んで酒を飲むことなんてしなかった。
今日、渋澤を呼んだのには理由がある。
ちゃんと話しておきたかったからだ。今日に至った感情の変化。今なら心から、渋澤を祝ってやれるんだということも。
その渋澤は、俺の部屋に入るなり絶句した。
「なんでこんなにきれいなんだ」
呻くように言われた。
部屋をきれいにしているのに不思議なことでもあるのかと、怪訝な思いで問い返す。
「おかしいか?」
「おかしい。男の一人暮らしでこんなに部屋がきれいな奴を、僕は初めて見た」
「だって、汚い部屋で食べる飯なんて美味くないだろ?」
炊事、洗濯、掃除は家事の基本だ。一人暮らしをする以上、そのどれもを怠るわけにはいかない。
なぜなら美味しいご飯が食べたいから、その思い一つに尽きる。
美味しい食事の為に必要なものは何か?
料理の腕、鮮度のよい食材、もちろんそれらも大切だが、いざ腕を振るって自慢の逸品を仕上げたところで、散らかった部屋や汚れた服で食事をするのは気分がよくない。楽しく美味しい食事は、人間らしい生活によって成り立つ。
人間らしい生活は、衣、食、住の全ての充足によって成り立つ。だから炊事はもちろん洗濯も掃除も、料理を愛する者としては決して怠ることなど出来ないのだ。
――ということを渋澤に話して聞かせたら、軽く引かれた。
「徹底してるにも程があるぞ、播上」
「おかしいか?」
「おかしい。言ってることは間違ってないけど、やっぱりおかしい」
渋澤とは多少、相容れないようだ。残念だがしょうがない。
まあ、渋澤ならそのうち、家事を一手に引き受けてくれる女の子でも現れるだろう。奴自身が気にするようなことではないのかもしれない。
「とりあえず、座ってくれ」
俺が座布団を勧めると、奴はコートを脱ぎ、鞄の横に畳んで置いた。そして座布団の上に座った。足を崩してあぐらを掻く。
「ビールしかないから、つまみの好みは聞く」
そう告げて、俺は奥の部屋へと一旦入る。手早く普段着に着替え、それから洗面所で手を洗い、愛用のエプロンを着ける。
冷蔵庫からビールを取り出し、渋澤に渡す。
「とりあえずお通し出すから、ちょっと待っててくれ」
そう告げると、珍獣でも見るような目つきをされた。
「何かもう……」
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「いや、いい。どこから突っ込もうか考えてたけどどこもかしこも突っ込みどころだから、素直にお前を見習うことにする」
嘆息する渋澤の物言いは、いやに深刻ぶっている。相当酔ってるのかもしれない。
俺が顔を顰めていれば、やがて向こうから尋ねられた。
「それで、つまみの候補は何?」
冷蔵庫の中身は把握している。俺は答える。
「挽き肉で一品作ろうと思ってた。餃子か肉団子か、軽く揚げてあんかけにしてもいいし、腹に溜まるものがいいならジャージャー麺でも」
「ただ食いするのが申し訳なくなってきた」
渋澤が苦笑いを浮かべ、その後でふと、
「……挽き肉? 挽き肉のメニューなら何でもいいのか?」
と聞いてきた。
「いいよ。注文があるなら聞く」
「じゃあ、ハンバーグがいい」
「ハンバーグ?」
奴がためらいもなく口にした注文に、俺は危うく吹き出すところだった。それでも見咎められ、すかさず指摘された。
「おかしいか」
「い、いや、おかしくはないけど……渋澤にハンバーグって、イメージじゃないなと」
清水が聞いたら目を丸くするだろうな。あるいは遠慮なく笑うかもしれない。
「好きなんだ、ハンバーグ。一人暮らししてるとあまり食べる機会がないけど。そうやって笑われるから人にも言いにくいし」
どこか拗ねたような口調で渋澤が言う。
だから俺は、粛々とご注文を承った。
冷奴と浅漬けをお通しとして出した後、ハンバーグ作りに取り掛かる。
酒のつまみということで、小さめのをたくさん作ることにした。ソースを数種類用意して、その代わり肉には特別な工夫はしない。塩コショウとナツメグだけのシンプルな味付けにする。
ハンバーグのソースもオーソドックスなものばかりを選んだ。ケチャップソースにデミソースにチーズディップ、大根おろしとポン酢、照り焼きソースにマヨネーズとレタスを添えて、好きな味を好きなだけ食べられるように器を並べていく。気分はハンバーグのカナッペだ。
宣言通り、渋澤はよほどハンバーグが好きなようだった。全てのソースを試してから、結局満遍なく食べていた。
「美味いな」
しみじみ言ってもらえると作り手冥利に尽きる。
俺もビールで付き合いつつ、ハンバーグは渋澤に譲ることにした。餞別代わりと言えばそれらしい。
「播上、もったいないよ。これだけ作れるんだから店でも開けばいいのに」
相好を崩した渋澤の言葉に、複雑な思いで肩を竦めておく。こちらの反応をどう見たか、奴は何気ない調子で語を継いだ。
「藤田さんに聞いたよ。播上の実家、店やってるんだろ?」
「……まあ、な」
あの人が絡むと本当ろくなことがないなと思う。渋澤の耳にどうして入れる気になったのかは知らないが、この分だと社内に広まるのも時間の問題かもしれない。
もっとも、こればかりは自業自得か。
「家業を継ぐ気はないのか?」
渋澤の質問はいたって軽く、悪気もないようだった。
お蔭で誤魔化す気にもなれない。ビールを煽ってから、一息ついて答える。
「自分では、向いてないと思ってる」
「そうかな。どこが?」
即座に渋澤が尋ね返してきた。少し笑いたくなる。
「全体的に」
「こんなに料理上手いのにか?」
「それだけでいいなら、まだ希望も持てたんだろうけどな」
料理の腕を上げるだけでいいなら、俺も開き直って父さんに教えを乞えただろう。でもそれだけじゃない。あの店を継ぐ為に必要なものはたくさんあった。
「さっきも言ったけど、料理を楽しむには環境が大切なんだ」
俺は渋澤に、挫折というほどでもない諦念と、それがあるからこその今について語った。
「お客さんからお金を貰うなら尚のこと、そうだ。幸せを売る仕事だから、こういうふうに自分の部屋で手料理ふるまうのとは訳が違う。料理の味はもちろん、店の雰囲気も、接客態度も、全てを含めて味わってもらえるようでなくちゃいけない」
笑いながら続けた。
「俺は、高校の頃くらいまでは店を継ぐ気でいた。それで大学も経営学科を選んだ。店の為になる勉強をしようと思って――でも、もっと根本的なところで向いてなかった」
渋澤は驚いてでもいるのか、ぽかんと口を開けている。
「大学に進んで、一人暮らしを始めた時に気づいたんだ。料理を楽しむ為、環境を整えることの難しさ。掃除をしなければ部屋は汚れていく一方だし、洗濯をしなければ着るものがなくなる。他のことに時間を取られて、最初のうちは自炊を軌道に乗せるのも大変だった。今でこそ慣れたけど、それでも、自分のことも面倒見切れない人間に経営なんて出来るかと思った」
誰かの為に料理を作るのは難しい。
それが例えば家族とか、あるいは清水や渋澤といった知り合いならまだいい。店をやっていれば知らない人の方が多くやってくる。そういう人達の為に料理も、店の雰囲気も、全て誂えるのは難しい。
俺が一人で出来ることじゃないと思った。
そう思った時、店を継ぐことを諦めた。
「うちの父親は、あんまり愛想のいい店主じゃない」
両親について触れるのは面映かった。
「料理は上手いけど、接客とかはからきしだ。そういうのは全部母親がやってる。あの店は、両親が二人で切り盛りして、ようやく続いてきた店なんだ。それを俺が一人で継ぐのは無理だと思った。俺は一人っ子だから他に頼れる相手もいないし、自分で何とかしていくしかないのに……そう思うとつくづく、俺には向いてない気がしたんだ」
そこで渋澤が口を挟んできた。
「じゃあ二人で継げばいいじゃないか。それこそ、嫁さんでも貰って」
「簡単に言うなよ」
もてる奴に言われるとへこみたくなる。探したって見つからない人間もいるのに。
「ごめん」
渋澤は慌てたように謝り、それから続けた。
「でも、差し出口だけど、つまりそういうことじゃないか? お前が一人で背負い込もうとすることなんてないだろ? 誰か、一緒に店をやってくれる相手でも探して、それから考えたっていいはずだ」
「そうかもしれない。けど、店の為に彼女とか、結婚相手を探すのも違うと思った」
店の為に、好きでもない人と結婚するつもりはなかったし、例えば彼女が出来たとして、一緒に店をやりたくないと言われたら無理強いは出来ない。
要は自信がなかった。何もかもに。あの店を継いだら、一人で生きていくことも、誰かと生きていくことも難しいと思った。だから今の仕事を選んだ。
「一度向いてないと自覚したら、切り替えようもなかったんだ。俺はやっぱり、あの店は継げない」
努めて明るく打ち明けたつもりだった。
そのせいか渋澤も少し笑った。気遣うような笑い方だった。
「難しいんだな、家業を継ぐって言うのも」
「そう思う。親のやってきたことを踏み躙りたくないって考えると、余計に」
「立ち入ったことを聞いて、悪かったよ」
「気にしなくていい。親の希望は叶えられないけど、この仕事でよかったと思ってる」
喉が渇いたので、もう一口ビールを飲む。そして続ける。
今日、一番伝えたかったことを。
「渋澤。お前の栄転が決まった時、悔しかったんだ」
俺はなるべく静かに切り出した。
「先を越されたことも、お前が評価されてることも、すごく悔しかったし羨ましかった。素直にお祝いが出来るかどうかすらわからなかったくらいだ」
はっとしたように、渋澤が居住まいを正す。
その改まった様子がおかしくて、もう少しで笑いかけた。
「でも、今は思う。お前が俺よりも先にいるから、前にいるから、俺も負けてられないと思える。辛いこともあるけど、この仕事を続けていく気にもなれた。俺はこっちで、お前がいなくなる分も頑張るよ」
そういう考え方が出来たのは清水のお蔭だ。
でもそのことは渋澤にも言いたくなかった。何となく照れるから、秘密にしておく。
ただ、この気持ちは秘密にはしない。
「だから渋澤も、向こうで頑張ってくれ」
本心からそう言えた。
渋澤はにやっとした。今度は照れたのを隠すような、子供みたいな笑顔だった。
「ありがとう。頑張るよ」
言えてよかったと心から思った。
言えるような気持ちになれたこと。ちゃんと渋澤を祝って、応援してやれること。本当に、本当によかった。
すると今度は渋澤が、
「実は僕も、お前のことがずっと羨ましかったんだ」
秘密を明かすように、そう口を開いた。
「俺が? 何で?」
「だってお前には、清水さんがいるだろ」
これには俺の方がぽかんとさせられた。
「前に言ったよな? 人から羨まれる関係だって自覚しておけって」
どこか揶揄するように渋澤は言う。
「僕も、播上にとっての清水さんみたいな人に出会いたい」
不意打ちを食らい、俺は言葉に詰まった。
「何、言って……」
「大切にしろよ、あんないい子は滅多にいない」
そんなことは言われるまでもない。
清水はすごくいい奴で、大切なメシ友だ。自分でもわかっている。
わかってはいても、面と向かって告げられたせいか、妙にそわそわした。
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