第68話 火事
雑貨屋の亭主を思い出す。
トバリの話しでは、やたら饒舌だった。彼はトバリが家に居ない事が多いと言っていた事を思います。
「トバリさん、貴方はよく何日も家を空けるのでしょうか? 帰らない事が多い?」
「家ですか? 昼間は仕事で休日には絵を描きに行きますが、毎日遅くても帰っています。それが何か……」
「では、家に帰っていないのは、ここ数日という事ですね?」
「はい。私が部屋を荒らされた日、車に轢かれそうになった事など、アゼル達にここ最近の出来事を話してしまって……。そしたら、あの子達が私をここに匿って……」
「貴方がアパートに帰っていない事を知っているのは、アゼル達だけですね? ここに住んでいることは、誰にも」
「はい。私の怪我の事もありますから、仕事は暫く休ませてもらっています。長時間立っているのが、辛いので……。ですが、ここにいる事は、誰にも言っていません」
「仕事は何を?」
「絵画教室で講師を……。と言っても、まだ生徒数は少ないですが」
「そうですか……」
そういう事か、とダレンは心の中で苦笑いをする。
まんまと亭主に誘導されたかも知れない、と。
トバリの所在を彼は探している。だから、彼がここ何日も家に居ない事を知っていた。それを、恰も日常的に居ない様に言った。それは何故。彼の目的は。ただ一つ言えることは。
「貴方の部屋を荒らしたのも、命を狙っているのも、恐らくその店の亭主でしょう」
ヒュッと息を飲む音が響く。
「何故……何故? 彼は私の友人です! 私の事も画家として応援してくれている……それを、何故!? 貴方は彼を知らないでしょう!」
それまで動揺はおろか、声を荒げる事などしなかったトバリが酷く乱れる。
「落ち着いてください。確かに私は彼をよく知らない。ですが、これまでの流れで、そう判断したのです。私の依頼人は、貴方が良く知る人物です。そこから、貴方に辿り着いた。私は最初こそ貴方が犯人か、もしくは共犯者だと思って近づいた。だが、貴方に会って、貴方は利用されただけだと気が付いた。また、私自身も同じく。利用されている」
膝立ちになったトバリは、息を荒くダレンを見下ろす。
「貴方も、利用されているとは……どういう意味ですか……?」
「彼は貴方を捜している。それを、私にさせようとしたかと。すぐにここを出ましょう。ここも、直にバレる」
「そんな……」
衝撃を受け小刻みに身体を揺らすトバリに言う。
「私は貴方を守ると契約した。お願いです、今は私を信じて」
ダレンは立ち上がると、トバリに手を差し出す。
この手を掴めと。
その時だった。
「火事だ!! 火事だぞ!! 逃げろ!!」
部屋の外から誰かの大声が聞こえた。各部屋のドアが乱暴に開く音。階段を駆け降りる音、外を叫び走る音。それと同時に、微かに煙の臭いがダレンの鼻を掠める。
「トバリさん! 急いで出ましょう!」
ダレンはトバリの荷物を掴むと、彼の手を強引に引っ張って玄関へ向かった。
♢
時は少し戻り、アルバス公爵家---
フィーリアが帰った後、クロエは侍女と共に部屋へ戻った。
ふいに喉の渇きを覚え、お茶の用意を頼みつつ、先に着替えを済ませる。
侍女が部屋を出て行き、クロエは自室から見えるオークの木に視線を向けた。もう間も無く夜が訪れる空は、夜と昼が色を重ね、決して混ざり合うことの無い美しい色彩を、空いっぱいに広げている。その空を背景に、静かに佇むようにそこに立つオークの木の姿は、まるで絵画の中の世界だ。
眺めているだけで何故か心が穏やかになる。
今まで、その様なことがあっただろうかと考えるが、思い出せない。今日のフィーリアと過ごした時間を思い出し、意識をして見るからこそ、そう感じるのかも知れないと、クロエは思った。それが例え思い込みであったとしても、今のクロエにはじゅうぶんな癒しになっているのは確かだ。
ふわりと風の流れを感じた気がして、そちらへ顔を向ける。ベッドの奥の窓際。レースのカーテンがフワリと揺れる。夕方に侍女が窓を閉め忘れていたのだろう。クロエは窓に近寄り、静かに閉めた。
ゆっくりとした動作で振り向けば、ベッドの枕元に視線がいった。
「何かしら?」
枕の下に何かがはみ出て見える。
「手紙……?」
クロエの心臓は痛みを伴って跳ねた。早鐘を打つ胸に片手を当てて、震える指先で恐る恐る封筒に触れた。
*
「クロエ様、お茶のご用意が整いました」
窓際で外を眺めているクロエに、侍女が声を掛ける。クロエからの返答がなく、侍女が側へ近寄ると、クロエが微かに震えている事に気が付いた。
「クロエ様? どうされたのですか?」
「……アン……ううん、何でもないの。急に不安になってしまって……」
弱々しく微笑むクロエの顔色は、朝見た時よりも悪くなっていた。
「クロエ様……。温かいお飲み物を召し上がれば、きっと落ち着きます。さぁ、こちらでお茶を」
「ありがとう、アン……」
アンと呼ばれた侍女は、十二歳年上のクロエ専属侍女だ。子供の頃から仲が良く、クロエは本当の姉のように信頼を寄せている。
アンは心配気にクロエの背中を優しく押し長椅子へ座らせた。
「アン、隣に座っていて」
アンの手を取って懇願するクロエに、アンは一瞬逡巡したが、一つ頷き隣りに腰を下ろした。手を握り優しく背中を撫でる。
「大丈夫ですわ、クロエ様……」
「……ええ……」
徐々に震えが収まると、クロエはアンに夕食は止めておくと伝え「今日はもう休むわ」と、小さく微笑んだ。
「ええ、ええ。今日はその方が宜しいかと。エドガー様にはお疲れの様でお休みしたと、お伝えしておきます」
「ありがとう……」
アンが部屋を出て行くと、クロエは鏡台の引き出しを開けた。
そこには、さっき枕元にあった手紙が入っていた。
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