三年目(5)

 霧が晴れるように、はっきりと思い出した。


 一年目、俺と清水がまだルーキーだった頃の話だ。

 昼休みの社員食堂で声を掛けられた。

 その時、清水の態度に違和感を覚えた。入社式の時は明るかった彼女が、まるで様子の違ったそぶりで、気になった。

 次の日、また昼休みの社員食堂で見かけたから、思い切って話しかけてみた。豚肉のごま味噌焼きを一切れあげたら、作り方を教えることになって、メールアドレスを教わった。そして最初のメールで交わした、いかにも新人らしい愚痴と慰めの言葉も覚えている。

 あの頃の清水は辛そうだった。俺も同じようなもので、だから声を掛ける気になれた。

 一緒に辛い思いをしてる奴がいたら、ちょっとは慰めになるんじゃないかって気がしていた。気遣いとか同情とか、そんな可愛い心境ではなかった。俺はあの時、俺と同じように駄目になってる奴がいて、自分だけじゃないんだなんて馬鹿みたいにほっとしていた。


『私、僻んでるってはっきり言ったよね』

 清水は明るい口調で続ける。

『だから播上には嫌な顔されると思ったし、怒られたってしょうがないとも思った。なのに播上は全然普通にしてるし、私のことを心配さえしてくれたし、ごま味噌焼きの作り方だって丁寧に教えてくれたし。びっくりしたよ、正直その時も嫉妬した。性格までいいんだこの人、って思って』

 実際はそうでもないのに。

 俺は渋澤みたいに出来た奴じゃないし、清水みたいに強くもない。三年の付き合いならもうわかっていてもいい頃じゃないか、清水。

『嫉妬心、今だってまるっきりないわけじゃないよ。私、播上が羨ましい。毎日ちゃんとお弁当を作ってきてる播上は、すごいと思う』

 その言葉には思わず口を挟んだ。

「清水だって作ってきてるだろ、毎日」

『ううん。時々は面倒にもなってるし、繁忙期なんかは自棄になって作ってるよ。私、何の為に毎日必死になってるんだろう、とか思ったり。一日くらいさぼってもいいじゃん、なんて考えたりね。播上はそんなふうに思ったりしないで、ごく当たり前みたいにお弁当作ってきてるのに』

 それは、俺にとっては実に当たり前のことだからだ。

 でも今日までは思っていた。清水にとっても当たり前のことなんだろうと。

 食堂で会う時、彼女は必ず当たり前みたいな顔をして弁当を持ってきた。一年目と比べたら腕も上がった。少なくとも味見を忘れてくることはなくなった。そんな彼女の日々の裏側に、どういう気持ちがあったのか、知らなかった。

 俺の知らないところで彼女にも、一年目より辛い日、苦しい日があったんだろうか。

『知ってると思うけど私、負けず嫌いだから』

 清水が言う。

 知っている。

『そういう嫉妬心がなかったら、お弁当作りだって続けて来れなかったと思う。播上に置いてかれるのは嫌だから必死にだってなるし、今日まで続けてきたんだから、絶対に途中でなんて止めたくない』

 そこまで言ってから息をつき、彼女は照れたように付け足した。

『もちろん、おこがましい嫉妬でもあるんだけどね。私の実力じゃ、播上に追いつくなんて無理だもん。だからこそこれ以上差をつけられないよう頑張れるってのもあるけど』

「おこがましいなんて……」

 俺は清水に、追いついてきて欲しいくらいだった。もっと上手くなって欲しい。料理のことでもっとたくさん話したい。

 近頃はお互いに忙しくて、そういう話もなかなか出来なくなっていたが、落ち着いたらまた。

『播上だって同じじゃない?』

 思考に割り込んでくる問いも、あくまで明るい。

『渋澤くんに嫉妬する気持ちが皆無だったら、きっと上になんて行けないよ。僻んだり羨んだりするのはいいことではないかもしれないけど、そういう気持ちがあるからこそ頑張れる時だってあるよ。おかしなことじゃないよ』

 清水の言葉はアルコール以上に効いた。

『おかしなことじゃないって、私は思いたいな。播上はどう?』


 思いたい。

 許されるなら思いたかった。

 俺は渋澤瑞希にはなれない。なれないとしても、自分に価値のあるようになりたかった。ここで働き続けたかった。帰らないと決めた以上、おめおめと故郷へ逃げ帰るつもりはなかった。そしてここに留まる以上は、ちゃんと仕事をしたかった。

 俺は、渋澤には追いつけないだろう。

 だとしても今より上を目指すことは出来るはずだ。取るに足らない人間でも、成長することを認められていないわけじゃない。渋澤という目標があれば、少なくとも目指す方向だけは見失わずに済むかもしれない。

 嫉妬心も自尊心も、その為には必要なものだ。

 全肯定はしない。清水の言う通り、いいことではないのかもしれない。しかし、おかしなことじゃないとも思った。思えた。清水のお蔭で。

 やっぱり彼女は、俺のことをよくわかっているみたいだ。


「……ふう」

 深呼吸をした。

 澱んだ空気を全て吐き出すと、恐ろしいくらいの安堵を感じた。と同時に空腹も感じた。さっきまでやさぐれていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、気持ちが解けてしまった。

 たっぷり間を置いてから、答える。

「俺も、思う。おかしなことじゃないって」

 電話越しに清水が笑う。

『うん』

「渋澤でよかったのかもしれないな。目標とするならこの上ない相手だ」

『そうだよ。渋澤くんはぶれないもん』

 違いない。俺は見えもしないのに、清水に向かって頷いた。

 それから続けた。

「俺、思ってたんだ。あいつが異動の話を一番に教えてくれたから、その気持ちには応えられるようになりたいって。せめて心から祝ってやって、笑って送り出してやりたいって」

 もうじき送別会がある。俺は渋澤の隣に座る約束になっている。あいつの隣を死守して、なおかつ楽しい送別会にしてやりたいと思う。

 それと、ちゃんと礼も言いたい。俺だってあいつには世話になった。

『播上らしいね』

「そうか? 勝手に嫉妬したり、祝ってやりたがったり、忙しいよな」

『うん、そういうとこも含めて播上っぽいよ』

「よくわからないけど、清水がそう言うなら、そうなんだろうな」

 自分の自分らしさがよくわからない。

 けど、清水は俺の俺らしさを知っているらしい。そのことが少し、くすぐったかった。

「清水」

『ん?』

「いろいろありがとう」

『うん。あ、こちらこそって言うべきなのかな』

 彼女もこそばゆそうに答えた。

『とにかく、お互い様だよって言いたかったんだ。そういうのは皆あるよ。私だってそうだったから、嫉妬しちゃ駄目ってことになったら困るなあ』

「駄目なんて言わないよ」

 少なくとも俺は言わない。


 渋澤はどうだろう。

 言わないだろうと思うが、それ以前に本気にしなさそうな気がする。俺が嫉妬してるなんて言っても、きっと取り合わないだろうな、あいつなら。

 あいつは誰かに嫉妬すること、あるんだろうか。

 誰かを僻んだり羨んだりする渋澤なんて、想像もつかなかった。


『播上っていい奴だね』

 ふと、清水が呟いた。

 それを聞いて俺は苦笑した。

「俺が? 渋澤じゃなくて?」

『播上も。私はそう思ってるよ』

「そんなことない。それを言うなら清水だって――」

 十時過ぎに帰宅して、へこんでる友に電話をくれる辺り、すごくいい奴だと思う。おまけに掛けてくれる言葉の一つ一つがありがたい。

「すごくいい奴だと思う」

 至って真面目に言ったつもりだった。

 だが当の清水には、どうしてか吹き出された。

『播上ってば、何て言うかさあ』

「な、何だよ」

 なぜ笑われたのかわからない。戸惑う俺に彼女は続ける。

『そこで私のこと、いい女だ、って言わないところが播上っぽいなあと』

「あ!」

 指摘されて初めて気づいて、どきっとした。

「い、いや、言って欲しいなら言うけど!」

『ううん、気にしないで! 催促してるわけじゃないから』

 電話の向こうで彼女は楽しげな笑い声を立てている。


 気の利かない発言だったかなと思う反面、清水をいい女だと思ったことがなかったのも事実だ。

 言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。

 でも、俺にとっての清水はやっぱり『いい奴』であって、『いい女』ではないんだよな。

 大体、そう言えるほど俺はいい女ってやつを知らない。


『じゃあ、いっぱい笑ったところでお互いにご飯にしよっか』

 笑ったのは清水だけだったが、ともあれその言葉には賛成だった。

 俺もすっかり腹が減った。現金なものだ。

『播上の今日の晩ご飯は何?』

「ハンバーグだ。日曜日、近所のスーパーで挽き肉の特売があったから」

 挽き肉はいい。ハンバーグに餃子、シュウマイ、コロッケ、肉団子、ドライカレーと料理に幅が出る。安いとついつい買い溜めしてしまうので、俺の冷凍庫は現在挽き肉帝国と化している。

『へえ、いいなあハンバーグ! 今度、お薦めのソースを教えて』

「いいよ」

『私は素うどんの予定だったけど、播上の話聞いたらお肉が食べたくなってきた。どうしよう、こんな時間なのに!』

 苦悩する清水の声を聞いた時、俺もようやく笑った。

 笑えた。


 三月の〆日を過ぎた頃、渋澤の送別会が催された。

 俺は約束通り渋澤の隣に座った。そのことで一部女性陣から落胆の視線も向けられたが、とりあえず気にしないようにした。

 渋澤が笑って目配せをしてきたから、俺も頷いた。そういう意思の疎通を、何のわだかまりもなく出来たことが嬉しかった。もちろん清水のお蔭だ。先日の夜の電話が、俺の気持ちを切り替えさせてくれた。


 ただ一つだけ、引っ掛かることがあった。

 俺が渋澤の隣に座った時、藤田さんは何の反応も示さなかった。渋澤から離れた位置に座り、空恐ろしいおとなしさで酒を飲み、料理を食べていた。最後まで渋澤には目もくれず、近寄ってくることもなかった。

 おぼろげに察していた。渋澤と藤田さんの間には、多分、何かがあったんだろう。


 送別会の間、渋澤はずっと笑顔だった。皆の前できちんと挨拶もしていたし、一人ひとりに声を掛けられて丁寧に応対もしていた。

 俺が言葉を掛けた時だけは、皆に向けるような笑顔とは違う、にやっとした表情を向けられたが。

「……この後、二人で飲まないか」

 声を潜めた俺の言葉に、渋澤は笑んで頷いた。

「いいよ。そうしよう」

 それで二人揃って、二次会の誘いを断ることとなった。

 俺はともかく、渋澤が一次会だけで帰ることについては残念がる声も多かったが、異動と共に引っ越しを控えて忙しいからと、言い訳を並べて切り抜けた。


 ざわめく繁華街の一角で、ようやく二人きりになった時、渋澤がふと笑い出した。

「男にこうやって誘われたのは初めてだ」

 やけに愉快そうに言われた。

「なら、女にはあるのか」

 気になって思わず尋ねれば、さも当然といった口ぶりで答える。

「なくはないよ」

 どうやら一回や二回ではないらしい。

 今更だがやっぱり思う。羨ましい。

「ところで、どこの店に行く?」

 渋澤が腕時計で時間を確かめている。

「もう九時を過ぎてる。いい店知ってるけど、今から行ったら混んでるかもしれないな。それでもいいか、播上?」

 金曜の夜、繁華街はどこもかしこも賑々しかった。気安い店を探すのは難航しそうだ。

 だから俺は別の案を提示した。

「俺の部屋に来ないか? つまみでも作るよ、金は取らない」

 そうしたら、渋澤にはまた笑われた。

「この流れで部屋に誘うか、お前」

「何だよ。文句あるなら来るな」

「冗談だよ。ただその台詞、可愛い女の子の口から聞きたかったと思ってさ」

 奴の言葉に俺は呆れた。

 飲み会でも昼休みでも注目の的だった男が何を言うのか。

「可愛い女の子ならいっぱいいただろ。新人でも、そうじゃない子でも。あの子達の誰かと付き合おうって気にはならなかったのか?」

 こういう言い方は品がないかもしれないが、実際よりどりみどりだったはずだ。あんなに女の子に囲まれていた渋澤が、送別会の後に俺との時間を選択する必要があるのか。

 そこで不意に、渋澤の顔から笑みが消えた。

 代わりに冷めたような表情が浮かんで、呟きが後に続く。

「思わなかった」

 あれ、と思う間に渋澤が、

「歩きながらでもいいかな」

 そう聞いてきたので、俺は慌てて応じる。

「ああ、うん。結局、部屋飲みでいいのか?」

「いいよ。お邪魔させてもらう」

「じゃあ電車乗るから、とりあえず駅まで行こう」

 俺は渋澤を促し、賑々しい界隈を歩き出す。


 少し速いペースの渋澤は、繁華街の外れ、人波が途切れた辺りで語を継いだ。

「あの子達が本当に僕を好きだったかどうか、今でもよくわからないんだ」

 昼休みに渋澤を囲んでいた女の子達を指して、奴は言った。

 並んで歩きながら眉を顰めたくなる。

「好きじゃないはずないだろ。弁当作ってきたり、毎日傍にいたがったりしてたのに、何とも思ってないなんてことは」

「でも、あの子達はいつも集団で、ひとかたまりだった。一人ひとりがどう思ってたのかは聞いてない。いつも皆一緒に話をして、メールアドレスも皆一緒に交換して、誰か一人とだけ話す機会もなかった。僕はあの子達を、集団としてしか捉えられなかった」

 そこで渋澤は情けない苦笑を浮かべる。

「ていのいいアイドル扱いだったんじゃないかと思うよ。ルーキーイヤーを乗り切る為に、同期の子との連帯感を維持する為に、皆で一緒になって夢中になる何かが必要だった。僕はその対象として担ぎ出されただけなんじゃないかって」

 冷めた意見はあまり渋澤らしくないように感じた。

 あの女の子達は確かにミーハーな印象もあったが、だからと言ってふざけ半分で渋澤を好いているようにも見えなかった。今の物言いはちょっと酷いんじゃないだろうか。

「本気の子もいたかもしれない」

 俺が告げると、渋澤も穏やかに顎を引く。

「かもしれないな。でも僕には気づけなかった。そういうふうに言ってくれた子はいなかったし、皆が横並びに接してきてるんだから、その中に本気の子がいたとしても気づけるはずがない。本気で恋愛するつもりがあるなら、皆と同じことなんてしないだろ?」

 そんなもんかな、と俺は首を傾げた。

 どうせ俺にはわからない次元の話だ。奴の辛さは、もてる男特有のものなんだろう。

 そしてその辛さをわかってやれた女の子は、まだいないんだろう。

「大体、恋愛ってのは真面目にするものだ」

 渋澤が溜息交じりに続ける。

「皆と一緒に、足並み揃えてするようなものじゃない。仕事の片手間でするものでもない。あの子達が仕事と恋愛を両立させていたならそれはすごいことだと思うけど、僕にはそこまでの真剣さが読み取れなかった」

 アスファルトの道を辿る、こつこつと乾いた足音が合間に響く。

「僕は両立出来なかったんだよな。学生時代からの彼女とは仕事の忙しさが原因で別れた」

「言ってたな、一昨年」

「ああ。だからもう、真面目に出来ない恋愛はしたくない。好かれるのは嬉しいけど、こっちだって慎重にもなるよ」

 奴の言葉に、俺はバレンタインデー前の清水の言葉を重ね合わせる。


 清水も渋澤も、恋愛は自発的にするものだと捉えているようだ。

 日々を生き抜くのにいっぱいいっぱいで、恋愛なんてしてられないらしい清水。

 真面目な恋愛がしたいからこそ、相手の好意にも慎重になる渋澤。

 二人の意見が間違っているとまでは思わないが、同意することも難しかった。

 恋愛って、するものなんだろうか。したくないと思っていたら、せずにいられるものなんだろうか。自分の意思如何にかかわらず、好きになるのが恋愛じゃないのか。

 俺は未だにそう思っている。自由意思が働くほど理性的なものじゃないと思う。数少ない実体験からの意見、と言ってもそれすら昔の話だ。もう何年も昔の。

 本当のところはやはりわからない。


「それに、追われるより追う方がいい」

 渋澤がふと言った。

「播上も思うだろ? 恋愛は追い駆けてる方が楽しくて、追い駆けられる方は疲れるだけだ。そう思わないか?」

 俺は苦笑して、返事はしなかった。

 正直に言えば一生に一度くらいはきゃーきゃー言われてみたいし、一人くらいには追い駆けられてもみたい。渋澤みたいなことも言えるようになりたい。

 まあ、相手にもよるっていうのもあるな。追い駆けてくる人が藤田さんみたいな人だったら困る。そんな可能性もないくせに、脳内で勝手に困っておく。


 ただ今は俺も、友達を大切にできたらそれでいい。

 俺にはかけがえのない友達が、二人もいるからな。

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