三年目(2)

 二人きりになったテーブルは、しばらく静かだった。

 対照的にハーレム席は相変わらず賑やかで、その状況だけじゃなく、能天気なくらいの明るさまで羨ましくなった。


 ふう、と清水が溜息をつく。

「さっき、顔、引き攣ってなかった?」

「……いいや」

 正直に、俺はかぶりを振る。随分と穏和に受け答えしていたと思う。

 清水はひょいと首を竦めて、

「切れたら負けだと思って意地になってた。でもぎりぎりだったかな、顔に出てなかったらいいけど」

「出てなかった」

「そっか、よかった」

 今度は心底ほっとしたような笑顔が浮かんだ。

 俺もつられて笑う。同じように安堵していた。

「相変わらず、かちんと来ること言う人だなあ」

 そう言って、清水は再び箸を動かし始める。今日は鶏の唐揚げ弁当らしい。一つ口に運んで飲み込み、それから続ける。

「でも、可愛い人でもあるよね」

「――は? え、何が?」

 急に話題が転換したような気がして、俺はとっさに聞き返す。

 清水は真顔で答える。

「藤田さんが」

 言葉に窮する。

 いや、美人だというのは認める。黙ってさえいれば、渋澤の隣に並んでいても遜色ないきれいな人だと思う。

 しかしいかんせん気性が荒過ぎるし、口が悪過ぎるし、性格も言うことも怒った時の顔もきつくて――俺には可愛さを見出せそうにない。

「渋澤くんのことであんなにやきもち焼くとはね。普段は結構しっかりした感じなのに、恋愛となるとむきになっちゃうタイプなのかなあって思ったら、何だか可愛くて」

 清水に言わせればそういうことらしい。

 そこまで説明されても俺には、あまりぴんと来なかった。

「可愛い、のか」

「可愛いよ。誰彼構わず噛みつくのはどうかと思うけど、あれだけ一生懸命恋愛されると、こっちは怒れないじゃない。切れた時点でこっちの負けになっちゃうもん」

 すっと、彼女の視線が動く。


 賑々しいハーレムテーブルはそれぞれに食事を終え、今は和やかな歓談タイムらしい。ルーキー女子一同からは矢継ぎ早に質問が飛ぶ。

 ――渋澤さんの趣味って何ですか? 車は何に乗ってるんですか? お誕生日はいつですか? 好きな音楽は? 好きな場所は? 好きな食べ物は?

 渋澤はそれに丁寧に答えているようだ。楽しそうにも見えるし、大変そうにも見えてしまう。


「藤田さんはああ言ったけど、私は恋愛出来るのも優秀さのうちだと思うな」

 声を落として、清水が続けた。

「私が入社一年目の頃は、とてもじゃないけど誰かを好きになる余裕なんてなかった。もういっぱいいっぱいで、他の人なんてそもそも構ってもいられなかったし」

 それは俺だって同じだ。今年の新人はすごいなと素直に感嘆している。

「だからあの子達はすごいと思う」

 清水も素直な感嘆をルーキー達に向けている。

「でもって、やきもち焼いちゃう藤田さんは可愛いと思う。十近く若い子達と一緒に恋愛してて、渋澤くんの動向がいちいち気になるっていうんだから」

 丁寧に説明されても、やはり俺にはちっともわからない。

 これは女の子同士の共感というものに他ならないんじゃないだろうか。つまるところ、男にはまるでお手上げの感性だ。

 どう受け答えしていいのかもわからず、センスのない質問をぶつけてみる。

「そう言う清水は恋愛してないのか」

 清水が藤田さんみたいにやきもちを焼いたり、新人の女の子みたいにきゃーきゃー言うのはあまり想像出来ない。ちょっと見てみたい気もした。

 返ってきたのは疲れたような苦笑いだった。

「いや無理。私、今でもいっぱいいっぱいだもん。日々を生き抜くのにエネルギー使い果たしちゃっててそれどころじゃないよ」

「そんなもんか」

 彼女は一年目と変わらず、仕事ではまだ余裕が持てない状況らしい。むしろ三年目だからこその余裕のなさなのかもしれない。

「清水は部長秘書だったっけ」

「だったっけって、忘れないで欲しいなあ。そうだよ」

「悪い。何かの秘書だってことは覚えてた」

 以前、彼女に聞かされた業務内容の方が印象深かった。

 秘書の仕事というのは漫画や映画みたいに華やかなものではないらしく、ほとんど雑用係と等しいのだとか。お茶を汲んだり食事や店や車の手配をしたり、部長が貰った名刺の内容を控えたり、その他諸々。そして多岐にわたる業務内容の全てにおいて気を遣い神経を配ることが多く、それはもう恐ろしい激務らしい。

「秘書って言えばもてるよって先輩が言うから、一回だけ合コンに連れてってもらったことがあるんだよね」

 肩を竦めた清水が、そんなことを話し出した。

「で、行ってみたのはいいんだけど、いざお酒の席になったらお酌だの注文取りだの、自己紹介して名刺貰ってメルアド控えてって、やってることが仕事と変わらないなって思って。そう考えたらあっさり冷めちゃって、結局それ以降は誘われてもやんわり断ってる」

 こっちを見て、はにかむように笑っている。

「今の自分が駄目駄目だなって意識はあるんだけど、やっぱり無理。恋愛は余裕のある優秀な人だけがすべきだと思うよ」


 清水の言うことが納得出来ないわけではないものの、同時に別のことも思う。

 恋愛って、全くの自由意思だけで出来るものなんだろうか。

 余裕がないからしたくない、と思っていたらせずにいられるものなんだろうか。

 藤田さんもあの新人の子達も、渋澤を自発的に好きになろうとしたわけではないだろうに。競争率が高くても、先輩方に睨まれようと新人の若さが驚異だろうと、好きになってしまったからしょうがなく嫉妬したり夢中になったりする。

 だったら、清水だって無理と言い切ることも出来ないんじゃないだろうか。

 もちろん彼女に恋愛して欲しいというわけじゃない。むしろ清水に彼氏が出来たら、正直言ってショックを受けると思う。恋愛感情がなくても、こればかりはしょうがない。

 男心って奴は全く、自分自身でさえ度しがたいものだ。


「ところで、播上は?」

 清水のことを考えている時、当の清水に声を掛けられると焦る。

「な、何が?」

「だから、恋愛。播上はしてる?」

「全くもってしてない」

 今のところ、したいかどうかもよくわからないし、恋愛したとしてそれを維持していく気力と体力があるか自信もない。また昔みたいに『播上くんには何作ってあげたらいいかわからない』と言われたら、もう二度と立ち直れない気もする。

「そもそも出会いがない。清水はまだいいよ、俺なんか合コンなんて随分とご無沙汰だ」

「え、じゃあ出会いがあったら恋愛するの?」

 清水は怪訝そうに尋ねてくる。

「播上は恋愛する余裕、あるんだ? だったら気の持ちようかもしれないよ」


 じっと見つめられると、何だか妙に焦る。

 普段しないような話題をしてるからだろうか。

 そういえば、恋愛云々なんて清水と話したのは初めてかもしれない。どういう流れでこうなったんだっけ。ああそうだ、俺が振ったんだ。


 答えが自然と早口になってしまう。

「それはその時考える。と言うか、いざとなったら『する、しない』じゃなくて『せざるを得ない』になると思う。恋愛するかどうかなんて自分じゃ選びようがないだろ」

「わあ、播上も案外可愛いこと言うね」

 案外って何だ。

 むしろ可愛いって何だ。

「さっきも言ったけど、播上は女の子に興味なさそうだったから。硬派なのかなあって」

 いや、硬派って。

 こんな、じっくりことこと煮込んだ後の昆布みたいな奴を捕まえて言っていいことじゃない。俺のどこを見てそう思い込んでいたのか理解に苦しむ。

 清水の言うことの方がよっぽど可愛いと俺は思った。思っても口にはしなかった。清水の思うような自分でありたいと望む反面、いやそれは無理だろ絶対無理だと自覚済みの心もあって、内心ものすごく複雑だった。

「でも、播上の方が私よりは確実かもね」

 至って明るく清水は言う。

「焦らなくてもそのうち恋愛出来るよ。この先バレンタインもあるし、頑張って!」

 あっさりと励まされて、それに何と答えるべきか考えているうちに、その日の昼休みは終わってしまった。


 清水の励ましの甲斐もなく、バレンタインデーはごく平穏に過ぎ去っていった。

 俺が貰ったチョコレートは一つだけで、その一つというのも社内の女子社員が出資し合って購入している義理中の義理というチョコだけだ。総務課の机に『ご自由にお取りください』と放置されていたから、指先に乗るサイズのを一個貰った。それだけだった。

 清水は義理チョコも配らない主義らしく、三年間で一度も貰ったことがない。他の当てもないので本当に、それだけだった。


 対照的に、渋澤はかなり貰ったようだ。

 昼休みには女子社員から次々にチョコレートを差し出されているのを見かけていたし、手渡しの出来ない慎み深い女子社員達は、総務課の渋澤の机にチョコレートの小山を築いていた。

 勝負時とは言え、この日の奴のもて方は尋常じゃなかった。贈られたお菓子の置き場所にさえ困っていた様子で、結局午後の仕事はずっと机上のチョコと共にこなしていた。

 羨ましい気持ちは当然あったが、だからと言って渋澤をやっかむ気にもなれなかった。仕事は出来るし顔はいいし、性格だって明るく社交的な男だ。嫉妬なんてするよりも、生まれ変われるなら一度は渋澤瑞希になってみたいなと、馬鹿げた妄想でもしている方がよほど健全だった。


 ぼんやり眺めるだけの二月十四日も過ぎ、騒々しさを引きずったまま、二月が終わろうとしていた。

 とうに定時を過ぎた頃、俺はまだ総務課でパソコンと向き合っている。

 オフィスには俺の他に、バレンタインのヒーローこと渋澤がいるだけだ。二月二十六日の午後九時過ぎ、月末に加え年度末をも控えてあれこれと忙しい。ここ最近は残業するのが当たり前となっていて、渋澤も黙々とキーボードを叩いている。

 いつでも仕事はあいつの方が速かった。同期入社で同い年で同じ男でありながら、何一つとして敵わない。せめて今日くらいは奴より先に上がってやろうと無駄な対抗心を燃やしつつ、俺は残業に勤しんでいた。


「――播上」

 二人きりのオフィスに、ふと渋澤の声が響いた。

 呼ばれて顔を上げれば、隣の席の渋澤は、もうパソコンをシャットダウンしているところだった。

 結局負けてる。俺は少し慌てた。

「もう上がりか?」

 尋ねると、奴はすぐに頷く。

「ああ。播上は?」

「もう少し掛かる。鍵なら俺が閉めてくよ」

「そうか。もう少しってどのくらいになる?」

「あと三十分は掛かると思う」

 俺は苦笑してからラップトップに視線を戻す。一人きりの残業は空しいことこの上ないが、渋澤の方が仕事が速いんだからしょうがない。今日のところは快く見送ってやろう。

 だが、渋澤は椅子から立ち上がらなかった。その椅子ごとこちらを向いたのが視界の隅に映った。

 軋む音の直後に、奴の声が続く。

「実は、お前に話があるんだ」

「……話?」

 改まった調子を訝しく思いつつ、俺は渋澤をもう一度見やる。人に好かれる端整な顔立ちが、今はわずかに強張っていた。

「話って何だ? 妙に改まってる感じだな」

 渋澤のそういう態度は珍しい。俺が聞き返すと渋澤は、ためらうように視線を外した。

「いや……大した話じゃないんだけどな」

 もったいつけているのも何となくおかしい。もしかしてと察して、尋ねてみる。

「ここだと話しにくいことなのか? だったらこれ片づけてから電話するけど」

「いいんだ、そこまでしなくても」

 渋澤がかぶりを振り、その後でぐるりと総務課を見渡した。

 二人で黙ると室内は不気味なくらいに静まり返る。

 電気機器の唸るような低い音だけが聞こえる。閉ざされたドアの向こう、廊下にも人の気配はないようだ。

 しばらくしてから、渋澤は再び口を開いた。

「大した話じゃない。仕事をしながらでも聞いてくれないか」

「あ、ああ。いいよ」

 俺は困惑しつつ頷く。


 そこまで改まるような話って何だ。

 バレンタインデーの後だから、まさか誰かと付き合うことになった、って話じゃないよな。それが藤田さんである可能性は低いだろうから、多分渋澤は、俺に覚悟をしておけと言いたいんじゃないだろうか。明日以降は藤田さんが荒れるから気をつけろよ、とか。

 そうだとしたら、素直に『おめでとう』が言えるだろうか。


 俺がラップトップに向き直ると、渋澤が息をつくのが聞こえた。

 そして、

「異動が決まったんだ」

 渋澤が発した言葉は、俺の予想をはるかに越えていた。

 はっとして奴は見る。渋澤はこちらを向いたまま、照れているようでも、どことなく寂しげでもある顔をしていた。

「異動?」

 三年目の俺にはまだ聞き慣れない単語だった。声に出して問い返す時も、口の中に奇妙な違和感が残った。

 それで渋澤が顎を引き、

「昨日、内示があった。四月一日付で僕は本社勤務になる」

 表情よりは抑えた声で続けた。


 本社勤務、という言葉の方が聞き慣れなかった。

 少なくとも俺には縁のない言葉だった。藤田さんにもそう言われたことがあった――播上くんは本社に栄転しそうなタイプじゃないし、と。出世しそうな人間じゃないんだと言われても反論は出来なかった。俺自身がそう思っていたからだ。

 でも、渋澤は違う。


 本社勤務ということはつまり、

「栄転じゃないか」

 気がつけば、そう口に出していた。

 渋澤は目の前でぎくしゃくと笑んだ。

「ありがとう」

 気遣わしげな笑い方だった。気を遣ってもらう必要なんてちっともないのに。渋澤にはそれだけの実力がある。

 慌てて告げた。

「ああ、おめでとう」

「うん。嬉しいよ、播上ならそう言ってくれると思った」

 奴はほっとした様子だった。俺が怪訝に思っていれば、更に続けてきた。

「まだ誰にも話してないんだ。親には一応言ったけど……この社内で真っ先に打ち明けるなら、播上にしようと思ってた。ずっと同期で一緒にやってきたし、お前には世話にもなったから」

「世話なんてしてない」

 俺も笑ってかぶりを振る。

 でも、さぞぎこちない笑みになっていただろうと思う。


 世話なんてしてない、それは本当だった。

 渋澤とは同期で、同じ総務課で、時々一緒に飲んだり食事に行ったりするくらいで、特別に親しいというわけでもなかった。社内では仲のいい方だったのかもしれないが――渋澤が異動の内示を、誰よりも早く俺に打ち明けてくれたということは。

 その気持ちに、なのに素直に応えられそうにはなかった。少なくとも俺は、渋澤にそこまで思ってもらえるような人間じゃない。

 ショックだった。

 渋澤との差を、こんな形で、改めて見せつけられたことが。

 わかっていたくせに、今までだって嫌と言うほど思い知らされていたくせに、改めてショックを受けたらしい自分自身に動揺していた。


「いや。播上には感謝してるよ」

 奴は安堵の色を湛えた声で言う。

「お前がいたからこの三年間、何かと心強かった。僕がこの仕事を続けてこれたのは、播上のお蔭でもあると思う。いろいろと、ありがとう」

 それから、二人きりの総務課にもう一度視線を巡らせる。

 人のいない机がいくつか並んだオフィス内を、感慨深げに眺めている。横顔が芸術品の彫像みたいに整って見えた。

「少し、寂しいけどな。お前や清水さんと離れるのは。でも精一杯頑張ろうと思うよ」

「……お前なら大丈夫だって」

 その横顔に、俺は告げた。ろくな根拠もない励ましではあったものの、事実になるだろうとも思った。渋澤には何の心配も要らない。こいつならどこへ行ったって上手くやれるだろうし、仕事も出来るだろうし、女の子にだってもてるだろう。

 俺とは違う。全てにおいて。

「ありがとう」

 こちらを向いた渋澤が、何度目になるかわからない礼を言った。

 そしてすっと立ち上がり、椅子の背に掛けてあった上着と、机上の鞄とを掴む。見下ろしてくる顔が明るかった。

「じゃあ、また明日。聞いてくれてありがとう、播上」

「お疲れ」

 応じた声が思った以上に力なく響き、俺は慌てて言い添える。

「送別会では端の席に座れよ。俺が隣に座ってやる、藤田さんが迫ってこないように」

 それで渋澤が吹き出した。

「頼む。あの人にも一度きちんと話をしたいけど、どう言えば角が立たないか考えあぐねてるんだ」

「どう言ったって角は立つだろ。異動を理由に言い逃げすればいい」

「ああ、それいいな。そうしようかな」

 別れ際はようやく、いつものような冗談めかしたやり取りになった。

 でも、そこまでが限度だった。


 渋澤が先に帰り、一人きりになった総務課で、俺は気が抜けたようにぼんやりしていた。

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