二年目(4)

「……考えるって、どうやって」

 俺は渋澤に、そう尋ねようとした。

 だけどその時、スーツの胸ポケットで電話が鳴った。

 取り出して画面を確かめると、折しもというか何というか、清水からのメールだった。さすがに動揺した。

 中身を見たら更に動揺する羽目になった。

『ちょっと聞きたいんだけど、藤田さんと何かあったの?』

 何かって、何が。

 どうして清水がその話を。

「播上? どうした、電話か?」

 運転席の渋澤が尋ねてきたが、俺はまともに答えられなかった。嫌な予感がしていた。


 程なくして、渋澤の車は俺のアパートの前に到着した。

 感謝を告げたその後は、一目散に部屋へ飛び込んだ。渋澤も事情を察してくれたのか、挨拶以外は返してこなかった。


 玄関を開けるなり出迎えるのはカボチャの匂いだ。

 ハロウィンにしては早過ぎるカボチャの行列を横目に、俺はベランダへと駆け寄る。帰宅後、真っ先に室内の換気をするのがここ最近の日課となっていた。温い夏の風が吹き込んでくると、野菜の匂いがゆっくり押し流されていく。代わりに夏の夜の匂いがする。

 今日は酷い一日だった、ぐったりと疲れた。何もする気が起きなくて、リビングの床に寝転がる。フローリングも温い。汗ばんだシャツは張りついてきて気持ちが悪く、それでもネクタイを緩める手の動きは鈍い。

 途中で止めて、携帯電話の画面を見る。清水からのメールがそのまま残っていた。

『ちょっと聞きたいんだけど、藤田さんと何かあったの?』

 何かあったのかって、こっちが聞きたいくらいだ。

 着替えもしないまま、俺は清水にメールを打った。

『今日、藤田さんと言い争いになった』

 その一文を送信した後で、今更のように途方に暮れた。


 今日の倉庫での一件は、他でもない清水の耳には入れたくなかった。

 でもメールで尋ねてきたということは、彼女にも何かがあったんだろう。俺と藤田さんの険悪さを悟らせるような何かが。


 返信は、一分と置かずにあった。

『やっぱり本当だったんだ。私、藤田さんから聞いた。播上にものすごく怒られたって』

 俺が怒ったことになってるのか。

 いや、怒りはした。怒ったのは事実だが、文面に目を通した瞬間、嫌な予感が増した。

 憂鬱な思いで尋ね返してみる。

『あの人、何を言ってた?』

 清水は再び、迅速に返事を寄越した。

『今日、播上が私のことで藤田さんを怒って、それで危うく殴られるところだったって。でも反省してるから、私に謝りに来たんだって。帰りに藤田さんに声掛けられて、いきなりそういうこと言われてびっくりしたんだけど、全部本当なの?』

 俺もびっくりした。


 殴ろうとはしていない。殴りたいとは思った。

 そういえばあの人は終業時刻ちょうどに退勤していったっけ。あれは俺より先に、清水に事情を話す――告げ口する為だったのか。あんまりだ。


『口論になったのは本当。殴ってはいないし殴ろうともしてない』

 寝転がったままメールを送る。

 他に何をする気にもならない。このまま寝てしまおうかとも思う。

 ぼんやりする間もなく、手の中で携帯電話が震えた。

『それでもびっくりだけどな。誰かと喧嘩する播上って、ちょっと想像出来ない』

 清水の言葉にどきっとする。


 俺も、藤田さんと喧嘩をする羽目になるとは思わなかった。

 それだけは避けたいと常々考えていた。敵に回すと恐ろしい人だ、どんなにむかつくことを言われようが、無視すべきなんだとわかっていた。

 なのに、見過ごせなかった。聞き流せなかった。


 それを正直に打ち明ける気にはなれず、清水にはこう告げた。

『売り言葉に買い言葉の流れだ。迷惑掛けて悪かった、清水は気にしないでくれ』

 メールを送信してから、ふと不安になる。

 清水はどこまで知っているのか、まだ掴み切れていない。彼女の話題が発端だということは聞いたようだが、藤田さんはどこまでばらしたんだろう。その内容次第では――。

『でも、私の話で喧嘩になったって聞いたよ。迷惑掛けたのは私の方じゃない?』

 返ってきた文章をざっと眺め、天井を仰ぐ。

 キーを押す指が震えた。

『清水のせいじゃない。あの人が何て言ったかは知らないけど、清水は何も悪くない』

 悪くない。何も。

 でも彼女が悪くなくたって、ただ俺と一緒にいるだけで、余計な誤解もされる。無関係の人間にも絡まれる。そして馬鹿みたいに喧嘩を買う友人が迷惑を掛ける。

 男女間の友情は確かに、難しいと思う。

『藤田さんも詳しくは言ってかなかったんだけど、私のことで喧嘩になったっていうのだけは聞いたの。それで播上を怒らせたなら、悪いなって思って』

 だから、清水は何も悪くないのに。

 むしろ俺のせいなのに。


 黙って聞き流せばよかった。

 何を言われても聞こえないふりをしていればよかった。

 清水にまで飛び火させてしまうくらいなら、あんな人、相手にするべきじゃなかった。


 届いたメールを見つめたまま、俺はしばらく返事を打つことさえ出来なかった。どう返しても、今まで通りには戻れないような気がした。きっと壊れてしまうだろうと思った。

 付き合い方を考えろと言った、渋澤の言葉がふと過ぎる。

 次の返信内容が決まった。

『電話、掛けてもいいか?』

 清水は素早く答えてくれた。

『いいよ』


 彼女と電話をしたのは初めてだった。

 いつもはメールと昼休みの会話だけで事足りていたから、初めての電話がこんな内容で申し訳なくも思う。

「ごめん」

 真っ先に詫びると、普段聞くよりも低いトーンで清水が応じてきた。

『ううん、播上が謝ることじゃないよ。何て言うか……藤田さんに今日、そういう話をされた時からわかってた。想像はつかなかったけど、播上は、私のことでは怒ってくれるかもしれないなって』

 その言葉に俺はうろたえた。

 清水はどうしてわかったんだろう。

『自分のことで怒る人じゃないよね、播上。だからそう思った』

 彼女が続ける。

 俺は妙に気恥ずかしくなる。自分のことでは怒らないんじゃなくて、怒れないだけなのにな。特にあの人が相手なら。

『私、迷惑だとは思ってないよ。それは、いきなり言われたからびっくりはしたけど、播上じゃなくて私に謝ってくるのもどうかと思ったけど、でも迷惑が掛かったとは思ってない。藤田さんも言うだけ言ってあとはすぐに帰っちゃったし、別に絡まれたとかじゃないし、ただ謝ってきただけ』


 その光景はイメージ出来た。

 一方的にまくし立てる、反省の色のなさそうな藤田さん。

 いきなり謝罪を投げつけられて、訳もわからず困惑する清水。

 もし俺が居合わせていたら、改めて言い争いになっていたかもしれない。


『播上は、大丈夫?』

 清水が気遣うように尋ねてきた。

 その声を聞いたら、心配かけたくないなって思った。今更か。

「多分、大丈夫だ」

『多分かあ』

「いや、あの人のことは諦めついてるから。今更仲良くなれるとも思ってない」

 明日からは余計に辛く当たられるかもしれない。でもそれはそれでしょうがない。社会に出るとしょうがないことがたくさんあるものだ。

「男女間の友情はあり得ないって、あの人に言われた」

 やはり短く打ち明けた。あまり余計なことは教えたくなかった。

 清水が少し笑う。

『あり得なくないよ』

「難しいとは思う。こんなに他人にあれこれ言われるものだとは思ってなかった」

 俺も否定したくはなかった。清水との間にあるものは友情なんだと信じたかった。他には何もない、純粋な感情だと思いたかった。


 でも、彼女を異性として見ているのも事実だ。

 この部屋に来ると言われた時、確実に、意識してしまうだろうと察していた。だから藤田さんの言葉にもむきになった。指摘されたような薄汚い感情は絶対に認めたくなかった。自分はあんな人間じゃないと信じたかった。

 だから俺は、この友情の純粋さを、誰の目から見ても証明しなくてはならない。


「清水」

 名前を呼ぶと、電話の向こうで彼女が応えた。

『なあに?』

 やけにあどけない口調に聞こえて、次の言葉をためらいたくなる。

 だが結局は、言った。

「今度の約束だけど、止めにしよう」

 重くならないように告げるのは難しかった。

「これ以上迷惑は掛けたくないし、周りに誤解されるのも、清水に悪いから」

『……うん。その方がいいね』

 わずかな間があり、清水が納得したように応じた。

 恐らく予想はしていたんだろう。

『やっぱり難しいのかもね。私達、大人だからかな?』

 きっと彼女には、今までにもたくさんの男友達がいたんだと思う。そういう相手ともフランクに付き合えて、幅広い交友関係を築けて、その素直な気持ちのままでいたんだろうと思う。

 俺も彼女と、そんな付き合い方が出来たらよかった。

「かもしれないな。外で会ってるところを見られたら、面倒にしかならない」

『うん。でも、会社で話し掛けるのはいいよね? お昼ご飯を一緒に食べるのは友達同士でもするよね?』

 清水の言葉に、俺は迷った。


 本当はそれも止めておいた方がいいのかもしれない。

 元はと言えば毎日そうやって過ごしていたからされた誤解だ。清水のことを思うなら、しない方がいい気もする。


 迷った。

 しかし、自分の気持ちに正直になるなら、

「そのくらいなら、大丈夫だ」

 多分。そう付け足したいのをどうにか飲み込む。

 大丈夫かどうかは実のところわからない。またうるさく言われる結果になるかもしれない。ただ誰かに何か言われようと、俺も、清水と一緒にいたかった。清水と一緒にいる時間までをも奪われたくなかった。

『よかった』

 ほっとした様子で彼女が笑う。

『私は迷惑なんてことない。びっくりはしたけど、どうってことなかったよ』

「気を遣わせてごめん」

『ううん、ちっとも』

 沈んだ気分を、明るい声がほんの少しだけ晴らしていく。

 どうにか笑えそうだなと自覚した時、彼女の方が先に笑った。

『あのね、播上』

「どうした?」

『いろいろ言う人はいるけど、そういう人よりも私は、播上のことをわかってるよ』

 途端、笑いたい気持ちが引っ込んだ。

『播上がどういう人かはちゃんと知ってる。だから誰に何を言われても、私は、私の知ってる播上だけを信じてるよ』


 電話でよかったと思う。

 今の俺はものすごく情けない顔をしているはずだ。めちゃくちゃに安心して、気が緩んで、そのくせ笑ってもいられない隙だらけの顔でいるはずだ。そういう表情は、絶対に、清水には見せたくなかった。

 信じていて欲しかった。

 何の根拠もなくていいから、清水には信じて欲しかった。


「ありがとう」

 礼が言えたのは、たっぷり十秒が経ってからだった。気の抜けた声で告げたら、清水が笑った。

『ううん。こちらこそ』

 何がこちらこそなのかはよくわからない。

 彼女には迷惑を掛けたのに。でも、考える余裕もなかった。

「カボチャ、渡せなくてごめんな」

『ああ、うん。それはいいよ。会社まで持ってくるのは大変だろうし』


 持っていくのは構わないにしても、清水に持って帰らせるのが申し訳ない。

 結局、この部屋を占める大量のカボチャは、自分で始末するより他なさそうだ。

 ――と、その時、ひらめいた。


「清水、カボチャを使ったお菓子の話だけど」

『え?』

「作り方教えてくれないか。明日、作っていくから。今日の詫びも兼ねて」

『播上が作ってくれるの? それは、食べてみたいけど……』

 電話の向こう、清水はどこか拗ねた口調で続ける。

『お詫びとか、気にしなくてもいいのに』

「俺がそうしたいんだ。カボチャを減らすのに協力してくれ」

『と言うより播上、お菓子作りってそんなに簡単じゃないよ。大丈夫?』

「俺の腕でも作れそうなやつを教えて欲しい」

 あからさまに謙遜したような物言いになって、そのせいか清水がより拗ねる。

『またまた、自信あるくせに』

「まあな」

『私、播上の度肝を抜いてやりたかったのにな。お誕生日プレゼントにしようと思ってたんだ。でも、播上が作っちゃったらもう敵わないよ』

 彼女がそう言って笑うから、俺は、プレゼントならいいと答えておく。


 誕生日プレゼントはもう貰った。

 信じてくれただけで十分だった。

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