第38話 追いかけっこ


 ダレンの家から少し離れた場所に、王立公園がある。そこにはジョギングコースがあり、ダレン達はその公園で日々走っているのだ。

 一周が四.五キロあり、そこを二周する。それが終われば、軽く体術の手合わせを行って帰る。というのが、普段の流れだ。

 今日はディランのお陰で、いつもよりも早い時間に公園へ向かった。


 三人でウォーミングアップを終え、「ここのジョギングコースを二周する」とダレンが言った。


「なるほどね。二周ならまぁ、少し短いくらいで丁度良いか」


 ディランが足首を回しつつ頷く。


「いつも二周目の半分まで行ったら、少しスピードを上げて走るんです」とエリックが説明するとディランは「ふぅん」と辺りをグルリと見回す。


「それじゃあ、そろそろ行こうか」

「はい」


 二人は足取り軽く走り始めたが、ディランがついてこない。エリックが、どうしたのかと振り向けば、ディランがニヤリと笑みを浮かべ走り出した。


「二人とも、競争だ! 俺に勝てるかな!?」

「え?!」

「……エリック、放っておけ……」


 わはははと笑いながら、凄まじい勢いで追い抜いて行くディランを、エリックは呆然と見送った。

 やかましいのが去ったと言わんばかりに、ダレンが盛大にため息を吐く。

 二人が黙々と走り続けていると、向かい側から犬を連れた婦人が歩いてくるのが見えた。

 エリックの右側を走っていたダレンは、僅かに速度を緩め、エリックの後ろに回る。エリックは、どうしたのかと不思議に思ったが、すぐに「ああ、道を譲るためか」と思い、そのまま走った。


 徐々に犬が近づいて来る。すれ違う間際、先程までエリックの後ろを走っていたダレンが、エリックの左側へ回った。

 

「おはようございます」と、通り過ぎる間際に婦人が言う。二人も和かに「おはようございます」と返すと、暫くしてダレンが再びエリックの右側を走り出した。


「ダレンさん? どうかしましたか?」

「ん? なにがだ?」


 澄ました顔で小首を傾げるダレンを見て、エリックは瞬きを二回し「いえ」と短く答え、再び前を向いて走り出す。


 エリックは「ん?」と小首を傾げ、そのまま黙って走っていくと、再び前から黒の小型犬を連れた紳士が……。紳士とすれ違い、更にもう一匹とすれ違う。

 ダレンが何度も先程と同じ行動を繰り返した事に、エリックは恐る恐る「ダレンさん?」と声を掛ける。


「なんだ」と、変わらず澄まし顔のダレンに、エリックは僅かに困惑気味の表情で訊ねる。


「もしかして、ですけど」

「……なんだ」

「犬、苦手なんですか?」

「……」


 何も答えないダレンの顔をチラリと見やれば、耳まで赤くした珍しい顔が目に入った。エリックは見てはいけないものを見てしまった気になり、すぐに正面に顔を向ける。


 普段走る時間には、犬の散歩をしている人が居ない。時間の棲み分けが、もしかしたらあるのかも知れない。いつも犬の散歩には出会した事がなかったのだ。すれ違うのは、ダレン達の様にジョギングをしている人々ばかりだった。

 今日はディランのお陰で早い時間に来る事になったがために、犬の散歩時間と重なった様だ。


(どんな事も完璧なダレンさんでも、苦手なモノがあるのか)


 エリックは心の中で呟くと、思わず小さく笑う。それは決して馬鹿にしているのではなく。フィーリアでは無いが、ダレンが時々「魔法使いなのでは無いか」と思ってしまう事もあるのだ。そんなダレンが、途端に人間らしく思えて嬉しくなった。


「……なんだ」


 低く呻くように呟くダレンに、エリックは笑いを堪えながら「いいえ」と返す。

 ダレンを再び盗み見れば、相変わらず顔が赤い。これは、走っているから赤いのでは無いと、ハッキリ分かる。新しい発見にエリックの心がほっこりしていると……。


「ダレーン! エリーック!」


 後ろから聞こえる声にエリックは若干驚きながら振り向くと、ディランが満面の笑顔で手を振りながら走って来るでは無いか。ダレン達は、間も無く二週目に入ろうとしていた時だというのに。


「え!? えぇ?! ディラン様?!! 速っ!!」


 エリックは目玉が飛び出すのでは、というくらいに目を見開く。

 近寄ってきたディランの殆ど乱れていない呼吸に、さらに驚く。

 

「エリック!」


 エリックに並走して走り出したディランに「はい!」と返事をすれば、ディランは満面の笑顔で放った。


「どうだ! ダレンのお兄ちゃん、すごいだろ!?」

「えっ!?」


 普段、エリックと話す時は「俺」と言っているディランが「お兄ちゃん」と言った事に驚きと戸惑いに狼狽えていると、ディランは大きな声で笑いながら「先に行くぞ!」と、走り去って行った。


「……」

「……」

「ダレンさん……」

「……何も言うな」

「はい……」


 そこから二人は黙って走り続けた。

 二週目の丁度半分程行ったところで、二人はいつも通り徐々にスピードを上げていく。


「あれ? あそこにいるの、ディラン様?」

「そのようだな……」


 先程までの元気は何処へやら。随分とスローペースで走っている。それもそのはず。ディランは一人で三周目を走っているのだ。


「ディラン様!」


 エリックの声にビクッと驚いた様に振り向くディラン。


「お、おお! 二人とも! やっと来たか! 二人が追い付くのを待っていたぞ!」


 その言葉にダレンは瞬時に「嘘だな」と分かった。


「最初からスピードを出し過ぎて、疲れが来ただけだろ」

「何を言うか、ダレン! ここからが本番だぞ! エリック!」

「え?! オレ? いや、はい!」

「ここからゴールまで、どちらが速いか競うぞ!」

「えぇ!?」

「行くぞ! エリック!!」


 急にスピードを上げて走り出すディランに、エリックは「あーもう!」と言いつつギアを上げた。


 あっという間に遠くなる二人の背中を見つつ、ダレンはダレンのペースでスピードを上げて走っていた。


 すると……。


「キャン!!」

「……え?」


 嫌な予感……と、振り向けば……。


「待ちなさい、ギル!」

「キャン、キャン!」

「……ッ!!!」


 先程すれ違った紳士が連れていた黒犬が、リードを引き摺りながら、ダレンに向かって舌を出し走って来るではないか。

 

「ヒッ!!」


 ダレンはギョッとし、慌てて正面を向くと一気にスピードを上げた。

 瞬く間にエリックに追い付く。


「え!? ダレンさん!?」


 エリックの声を背中に受けながら、ディランの背中を捉えた。

 その足音にディランが何気無く振り向く。そして、目を大きく見開いて足音の主を見た。


 弟の滅多に見れない必死の形相にディランは何事かと、思わず足を止めて身体ごと振り向く。


「キャン! キャン!」と、楽しげにダレンを追いかける黒犬を見て、ディランは急いで犬に近寄り、そのリードを足で踏みつけ、すぐさま手に掴んだ。


「ダレン! もう大丈夫だ!」


 犬は相変わらず「キャンキャン」鳴いているが、小さな体を目一杯に動かし楽しそうにジャンプしたり、くるりと回ったりしてはしゃいでいる。


「申し訳ない! うちの犬がご迷惑を」と、紳士がディランに平謝りし、急ぎ足で立ち去っていった。


 三人が三人とも、荒い息を吐き出しながら、顔を見合わす。

 ぷっと、先に笑い出したのはディランだった。それに続きエリックが声を上げて笑い出す。

 ダレンは不機嫌そうに顔を歪め、顔だけで無く耳から首元まで真っ赤に染めている。


「ダレンさん、かわいい! あははは!」

「そうだろ? ダレンはかわいいんだよぉ! エリックは本当、俺と意見が合うな!」


 二人は芝生にしゃがみ込みながら大笑いをしている。

 ダレンは……。


「……仕方ないだろ! 苦手なモノくらい僕にだってある!」


 それでも笑う二人にダレンは憮然とした顔で言い放った。


「もういい! ディランとは二度と一緒にトレーニングしない! エリックは暫く朝食は抜きだ! いいな!」


 そういうと、二人に背を向けて長い足を動かし公園を立ち去ろうとした。すると、二人は「え! それはダメ!」などと慌てて追いかけてくる。


「ダレンさん! ごめんなさい! もう笑いませんから、朝食抜きだけは勘弁してください!」

「ダレン! ごめん、悪かったって! もう笑わないから許してっ!」

「もう知らん!」


 それでも、どこか仄かに笑いが含まれている声にダレンは不機嫌な顔でくるりと振り向く。


 二人の堪える笑い声に重ねる様に「笑うな!」というダレンの声が、よく晴れた雲一つない公園の空に、虚しく響き渡ったのだった。



 後日、エリックはディランにダレンが犬が苦手になった理由をこっそり教えてもらったが、それは内緒の話し……。


 ただ一つ言えることは。

 

 ダレンは人間でも動物でも、男女問わず好かれる、ということだ。

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