三年目(1)

『正ちゃんったら、今年も帰ってきてくれなかったわね』

 電話越しに、拗ねたような母さんの声がする。

 ちょうどこちらから掛けようかと思っていたところだった。曖昧に笑って応じる。

「ごめん」

『勤め出してから一度もこっちに来てないじゃない。お母さん、寂しいなあ』

「年末は忙しくてさ。仕事納めの後は大掃除とおせち作りに追われてた」


 嘘ではない。

 就職してから三度目の大晦日を迎えていた。総務の仕事に慣れたつもりでも、年末進行の忙しさには未だに慣れなかった。きっと何年経ってもそうなのかもしれない。


 今は大晦日の夕刻、台所で鍋をことこと言わせながらの通話だ。

 母さんは溜息をついている。

『正ちゃんはどうせ帰ってきたがらないと思ってました』

「い、いや、帰りたくないわけじゃないって。ただ――」

『思ったから、今年の年末年始は家以外の場所で過ごすことにしました』

「はあ?」

『さてここで問題です。お父さんとお母さんは今、どこにいるでしょうか!』


 家にいないって、じゃあ母さんはどこから掛けてるんだろう。

 携帯電話はこういう時に不便だ、居場所を装うことだってできるんだから。


「どこって言われても、伯父さん家とか?」

 ほとんど当てずっぽうで答えた。

『ぶぶー』

 嬉しそうに母さんが俺の回答を切り捨てる。

「じゃあわからないよ。降参だ」

『ちょっと正ちゃん、白旗揚げるの早過ぎるんじゃない?』

「いいから。俺、昆布巻き煮てるとこなんだから」

 スプーンで煮汁をこまめに掛けながら、ゆっくりと昆布巻きを煮込む。

 台所に醤油のいい匂いが立ち込めていた。

『あら、そうなの。中身何にした?』

「鶏肉とごぼう。やっぱ肉がないと物足りないし」

『若い人はそうよねえ。正ちゃんなんて食べ盛り育ち盛りだものね』

「さすがにもう育ってはいないよ」

 歳を取っても身長が変わらなくなってから久しい。毎年のように背が伸びていたのは、もう十年以上も昔の話だ。

「で、母さんは今どこにいるの」

 スプーンを動かしながら尋ねると、電話からはふふっと楽しげな笑いが聞こえる。

『実はね、温泉旅行に来ちゃったの!』

「温泉? それはまた随分と豪勢な年越しだ」

『そうなのよ! お父さんが奮発してくれてね、市内の温泉旅館でいい部屋取ってくれたの。客室露天風呂なの!』

 興奮気味に母さんがまくし立てている。

 俺の実家がある町は、温泉地としてもそこそこ名が通っている。近年の流行は客室に露天風呂を作ってしまうという贅沢の極みみたいなサービスで、地元の温泉旅館がテレビに取り上げられているのも何度か目にしていた。

『窓からの景色も最高よ。このオーシャンビュー、正ちゃんにも見せてあげたかった』

 母さんが年甲斐もなくはしゃぐので、俺は少々呆れた。

「海なんて毎日見てるだろ」

『まあそうなんだけどね』


 海辺の温泉地は観光客からすれば魅力的なんだろう。

 だが地元の人間からすれば海なんて散歩がてら見に行けるし、温泉なんて日帰り入浴で十分だ。旅館やホテルはさしづめ非日常的別世界というところだった。

 それでも自営業の人間にとっては年末年始だって非日常的だし、別世界だとも言えるだろう。俺も小さな頃は、家族三人でのんびり出来る大晦日や正月が好きだった。


『でもたまにはいいでしょ? お店が休みの日くらいは羽を休めたいし、それにこうしてるとまるで新婚の頃を思い出すみたいで――やだ、お父さんったら照れちゃってもう!』

 母さんのはしゃぐ様子に反応する声は聞こえなかった。

 でも何となくわかった。父さんは今頃そっぽを向いているに違いない。

「じゃあ、俺が帰る必要なんてなかったんじゃないか」

 もしアポなしで帰ってたらえらいことになっていただろう。もぬけの殻の実家の前で立ち尽くす自分の姿が容易に想像できてしまう。

『そんなこと言わないの』

 母さんは俺を軽くたしなめる。

『本当はね、正ちゃんから帰るコールがあるのをずっと待ってたんだから』

 それから声を落として続けた。

『一家三人で温泉って言うのもいいかなあと思ってたのよ。でもお父さんったら、温泉を餌にして釣り上げるような真似はするなって言って。正ちゃんが自分で帰ってきたいって言い出すまで待ちなさいって言うから、お母さんも待つことにしたの』

 意外な言葉に、俺は面食らいつつ反論する。

「別に、帰りたくないわけじゃ」

『わかってるわよ。ただね、お父さんだって、お店のことやあなたのお仕事の話だけしたがってるわけじゃないんだから。いつでも、気軽に帰ってきていいのよ』

 母さんは言うが、でも、そんなのは無理だ。


 父さんと顔を合わせれば、いやでもあの店のことを話す羽目になるだろう。

 俺の方の結論はもう出ているのに、父さんも母さんもまるで軽くあしらってくる。何だかんだ言っても最終的には、俺があの店を継ぐものだと思い込んでいるようだ。

 俺もできるものならそうしたかった。無理だとわかったから就職もしたし、いろいろあっても仕事を続けている。跡を継げないと宣言した一人息子に実家での居場所はない。


「来年、できたらそうするよ。考えとく」

 やっとの思いで俺は答えた。

 母さんは何もかもお見通しみたいに小さく笑って、

『来年のお正月でもいいわよ、なーんてね』

 がっくり来た。

「何言ってんだ、家にいないんだろ、二人とも」

『何だったら鍵を置きに帰るわよ。郵便受けに入れておくから、開けて入ってなさい』

「そういう物騒なことするなよ、このご時勢。とにかく今年は夫婦水入らずでどうぞ」

 投げやりに答えて視線を落とす。鍋の中の昆布巻きが乾き始めていた。慌ててスプーンを柄杓のように動かす。

 煮汁もだいぶ減ってきた。そろそろ出来上がりだ。

『じゃあお言葉に甘えて。正ちゃんもよいお年をね』

「うん、母さんも。父さんにもよろしく」

 俺が言い添えると、何がおかしいのか母さんはまた笑った。そして続ける。

『もうじき、三年目も終わりね』

「急に何?」

『正ちゃんがお仕事を始めてからのことよ。何でも三年が節目で、三年続けばひとまず安泰って言うじゃない? ちゃんと続けられて偉いわ』

 当たり前のことを誉められると、どうにも照れる。

 照れ隠しで応じた。

「まだ無事に終わるとは決まってないよ。三年目も、あと三ヶ月あるんだし」

『あら、三ヶ月なんて今更ちょろいでしょう。頑張ってね、正ちゃん』

「ああ」

 もちろん頑張るつもりでいる。

 一年目や二年目と比べると、三年目は実にあっさり過ぎ去ったように思う。


 電話を切った後、頃合を見てガスコンロの火を消した。

 鍋を下ろし、昆布巻きを取り出している最中に、また電話が鳴った。

 今度はメールだ。


『昆布巻きの作り方、教えてくれてありがと。おかげですっごく美味しいのが出来たよ。来年もよろしくね、よいお年を!』

 清水からだった。

 彼女は上司以外には年賀状を送らないと宣言していて、その理由が『ハガキになんて何書いていいのかわからない』とのことだった。年が明けた直後にメールを送ると混み合うから、大晦日に挨拶を送ることにしていると聞いた。

 彼女から年賀メールならぬ年越しメールを貰うのも三回目。文面は例年通りだ。

 こっちの返事もやはり、代わり映えしない、いつも通りのものになる。

『こちらこそ、来年もよろしく』

 清水との関係も変わったところはない。相変わらずのメシ友のままで、気楽にやっている。そうしていることでの不都合も特になかった。


 むしろ変わったのは周囲の反応だ。

 去年の夏に藤田さんとひと悶着あってからというもの、俺と清水はお互いに気を遣うようになった。社外では絶対に会わない、という境界線は思いのほか周囲の印象を変えたようで、表立って噂をされたり、仲を疑われ問い質されるということも減ってきた。まだ噂の根絶には程遠いが、勘繰られる機会が減っただけでも心の平安は保たれる。

 もっとも一番大きかったのは、俺と清水が三年目を迎えて、それぞれに後輩を持つ立場となったこと、なのかもしれない。

 俺達が噂を立てられた要因の一つには『新人のくせに』という何とも言いがたい感情も存在していたらしく、後輩が続々と入社してきた頃には、そういうやっかみに似た感情は後輩達に向けられるようになっていた。

 良くも悪くも、三年目とは節目の年だ。

 俺もそのことを実感しつつあった。


 年が明けた一月。昼休みの社員食堂はざわついている。

 騒がしいのは毎日のことだが、去年の暮れ辺りからとみに酷かった。年末年始の非日常さを仕事始め以降もそのまま持ち込んできたように浮かれた空気だった。

 かと言って社員の皆が揃って浮かれているわけでもない。あくまでも一部だけが騒々しくはしゃいでいる。

 原因はどう見ても、渋澤だった。


「新人のくせに。何なのあれ」

 藤田さんが肩越しに睨みつけているのは、今年度の新人女子社員達だ。

 そのフレッシュさは年が明けようと何ら失われることもなく、それどころか入社直後の緊張感だけが取り払われて古参の社員達を脅かしている、らしい。

 と言っても仕事面での話ではない。

 ルーキー女子の集団が取り囲んでいるのは我が総務課の渋澤瑞希であり、一つのテーブルに奴が座ると、女の子達が次々と追随する。要は相変わらずのもてっぷりを発揮しているわけで、その光景といったら、さながら富豪の作ったハーレムのようだ。

「渋澤さん、サンドイッチを作ってきたんです。食べてください!」

「私はおにぎりを作ってきました。よかったらどうぞ!」

「おしぼりはいかがですか? 是非使ってください、渋澤先輩!」

 瑞々しい女の子達の申し出に、渋澤はにこやかに応じる。

「ああ、ありがとう。嬉しいよ」

 それでハーレムからは黄色い声が上がって、女の子達の可愛らしいアピールもますます加速していく。両隣の席は奴の為に弁当を作ってきた子だけの特等席になっていて、向かい側の席もたちまち埋まってしまう。

 噂ではあの弁当作りは持ち回り制だとのことだ。至れり尽せりのランチタイムを過ごす渋澤は、当然他の男性社員からのやっかみを一身に浴びているらしい。


 一方で、物怖じしない入社一年目の女の子達は、藤田さんを筆頭にした先輩女子社員には鬱陶しいものでしかないようだ。

「仮にも先輩に対してあの態度はないでしょうが!」

 藤田さんが低い声で呻く。

「きゃーきゃー言うことだけ一丁前で、仕事はろくに覚えらんないし!」

 なぜか俺と清水のいるテーブルに座ってきて、渋澤の様子をちらちら窺っている。

 同席すること自体に不満はない――多少なくはないがどうせ言えやしない――が、その手の愚痴をこっちに向けられるのは勘弁して欲しい。あのハーレムの中には総務課の新人もいて、それが八年目の先輩の神経を余計に逆撫でしているらしい。

 相槌も打てずに黙る俺に、藤田さんが水を向けてくる。

「ねえ、あの子生意気じゃない? 仕事も出来ないうちから社内恋愛とかどうなの?」

 きっと俺もそんなふうに思われてたんだろう。表向きは無難に答えた。

「俺だって一年目の頃はよく叱られてましたし、あんなものですよ。挨拶の出来るいい子ですし、いいんじゃないですか」

「男ってこれだから」

 お気に召さない回答だったのか、藤田さんはつんと顎を反らした。


 実際、総務課の新人の子に限って言えば、視線が渋澤にしか向いてないこと以外は特に問題もないと思っている。

 ルーキーなんて皆あんなものだ、物覚えは悪いし仕事は遅い。そしてやたら同期とつるみたがる。俺もそうだったからよくわかる。

 他の課の子についてはよく知らないが、間違いなく似たり寄ったりだろう。むしろ一年目のうちから恋愛に熱中出来るバイタリティには感心している。

 そんな余裕、あの頃の俺にはなかった。


 彼女たちのハーレムについては『羨ましい』という感情しか持ちようがないので、俺の関心事はもっぱら渋澤の動向一つに尽きる。

 あいつは、あの中の誰かと付き合うんだろうか。

 学生時代からの彼女とは別れたと聞いている。その後、誰かと付き合ったという話は聞かないから、多分フリーなんだろう。渋澤はあの中から彼女を選んだりするんだろうか。

 もちろん恋愛は自由だが、もしも藤田さんを差し置いて他の子と付き合ったりしたら、その日は総務課に血の雨が降るかもしれない。だからなるべくこっそりやって欲しい。藤田さんと付き合ってくれとは言わないから。頼む。


 俺が必死で祈りを捧げていれば、

「学生時代を思い出すなあ。ああいう先輩って一人はいたよね」

 隣では清水が暢気な声を上げていた。

 こちらを見て、何やら楽しそうに笑う。

「何だか渋澤くんが遠い人になっちゃったみたい。あれだけもてたら気分いいだろうね」

「確かに羨ましくはあるな」

 それはもうものすごく。非常に羨ましいと思う。

 だが俺の言葉を聞いた途端、清水は目を瞠った。

「え、播上でもそういうふうに思うんだ?」

 驚かれたようだったから、逆にこっちが驚く。

「どういう意味だよ」

「だって播上からその手の話聞いたことないし、てっきり女の子に興味ないのかと」

「なくはないよ、多少は」

 単にご縁がないだけだよ。

 と、はっきり答えるのはあまりにも悔しくて、俺はそれだけ答えた。

「播上くんは『他の女の子』に興味ないだけでしょ!」

 すかさず、不機嫌そうな藤田さんが噛みついてくる。

 それこそどういう意味かと問い返す前に、大先輩は返す刀でばっさりと言い切った。

「大体ね、若さなんていつまでもあるもんじゃないの。若さだけ売りにして言い寄ったってどうしようもないんだから。渋澤くんならその辺り、ちゃーんとわかってると思うけど」


 言われて俺は、渋澤へと視線を転じる。

 比類なき色男ぶりを発揮する渋澤は、そういえばどの女の子にも一律で同じ対応をしている。にこやかに礼を述べつつも、決して一人を特別扱いはしていない。

 となれば、あの中に奴の本命はいないってことなんだろうか。


「渋澤くん、格好いいからもてますしね。きっと女の子のあしらい方だって知ってますよ」

 清水が藤田さんに向かってそう言った。

 多分、安心させようとしたのだと思うが、相手が悪い。逆効果だ。

 案の定、藤田さんは眉を逆立て清水を睨む。

「そう言うけど、清水さんはどうなの?」

「何がです?」

「案外、清水さんも渋澤くん狙いだったりして。同期だし、よく一緒にご飯食べてたじゃない」

 例によって、きついことを平然と言う人だ。

 清水は一瞬怪訝そうにしたものの、すぐに秘書らしい苦笑を作った。

「やだな、違いますよ。渋澤くんとは、播上経由で話すだけですから」


 多分、それは事実だと思う。

 清水と渋澤が二人でいるところは見たことがないし、昼休みを一緒に過ごす時はあくまで俺を含めた三人で、というのがいつものパターンだった。

 そもそも清水が恋愛をしている姿が、俺にはどうとも想像しにくいものだった。むしろ彼女の方こそ男に興味がなさそうだと思っていた。


「それ。そこが怪しいんだってば」

 だけど藤田さんは不機嫌そうに指摘を続ける。

「実は播上くんを踏み台に近づこうとしてない? だから仲良くなったんじゃないの?」

 俺だったら、そこまで言われたら腹が立つ。

 現に今もよっぽど口を挟んでやろうかと思った。清水なら、たとえ渋澤のことが好きだとしても絶対にそういう真似はしないはずだ。

 でも、

「違いますって。私と渋澤くんとじゃ全然釣り合わないし、そんな無謀な真似しませんよ」

 清水があくまで笑んで応じたので、俺は怒りを飛び出させる必要もなかった。

 それで藤田さんも納得したように頷いた。

「わかってるならいいんだけど」

 むしろ俺の方が納得できず、やっぱり腹が立った。

 

 そして藤田さんは、不機嫌さをぶつけるように猛然と食事を終えた。

 それから俺達には一言もなく席を立ち、去り際にハーレムを睨みつけていくことも忘れなかった。

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