三年目(7)
三年目と三月が終わろうとしていた。
昼休みの食堂の空気もほんの少し変わり始めていた。去る人と見送る人とがちらほら散見されるようになり、ごくささやかな送別会の会場としてテーブルを囲んでいるグループもある。そうかと思えば年度末の慌しさに追われて、食堂ですら食事どころじゃない人もいる。いつもと変わりなく食事をする人もいる。
食堂は食事を楽しむだけの場所ではない。そのことは俺もよく知っていた。
清水もいつもと変わりない。相変わらず日々忙しそうな様子で、でも今日は前もって連絡もしておいたせいか、俺とほぼ同着くらいのタイミングで休憩に入っていた。
「せっかくの播上のハンバーグ、食べなきゃ損だもんね」
俺は昨日の晩から、約束のハンバーグソースを弁当に持参することを清水に伝えていた。
この間、送別会の後に渋澤にふるまったのと同じやつだ。自分で食べてみていいと思ったデミソース、チーズディップ、それに照り焼きソースを用意して、小さめのハンバーグを三つ焼いた。自分の弁当とは別に容器に詰めた。
「これはお礼だ。この間の」
そう告げて差し出すと、清水はくすぐったそうに首を竦めた。
「お礼なんていいのに……遠慮はしないけど!」
「だろうと思った」
つられて笑う俺の目の前で、彼女はいそいそとハンバーグの容器の蓋を開ける。
「いただきまーす」
嬉しそうにしながら、まず照り焼きソースに箸を伸ばす。一口大に切って口に運ぶと、嬉しそうな顔は次の瞬間、美味しそうな顔に変わる。
「美味しい!」
小さく叫んだ清水は、その後で俺に視線を投げかけてきた。
「いいなあ、渋澤くん。これをお腹いっぱい食べてったんでしょ?」
「かなり食べてた。しまいにはビールもそっちのけで」
「それもうおつまみじゃないよ!」
笑う彼女をすぐ隣で見ている。俺まで、美味しい気分になる。
「しかも作り方も聞いてった。向こうでも食べたいからって」
あの夜の帰り際、渋澤はハンバーグとソースのレシピをくれと言ってきた。俺を見習って、毎日じゃなくても自炊をしたいのだそうだ。まさか渋澤に料理を教える日が来るとは思わなかった。もちろん、快くレシピを贈った。
清水が笑うのを止めて、きょとんとする。
「渋澤くんって料理するの?」
「一応するらしい。普段は麺類専門らしいけどな」
「へえ」
感心したような声の後、清水の視線が動く。食堂の奥の集団へと。
「渋澤くんが料理上手くなったら最強だろうね。もてっぷりに拍車が掛かるよ」
そうだろうな、と俺も答える。そして彼女の視線を追う。
社員食堂の奥、テーブルの一つに渋澤を囲む女の子達が見える。
いつの間にやらハーレムの人数が増えたような気がする。あいつが『去る人』だからだろうか、彼女らの表情は明るくなく、囲まれている渋澤も少し寂しそうに映る。
あの光景ももうじき見納めだ。三年目と三月は終わる。
俺のことが羨ましいと、渋澤は言った。
聞いた直後はそわそわさせられたものの、後になって考えれば寂しい言葉だった。いつか、渋澤の気持ちも誰かによって動くだろうか。それとも奴なら自分自身で動かしたいと思うようになるんだろうか。どちらにしてもそれは一人きりでは出来ない。
恋愛に限らず、思い合ったり、必要とし合ったり、大切にしたりできる人と出会うことはとても貴重だと最近思う。渋澤でさえそういう相手になかなかめぐり会えないんだから、俺の隣に清水がいることも奇跡みたいなものなんだろう。
隣に座る彼女を見やった。
彼女は再びハンバーグを食べ出していた。自分の弁当のご飯と一緒に黙々と食べている。その姿を見下ろしていたら、ふと幸せが込み上げてきた。
後悔はしていない。この仕事を選んだことも、今日まで続けていることも。料理を自分と、ごく少数の親しい相手の為にだけ作る今にも。
「渋澤に、ちゃんと言えたよ」
俺も自分の弁当を開け、それから呟くように教えた。
「頑張れって言った。俺も頑張るからって。ちゃんと笑って言えた、心から」
面を上げた清水が、ふっと優しい顔をする。
「そっか。よかったね」
その一言がとても嬉しかった。
「ああ」
清水もこちらを見て、また笑った。それから思いついたように口を開いた。
「私ね、疑問に思ってたんだけど」
「何を?」
「どうして渋澤くんはもてるのに、播上はそうでもないのかって」
「へこむから、そういう比較はするなよ」
俺は苦笑した。
そこは言われるまでもなくわかっている。顔とか、性格とか、仕事においての有能さとか――比べるまでもなかった。渋澤がもてるのは当然だ。前よりもずっと穏やかな胸裏で思う。
だから、奴に羨ましがられた自分が誇らしくもある。
渋澤が評価したのは俺じゃなくて、清水だ。こんないい奴とメシ友でいられるのが、俺にとっても誇らしかった。
「多分、播上はアピールが足りないんだと思うよ」
その清水が、思いのほか真面目な調子で続ける。
「もっと料理の上手さを、自信を持ってアピールしたらいいんじゃない? そしたら播上も女の子にきゃーきゃー言われるようになるかも」
「別に、きゃーきゃー言われたいって程では」
「そうなの?」
「……まあ、多少は思わなくもないけど」
一生に一度くらいは。いや、騒がれたり囲まれたりしなくてもいいから、可愛くて気立てのいい女の子に追い駆けられてみたい。集団じゃなくてもいい。一人くらいでいいから。
でも現実として、いざそういう事態になったら困るだろうなとも思う。
渋澤はああいう性格だから当たり障りなく接していられるんであって、俺ならまず無理だろう。それにもしも他の女の子と仲良くなったとして、清水と一緒に過ごす時間が少なくなったらそれも困る。清水といても嫌がらず、うるさくも言わない、可愛くて気立てのいい女の子がいてくれたら――いや、夢を見るにもほどがあるな、全く。
むしろ逆のパターンがないとも言えない。清水に彼氏が出来て、そいつが俺のことをよく思わなくて、清水が俺を遠ざけるようになったら。
可能性としてはゼロじゃない。彼女だって今でこそいっぱいいっぱいかもしれないが、そのうちに落ち着いて、恋愛でもして、結婚だってするのかもしれない。そうなったら今の幸せはなくなるんだろう。
ここにあるのは、いつまでも続くような幸せじゃない。
当たり前のことを今更のように自覚して、なのに往生際悪く思う。
清水、一生独身でいてくれないかな。
そしたら俺も、一生メシ友でいられるのにな。
すぐ隣にいる清水は、なぜか心配そうにしていた。人のことはいいから自分のことを考えろと、暗に告げられているような気がした。
「もうちょっと頑張れば絶対もてると思うのになあ」
彼女はまだ言い募る。
「頑張るって言ったって、努力にも限度があるだろ」
俺は箸を置き、お茶の水筒に手を伸ばす。
コップに注いで一口飲み、それから彼女に目を戻す。ちょっと不満そうにしている。
「努力もしないうちからそういうこと言わないの。ほら、美味しいご飯で女の子の一人や二人、手懐けちゃえばいいのに」
「簡単に言うなよ、お前も渋澤も」
昔、それをやって、思いっきり振られたことがあるのに。
大体、男が料理出来たくらいじゃ大したアピールにもならない。以前藤田さんも言っていたし、俺もその通りだと思う。
「渋澤みたいに完璧な奴が、おまけとして嗜む程度ならいい。俺みたいな奴が料理だけ出来てもしょうがない。変わり者と思われるだけだ」
諦め半分、軽口半分で言う俺に、清水は眉尻を下げてみせた。
「そりゃあ私も変わってるって言っちゃったことあったけど。でも人と違うからいいってこともあるじゃない。特に播上の場合は、その特徴が本当にすごいんだから」
「フォローしてくれるのは嬉しいけど、こればっかりはもう諦めてる」
俺が誤魔化すつもりで笑った時だった。
清水がきゅっと眉を顰めた。
そして次の瞬間持っていた箸を置き、空いた両手で俺の、コップを持ったままの右手に触れてきた。包むように、そっと。
彼女の手は柔らかかった。
彼女の目は、真剣だった。
「――播上の手は、魔法の手だよ」
冗談はひとかけらも含まれていないような声で言われた。
「こんなに美味しいご飯が作れるんだもん、ただの手じゃないよ。毎日のように美味しい料理が出来るってすごいよ。他の人がどんなに頑張っても出来ないような、すごいことが播上には出来るんだよ」
柔らかい手はほんのりと温かく、ほんの少しの力だけで俺に触れていた。なのに手だけじゃなく、心臓ごと強く掴まれたような感覚だった。
彼女の手と俺の手の中、水の波立つ音がしていた。
「だから、大丈夫」
清水が笑う。
女の子らしい、可愛い笑い方ではなくて、むしろにんまりと自信ありげに笑っていた。
「播上のことを好きになってくれる子はいる。いつか、魔法の手の価値がわかるようないい子が来てくれるよ。その時の為に自信を持って、胸を張っておきなよ」
社員食堂のざわめきが掻き消えた。
――ような気がしたのは多分、錯覚だろう。何もかもがそうだ。清水の柔らかい手に心臓を握りつぶされている気がするのも、あるいは彼女が口にした言葉も、彼女が俺を魔法使いのように評するのも、きっと全て錯覚に違いなかった。
俺も、そんなことはどうでもよかった。全ての疑わしい感覚の、その真偽を確かめる気など端からなかった。
俺のことを好きになってくれる奇特な女の子がいるかどうかはわからないし、どうでもいい。俺の料理の腕がすごいのか、大したことないのかも、どうでもいい。はっきりさせたところで何かが変わるわけじゃない。清水の言葉が本当だろうと錯覚でしかなかろうと、この先の俺の日常が変わるはずもなかった。今までだって、そうだった。
それらよりももっと大きな、横っ面を引っ叩かれるような衝撃と変化が、俺の思考のほんの一部分だけを残して、全て飲み込んでしまった。
清水はいい女だ。
何の脈絡もなくそう思った。
それがどうしてなのかもよくわからなかった。手がほんのり暖かくて柔らかいせいか、あるいは言葉が力強かったせいか、あるいは笑顔が自信に満ち溢れていたせいか――そのどれでもなく、錯覚でそう思えただけなのか。
ひらめきみたいに思った。
清水は、きっとすごくいい女だ。他にはいないくらいに。めぐり会える確率がそれこそ奇跡的なくらいに。
そのことに気づくのに、三年掛かった。
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