第85話 オークの木


 いま、目の前に見えている全てが、悪い夢を見ているのかと思うほど、自分の知る常識から掛け離れた状況に、エリックは激しい動悸に襲われていた。

 

(どうしたらいい? どうすればいい? いや、考えるな! まず、動け! オレ!!)


 荒い呼吸を無理矢理、深く吸い込み、思い切り吐き出す。


 考えるより先に身体が動き出し、蔦を掴み壁を登ろうとした、その時。


 銃声音が響き渡った。


 エリックはその音に瞠目し、素早く窓際へ向かいバルコニーへ飛び出した。

 身を乗り出し下を見ると、ダレンが銃を構えて狙いを定めている。その先を辿れば、一人の男に行きついた。

 長い黒髪を一本結んだ、線の細い男だ。男は何処から出したのか、一本の剣のようなものを、その手の中に現した。

 それを見て、何故だかその男がトバリ・ソーヤだと瞬時に分かり、エリックは「ダレンさん!」叫びながら躊躇なくバルコニーから飛び降りた。


「エリック! そいつを捕えるんだ!」

「はい!」


 素早く体制を整え、トバリの背後から走り寄る。トバリは振り向きざまに剣を薙いだが、エリックは即座に蹲み込み、足払いを仕掛けた。相手がよろけた所に、素早く立ち上がり剣を振るうが、トバリがそれを剣で防ぐ。運動など無縁そうなトバリの早い剣捌きに、エリックは少々驚きながらも負けてはいない。ディラン直伝の剣術は、徐々に相手を追い込んでいく。

 ついにエリックがトバリの剣を弾き飛ばすと、トバリは右手をエリックに向けて伸ばし、何かを唱えだした。


「エリック! 危ない、逃げて!」

「エリック、避けろ!」


 フィーリアとダレンの声が重なる。エリックはダレンが目で合図した方向へ飛び、前転をすると同時に、銃声音が響く。

 その直後にトバリが呻き声を上げ、右手首を押さえて膝を付いた。前屈みになっているトバリの襟元が引っ張られ、その身が乱暴に起こされる。


「トバリ・ソーヤ、貴方は一体何者です? 何故、アルバス公爵家を襲った」


 トバリの耳元で囁く声は、低く重く響く。トバリはゾクリと身体を一度震わせると、その瞳は鋭さを増す。後頭部に当てられた銃口は、やけに熱く感じ、脳の奥が痺れるようだった。


「答えろ」


 カチャリと音が響く。

 

 トバリの身体は硬直したように背筋を伸ばしたまま、細かく呼吸を繰り返す。右手は銃弾が貫通しており、真っ赤な血が次々と滴り落ち、芝生の色を変えていく。痛みからか、尋常じゃない汗をかき、小刻みに震えている。


「アルバス公爵家を、ベンを使って襲わせたのは、貴方ですね?」


 ゴクリと唾を飲み込むと、僅かに首を縦に揺れる。


「ベンと、【契約】をしてる?」


 震えなのか頷きなのか判別しづらい頷きに、ダレンは「アゴーもそうか?」と訊ねる。が、それには明確に横に振られた。


「【契約】はしてなくても、操っていた?」


 その問いには、反応がない。


「もう一度訊く。何故、アルバス公爵家を襲った?」


 トバリは相変わらず震え、声を出さなかった。が、しかし。


 背後からヒュッと、息を飲む音が聞こえ、次いで「ダレン! その人から離れて!」と、フィーリアの声が響いた。

 その声にダレンは一瞬、反応したが、すぐに自分の足元が青白く光っている事に気が付いた。

 そこには、子供の頃に読んだ童話に出て来るような【魔法陣】が浮かんでいた。

 ダレンは急ぎ、トバリから離れた。


 トバリはニヤリと笑みを浮かべると、左手をゆっくりと持ち上げる。

 自身の真正面に見えているオークの木に向けて何かを呟くと、オークの木が大きく揺れ動く。


 フィーリアは、トバリが何をしようとしているのか気が付き、急いで止めよとトバリに向かって走り出したが、すぐにダレンに捕まった。


「ダレン! 離して! ダメよ! お願い、やめて!!」


 フィーリアが必死に叫ぶと、雷が落ちる様な大きな音が空いっぱいに鳴り響いた。ダレンはフィーリアを抱きしめたまま、驚き空を見上げる。戸愚呂を巻く様な黒い雲が、オークの木の上で渦巻いており、それは瞬く間に屋敷全体を覆うほど広がった。次の瞬間、光が一直線に落ちていき、オークの木に当たった。


「ダレンさん! トバリが!」


 エリックの声にダレンは視線を移すと、魔法陣も、トバリの姿も、跡形もなく消えていた。


 あるのは血溜まりだけで、確かにそこに、トバリが居たという証だけが、残っていた。


 再び空を見上げれば、戸愚呂を巻いた雲はなく、空は夜の姿に変えはじめていた。何事もない澄まし顔で、星を辺りに散りばめ出した空を、ダレンは茫然と眺めた。

 フィーリアはダレンの腕の力が弱まった隙に抜け出し、オークの木の元へ走った。


「フィーリア!」

「フィー!」


 必死に走るフィーリアを二人は追いかけ、その身を止めたが、フィーリアは泣きながらその手を振り払おうとした。


「離して! お願い! オークの木が……! オークの木が!!」

「フィー! 今はまだ危険だ! 近づくな!」

「エリックお願い! 離して!」


 泣き叫び懇願するフィーリアを見て、ダレンは手を離した。


「ダレンさん!」

「フィーリア、オークの木に近付いて大丈夫なんだな?」

「……」


 咽び泣きながら、フィーリアは頷く。


「エリック、フィーリアの手を離してやれ」


 ダレンの指示にエリックが困惑しつつ手を離すと、フィーリアはオークの木に駆け寄り近付いた。

 青々と茂っていた葉が全て消えており、木そのものの生命力が感じられなくなっている。

 フィーリアは、そっと幹に触れ、額を当てた。

 オークの木の中から微かに感じていた魔力は、今はもう感じない。精霊様が消えてしまったのだ、そうフィーリアは思った。が、ふと頬に暖かく触れる気配を感じ、顔を上げると。


「精霊様……」


 フィーリアの目の前にあるはずのオークの木。その姿が、フィーリアの瞳には一人の美しい女性として映っていた。

 乳白色の光を纏った大きな姿に、フィーリアはどこか懐かしさを感じながら、その姿を見上げる。

 何かを伝えようとしているが、その声が聞こえない。恐らく、それだけ精霊の力が消えかけているのだと分かると、フィーリアは再び泣き出しそうになる。

 精霊は柔らかく微笑むと、スッと腕を上げ何かを示す。その先を見れば、アルバス公爵家を指差している。


「……お力を、お貸しくださるのですか……?」


 フィーリアの言葉に、優しく微笑みながら頷く。


「でも、そうしたら、精霊様は……」


 消えてしまう。


 精霊は、ゆるゆると首を横に振り、再び何かを伝えようと口を動かす。フィーリアに読唇術は無いが、その動きは確かに伝わった。フィーリアが大きく瞳を開いたのを見て、伝わったと分かった精霊は、フィーリアの両手を取る。

 微かな温もりに、フィーリアは涙を流しながら頷いた。


「フィー……」

「待て、エリック」


 オークの木から少し離れた場所でフィーリアを見守っていた二人は、先程から、フィーリアが何かと対話しているのは、何となく気が付いていた。だが、二人の前には大きな枯れ木しかない。エリックがフィーリアの様子が変わったのを見て、声を掛けようとしたが、ダレンはそれを引き留めた。

 すると、フィーリアがゆっくりと屋敷の方を向いた。だが、何故か二人はそれが「フィーリアでは無い」と直感で分かった。


「フィー!」

「待つんだ! エリック!」

「でも、ダレンさん!!」


 フィーリアは、ゆっくりと両手を広げ、その瞳を閉じると、歌う様に何かを唱え始めた。


 それは、聴いたこともない言語で、まるで祈りの様だとダレンは思った。

 ダレンとエリックは、固唾を飲んで見守る。

 すると、フィーリアの双眸が開かれた。


「え……」


 エリックの声が漏れる。

 フィーリアの周りが、光に溢れる。だが、それは眩しくはなく、柔らかく包み込む様な暖かな光。その光によく似た色に、フィーリアの瞳が変化していたのだった。


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