第73話 勘違い


 トバリは部屋から出ると、階段下を覗き見た。様々な香水や石鹸の香りが混ざり合って、花の香りなのか菓子の甘い香りなのかすら、分からない。


「部屋から出ない方が良いですわ。ここの蝶達は、貴方の様な若い男に興味津々ですもの」


 突然、背後からした声に身体を大きく振るわせ振り向く。


 そこには、娼館の娼婦にしては不釣り合いな、濃紺色の首元までしっかりとしまった詰襟ロングドレスを着た女が立っていた。

 スラリとしているが、メリハリのある体型。金色に輝く波打つ髪に、透き通る様な美しい肌。何より、優れた容貌は思わず見惚れてしまう。しかし、トバリはハッと気が付く。その女の瞳の色が恋人のそれと同じことに……。


「ダレン様から、貴方が部屋から出て行こうとしたら、すぐに報せるようにと、言付かっておりますの。ダレン様を怒らせると、怖いですわよ? 大人しく部屋に戻っておく事をお勧め致しますわ」


 それだけ言うと、女は髪を靡かせ部屋へ戻ろうとした。


「あ、あの」


 思わず引き留めれば、女は不思議そうに振り向く。


「あ……貴女の様な、が、何故こんな所に……」


 青緑の瞳。

 それは、レイルスロー王国では、高位貴族の証。


 王族または、クロエと同じ『公爵家』の者の色だ。


「私の瞳の色を指して、そう思っていらっしゃるのであれば、それは大きな勘違いですわ。私はしがない商人の家の娘ですわ。ダレン様に見初められ、彼の愛の元……に、ここで過ごしておりますの」


 女は自分が『ダレン専属娼婦だ』とほのめかす。トバリはその言葉に、僅かに目を見張る。


「そんなはずは……! その瞳の色は」


 女は人差し指を自身の唇に当て「しぃ」と言う。


「瞳の色など、些細なものですわ。そんな物で身分が決まるのであれば、私はきっと、貴方様のおっしゃる高位の方との間に生まれた、隠し子なのでしょう」

「……」

「とにかく。迎えが来るまで、部屋から出ない事をお勧め致しますわ。愛する方がいらっしゃるのであれば、尚のこと」


 それ以上は何も言えず、ただ女が部屋に戻って行く姿を見送った。

 そして、トバリは大人しくダレン専用の部屋へ戻って行ったのだった。



♢♢



「クロエ」


 男が一歩近づくと、クロエは震えながら椅子から立ち上がり、後退る。


 クロエの前に現れたのは、トバリでは無かった。

 今、目の前に居るのは、何度かトバリと共に行ったことのある雑貨屋の亭主だった。男はトバリと共に行くたびに、段々とクロエに対して馴れ馴れしくなっていた。彼女を見る目も舐め回す様で、気持ち悪いとさえ思ったこともある。だが、トバリが親しくしており、尚且つトバリの絵を何枚も購入してくれている太客だ。そんな相手を無碍に扱う事も出来ず、トバリにも言えずにいた。


「遅くなって、ごめんよ。だいぶ待たせてしまったね。ちょっと困った子供達に尾けられててね。をしていたんだ。さぁ、クロエ。一緒に行こう」

「どこへ、行くというの……」

「俺達二人の愛の巣さ。さぁ、クロエ。怖がる必要はない。もう、俺達を邪魔する者は居ないよ。二人で田舎の方に家を建てて、を育てよう」

「なんで、貴方と……嫌よ! 近寄らないで! トバリ! トバリ!!」


 恋人の名を叫び、逃げようと足を動かすが、震えが酷く上手く動かない。それでも必死に足を動かした。


「クロエ、トバリはもう、ここへは来ない。アイツは死んだんだ」

「……! トバリが……!? 嘘よ!!」

「本当だ。俺が見届けてやったよ」

「貴方が殺したの……!?」

「ああ、そうだよ。アイツは、俺達の邪魔ばかりするから。あの火の海の中からでは、助からないさ……」


 アゴーは厭らしく笑い、分厚い舌で唇を舐める。クロエは涙を堪えながら、必死に足を動かす。噴水のある場所から随分と走ったはずなのに、ちっとも進んでいない。アゴーは余裕の笑みでついてくる。まるで、魔法にでもかかって、ずっと同じ場所を走り続けているかの様に、足が進んでいないのだ。

 それでもどうにか、あと少しで公園の入り口が見える所まで来た。


 だが、その手間に車が一台止まっていた。何故か、あれに近寄ってはダメだと感じる。しかし、振り向けばアゴーが迫って来ている。クロエは勇気を出して振り返った。


「貴方が祖父を殺したの!? トバリまで……私の大切な人達を、貴方が殺したというの!?」

「何を言っている? 俺は、俺達の邪魔をする奴を始末しただけだよ」


 アゴーの言葉に、クロエは「なんて事を……」と、喉を詰まらせる。足が、地面に根を張ったように動けなくなる。


「クロエ、さぁ、素直になるんだ。君は本当は俺が好きだったんだろ?」

「何を言っているの……!? 貴方なんて好きじゃないわ!」


 クロエは声を詰まらせながらも、言葉をどうにか必死に繋ぐ。声が掠れ、喉が締まるのを懸命に堪えながら。祖父を殺し、父や兄を殺そうとしているのが、この男だったのか、と。


「……なんの、ために……」

「俺はずっと気が付いていたよ。トバリは君の偽装の恋人だってね。本当は俺が良かったんだって事も。いつも熱い瞳で俺を見る、その目が堪らなかった。小さな家で木蔓を一緒に育てたいと、俺にまで伝えて。【永遠の愛】さぁ、クロエ。おいで、もう演技なんてしなくて良いんだ。俺達を邪魔する者は、もう居ないんだから」


 何を言っているの? 暗号なんて、伝えていない。


 そう声に出し言おうとしても、声が出ない。


 クロエは首を横に振り、後退る。涙が止めどなく溢れる。


「クロエ、俺と行こう。ほら……」


 アゴーの手が遂にクロエの腕を掴んだ。痛みを伴う勢いで引き寄せられ、乱暴に抱えられる。


「いや!! 離して!!」


 精一杯の抵抗は、掠れ、震え、囁き声にしかならない。


「暴れるな。愛する君を傷付けたく無いんだ。俺が優しくしている今のうちに、静かにするんだ」

「嫌よ!! 誰か! 誰か!!」


 泣きながら掠れる声を、懸命に出そうとする。


「俺の愛しい人は、困った人だ……」


 アゴーは、クロエが『近寄りたく無い』と思った車の後部座席に投げる様に乗せた。クロエはシートの上に仰向けに転がされ、すぐさま起きあがろうとする。が、即座にアゴーが覆い被さって来た。その瞬間、クロエの両の眼が大きく見開かれた。恐怖から、もう一切声が出ない。

 服越しに這う手を、払い除けたいのに力が入らない。厭らしく這う手は、容赦なくクロエの胸を掴んだ。


「しかし、俺は少し怒っている。トバリなんかに純潔をやったろ? あれはいただけない。そこまでの演技は必要無かった。だが、寂しかったんだろ? 俺が慰めてくれなくて疼いたから、トバリを誘惑して……。俺がもっと早くクロエの気持ちを汲んでいれば、クロエの全ては俺のものだったのになぁ……」


 アゴーがクロエの顔に迫ってくる。顔を背け抵抗をするクロエの服に手を掛けようとした、その時。




「そこまでだ」


 カチャリと金属の重たい音がアゴーの耳元に響き、後頭部に冷たいが当てられた。

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