二年目(5)

 次の日、俺はパンプキンパイを作って会社に持参した。

 昼休みに落ち合った清水は、件のパンプキンパイを見るなり絶句した。食堂のテーブルの上、彼女の目につくように差し出せば、ぎくしゃくした動作で俺を見てくる。

 なぜか表情が硬い。

「どうした?」

 尋ねると、彼女は直後、がっくり項垂れていた。

「覚悟はしてたけど……こんなに上手く作られるとへこむ……」

「ほぼレシピ通りに作ったんだけどな」


 昨晩、清水がメールでカボチャを使ったお菓子のレシピをいくつか送ってくれた。

 俺はそれを元に、初めてのお菓子作りに挑戦してみた。

 それで作ったのがこのパンプキンパイだ。持ち運びの手軽さと持ちのよさから決めた。夏場はどうしても食品衛生に気を遣うから、きちんと火を通した上で、冷蔵保存も可能なメニューを選んだ。

 手のひらサイズの四角いパイを八つ、焼いてきた。クーラーバッグに保冷剤と一緒に入れておいたので、もしかすると水気を含んで生地の見栄えが悪くなっているかもしれないと思ったが――心配は要らなかった。

 お昼時でも、卵黄を塗ったパイはつやつやしていた。焦げ目もいい具合についている。上々の出来だ。


「その、『ほぼレシピ通り』ってところが気になる」

 清水は一生懸命唇を尖らせようとしていた。

 でもほとんど、笑顔だった。

「播上だもん、何か一工夫加えたんでしょ」

「それなりに」

「なら美味しいに決まってるよね」

「俺は美味しいと思ったけど、清水の口に合うかどうか」

「いいよもう、自信あるってはっきり言っても。そういう顔してるもん」

 笑う清水に指摘され、結局は俺も、その事実を認めた。

「初めてにしては上手く出来たと思ってる」

「……いやもう、初めてにしてはとかそういう段階じゃないと思うよ」

 彼女がそう言ってくれたのは嬉しい。


 俺にとってお菓子作りは未知の分野だ。

 さぞ繊細な技術が必要なのかと思っていたが、清水の教えてくれたレシピはそれほど難しいものではなかった。本格的な道具も必要としていなかったし、材料もほとんど家にあるもので揃えられた。お蔭でアレンジを加える余裕もあった。


「じゃあ、早速いただきます」

 清水はねずみ柄の弁当袋を脇へやり、お菓子へと手を伸ばした。

 一つ手にとって齧りつく。さくっと微かな音がして、瞬間、彼女の顔が綻んだ。目の端でこちらを見てくる。俺も笑みを返せば、口をもぐもぐ動かしながら笑いを堪えていた。

 飲み込んでから、彼女は言った。

「レシピ通りに作らないにも程があると思います」

「そんなことない。そこまで突飛なアレンジはしてないからな」

 即座に否定する。

 すると、二口目を食べてから言い当てられた。

「パイシートを使ってないよね。生地がさくさくだし、バターの香りもすごくいい」

 さすがは清水だ、ご明察。

「当たりだ。生地から作った」

 正直に答えれば、たちまち彼女が悔しそうにする。

「お菓子作り初めての人がすることじゃないって! 播上、経歴詐称してない?」

「してないよ、失礼な。パイ生地は何度か作ったことがあるだけだ」

「ほら。作ったことあるんじゃないの」

「パイ皮包みはたまに作るんだよ。魚のな」

 俺の説明に清水は悔しげな表情のまま、ひとまず一個を食べ終えた。

 息もつかせず二個目を取り、また齧りつく。食べている時は表情が緩んでいる。美味しそうに食べてもらえるのはいい。作り手冥利に尽きる瞬間だ。

「フィリングも何か違う気がする。何入れたの?」

「アンズのジャムを入れた。パイと言えばあれだと思って」

「そこまで手作り?」

「まさか。たまたまあった市販のやつだよ」


 カボチャのフィリングはこってり甘い。味見をしてみて、もう一味欲しくなった。

 そこに甘酸っぱいアンズを加えれば、カボチャの甘さと生地の香ばしさのいいアクセントになると思った。生地の内側に塗ったら外はぱりっと、中はしっとり焼き上がり、予想以上のいい出来映えとなった。


「お菓子作りでは勝てると思ったのになあ」

 清水は引き続きぼやいている。

 パンプキンパイはもう三つ目で、別腹の持ち主とは言え弁当が入るかどうか心配になってきた。

「残りは持って帰って、家で食べたらどうだ。何ならクーラーバッグを貸すから」

「お借りします」

 俺の勧めに彼女は素直に頷いて、クーラーバッグを受け取る。

 それからふと真面目な顔をされた。

「誕生日プレゼントに作るって言ったけど、止めておいて正解だったかも」

 呟くような声が本音のように聞こえて、そうじゃないんだよな、と思う。

「プレゼントなら、心がこもっていればそれでいいだろ」

 フォローのつもりで俺は言う。


 実際、そんなものだ。プレゼントにするなら作った人間の気持ちが伝われば十分で、出来がどうこうなんて文句をつける奴がいるはずもない。

 言葉だけで十分だって思ってる奴もいるくらいだ。気にする必要なんてない。


「でもせっかくなら全力で美味しいのを作りたいじゃない。人にあげるものなら尚更」

 清水は残りのパンプキンパイを丁寧にしまいながら訴えてくる。

「播上だって、全力で作ったんでしょ。今回のお菓子」

 そこが伝わったなら嬉しい。

 口では、違うことを答えたが。

「俺は料理なら、いつでも全力で作ってるよ」

「そっか、心構えからして違うんだ。悔しい」

 彼女は明るい苦笑いを見せながら、こう続けた。

「いつか、全力で勝負したいな」

「勝負?」

「うん。播上に、絶対に『美味しい』って言ってもらえるようなお菓子を作りたい。まだまだ先の話だろうけど」


 彼女はそう言うが、この先、お菓子を作ってもらう機会なんてあるだろうか。

 メシ友としての関係にルールを設けた以上、こうして隣り合っていられるのも会社の中でだけだ。外で会うことはしないと決めたし、お互いの部屋へ行くことは絶対にないだろう。そんな間柄で、彼女にお菓子を作ってもらう機会は、果たしてやってくるだろうか。

 ここ何日かで何度も考えたことに、出せた答えは一つしかない。

 きっと、ない方がいいんだろう。

 清水にこれ以上迷惑を掛けない為にも。メシ友の関係を長く続けていく為にも。


「別に、お菓子じゃなくたっていいだろ。普段の弁当でも頑張ればいい」

 内心を覗かれないよう、軽く告げてみた。

 清水もひょいと肩を竦める。

「普通の料理じゃもっと勝てそうにないもの。お菓子なら、まだ播上の度肝を抜く余地はあるんじゃないかなと思って」

 彼女は相変わらず負けず嫌いだ。俺は彼女のそういうところが好きだった。

「その時を楽しみにしてるよ」

「あ、余裕ありげな言い方。私には無理だと思ってる?」

「そんなことない。本当に期待してる」

「じゃあ頑張る。その時はよろしくね、何年先になるかわからないけど」

 凄く楽しそうな顔をする彼女を見ながら、俺も笑う。

 何年先までこうして一緒にいられるだろう。そんなことも少し、思いながら。


 パイをしまい、二人揃って弁当箱の蓋を開けたその時、声を掛けられた。

「――いつもながら仲がいいよね」

 騒がしい社員食堂でも、声の主が誰かはすぐにわかった。

 とっさに顔を上げる。俺達のいるテーブルの傍ら、食堂のトレーを手にした藤田さんが立っていた。実につまらなそうな顔をしている。


 昨日の今日だけに、不快さは消えていなかった。今日は挨拶でしか口を利いていない。向こうも俺を避けたがっているらしく、午前の仕事では接触せずに済んでいた。

 それがどうして、この期に及んで声を掛けてきたのか。


「仲はいいですよ」

 俺より先に清水が応じた。

 負けず嫌いの顔がぎこちなく笑んで、藤田さんを見やる。

「気に入りませんか、私達が仲良くしてたら」

 こっちがぎょっとするくらいの挑戦的な物言いに、藤田さんは顔色一つ変えなかった。低い声で言い返してくる。

「別に。好きにすればいいんじゃない?」

「じゃあそうします」

「言っとくけど、清水さん。昨日のことは本当に悪いと思ってるんだからね」

 詫びる態度には見えない藤田さんが、ちらと俺を見た。

「播上くんにも。昨日は言い過ぎたみたい、ごめんね。もう脅かされるのはこりごりだから、言わないようにするからね」


 明らかに熱のない口調だった。

 が、それでもこの人から謝罪を引き出せたのは奇跡的と言っていい。俺は何もしてないから、半日の間にこの人なりの心境の変化でもあったんだろうか。


 ともあれ、謝られたからにはこちらも頭を下げておく。

「こちらこそ、生意気を言ってすみません」

「本当にね」

 即座に藤田さんは鼻を鳴らし、俺と清水を見比べた。

 口元に思い出したような笑みが浮かぶ。

「そのうちわかるよ、私の言ってることが正しいって。わからないうちはせいぜいお友達面してればいいよ」

 結局、言ってるじゃないかと思ったが、その気持ちはどうにか飲み込む。

 藤田さんが俺達の傍を離れ、別のテーブルに着いた。もうこちらを見てはいなかった。

 さっきのあれで気持ちの整理はついたってことなんだろうか。


「どう見たって謝ってる態度じゃないな」

 俺がそっとぼやくと、隣で清水が少し笑った。

「でも、知らないふりは出来なかったってことだよ。あの人なりに思うところはあったのかも」

 そんなものかな。

 確かに俺を無視するなり、引き続き怒るなりすることだってできたのかもしれない。知らないふりは出来なかった、か。藤田さんの気持ちなんてさっぱりわからないが、何か事情か主義主張みたいなものがあったりするんだろうか。

 釈然としない俺に対し、清水は更に言ってくる。

「いろんな人がいるから、いろんな考え方もあるんじゃないかな。私達にやましいところがなければ、そのうち理解してもらえるよ」

 やましいところはない。その為の境界線も、予防線も引いておいた。どんなに仲がよさそうに見えても、外では会ってないと言い張れば、疑われる要素もなくなるだろう。

「だといいな」

 なるべく前向きな気持ちで俺は言う。


 誰の言うことが正しいのかはよくわからない。

 藤田さんの言うことも、もしかしたらある意味では間違っていないのかもしれない。


 でも俺だって、俺が正しいと思うことしかしたくない。

 清水と一緒にいられる時間が守られたなら、これでよかったと思うことにする。

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