第6話 罠にはまったラムセス二世。カデシュの戦いの詳細および小話

前回は、『カデシュの戦い』からヒッタイトとの和平条約締結までの流れを書かせて頂きました。


今回は、第二次シリア遠征つまりカデシュの戦いの詳細を、小話なんかも交えつつ、まとめていきたいと思います。

今回も真面目と不真面目の帳尻を合わせながら、進めてさせて頂きます。


【項目】

●カデシュの闘いが始まる。

●罠にかかったラムセス二世。

●それでどうしたラムセス二世。

●神がかりのラムセス二世。

●勝敗。

●ヒッタイトの真の恐ろしさ。

●戦車の違い

●騎馬兵は?

●ラムセス二世の馬の名前

●一旦まとめ

●参考文献


【カデシュの闘いが始まる】

ヒッタイト(現在のトルコ)が属国を従えて、大事なアムル国を奪った憎きエジプトにキツイお仕置きをかましてやろうと南下してきます。

この時のヒッタイト王は、ムワタリ二世でした。


一方、こちらはエジプト側。

ラムセス二世治世5年目・増水期第2の月・9日です。

ラムセス二世はぺル・ラムセスを出立し、カナンへ進軍しました。


チーム・ラムセスは以下の通り。

●パセル(宰相)

●アメンヘルケプシェフ(皇太子=長男)

●ラメセス(次男)

●プレヒルウォンメフ(三男)

●カエムワセト(四男)

です。


軍備はおよそ2万。それを4師団に分け、エジプト神の名前をつけていました。


●アメン師団

●ラー師団

●プタハ師団

●セト師団

こんな感じです。


それから、ネアリム師団と呼ばれていた傭兵部隊(港を確保するためアムルに残しておいた部隊らしい)や、ファラオの親衛隊もおりました。


多分ですが、ラムセス二世は海軍も利用したと思います。

古代エジプトには海軍もちゃんと存在していて、兵士や兵站へいたんの輸送には欠かせなかったと文献1) にも書かれていたからです。


また、他の文献2) によると、ラムセス二世治世2年で制圧した『海の民』の一派であるシャルダナ族が、カデシュの戦いでラムセス二世の親衛隊にいた記録があります。シャルダナ族は、ラムセス二世との海戦で敗れた後、エジプト軍に編入されておりました3)。


彼らはカデシュの闘いのレリーフにも他の戦士と区別して描かれています。丸い盾に角のある兜を被っているのがシャルダナ族です。

元『海の民』だけに、シャルダナ族の編入は、海軍の充実に一役買った事でしょう。

シャルダナ族は、戦争で手柄を立ててエジプトから土地をもらいました。

エジプトはエジプトで、仲間を作ってその力を上手く利用していたわけですね。


さて。

カデシュに向けて、ラムセス二世は2万の軍勢を率いて北上します。

対するヒッタイトの軍は前回お話ししたように、18000の軍隊に加えて19000の別動隊、2500両の戦車(チャリオット)隊。

つまりヒッタイト側の軍勢は、エジプトの倍以上。

ラムセス二世、ぴーんち。


その上、小狡いこずるい――じゃなかった。智将であるムワタリ二世は、エジプト軍にわなをしかけていたのです。



【罠にかかったラムセス二世】

ラムセス二世率いるエジプト軍は、ビブロスの近くにある植民地ラムセス・メリアメンを抜け、内陸部を通ってカデシュへ向かいました。

そして、カデシュまで残り約11㎞のあたり。オロンテス川付近の町シャブトゥナに入った時です。

エジプト軍は、ヒッタイト側のスパイ(シャス族という遊牧民であり、ヒッタイトが雇ったスパイ集団)を二人、捕まえました。


エジプト兵はこの二人をボコボコにして、ヒッタイト軍の現在地を吐かせます。


余談ですが、アブ・シンベル神殿のレリーフにも、エジプト兵に袋叩きにあっているスパイ二人のレリーフが描かれています。

鞭か棒で打ちすえられているように見えますが、私は、吉本新喜劇でよく出て来る展開、『茶色の棒でフルボッコ』を連想してしまいました。


「ヒッタイトはあなた方を恐れ、はるか北のアレッポ(シャブドゥナから200㎞ほど北)におります!」


フルボッコにされたシャス族のスパイ二人はそのように供述しました。


これを聞いたラムセス二世。


「いいこと聞いた~。今のうちにカデシュ近くに布陣しとこ」


アメン師団と親衛隊を率いて進軍し、カデシュの北西に陣営を張りました。後続する3師団はまだ、オロンテス川を渡ってもいません。


そうです。これが、ヒッタイトが仕掛けた罠だったのです。

ヒッタイトは、わざとスパイをエジプト軍へ近づけて捕まえさせ、そこで偽の供述をさせる事でラムセス二世を急かし、4師団が終結するのを防いだのでした。


じゃあヒッタイト軍は実際、どこにいたかって? 彼らは既に、カデシュ市街の背後で布陣して、準備万端整えて突撃の機会を待っていたのです。


ラムセス二世がそれを知ったのは、カデシュの北西に陣営を張ってから。

エジプト兵の斥候せっこうが、別のスパイ二人を捕まえ、ラムセス二世の元に引っ立てた時の事でした。


スパイ二人はこのように証言したと言います。


「王は既に到着しており、彼を支援する多くの国々も一緒だ! 彼らは歩兵と戦車で武装している。彼らの数は、浜辺の砂粒より多し!」


いやはや。ムワタリ二世が賢いのか、ラムセス二世が抜けている単純バカのか……。

凡人の私には分りません。



【それでどうしたラムセス二世】

これは大変な事になった! 

ラムセス二世の周りには、1個師団(アメン師団)とボディーガード(親衛隊)しかおりません。


焦ったラムセス二世は息子達を呼び寄せ、アメン師団に戦闘の準備をさせるよう命じ、同時に宰相のパセルを伝令として走らせ、「さっさと来んかい!」と後続の3師団のお尻を叩きました。


しかしもはや戦況はムワタリ二世の思うつぼ。

ヒッタイトの戦車隊がカデシュから出撃。オロンテス川を渡り、アメン師団に合流しようとしていたラー師団の横っ腹に突撃をかましたのです。


不意を突かれたラー師団は散り散りに。上手くアメン師団の野営地に逃げのびた者もいましたが、ラー師団は、ほぼ壊滅状態となりました。


そして、ヒッタイト戦車隊は返す刀で北上。

ラムセス二世がいる、アメン師団を襲いにかかったのです。


アメン師団はパニックに陥りました。

多分、戦闘準備が間に合わなかったんだろうと思います。


文献4) によるとこの時、3男のプレヒルウォンメフが王室一家(つまり王子達?)を率いて、西へ避難させたそうです。このお陰で、王子たちは全員無事でした。


では、ラムセス二世はどうなったのか?


敵さんに囲まれちゃったらしいんです。


ラムセス二世の戦車(チャリオット)の手綱持ち役であるメンナは腰を抜かし、戦力になりません。

えらいことです。ラムセス二世、絶体絶命です。



【神がかりのラムセス二世】

ここから先について書かれてある碑文やレリーフは、ラムセス二世による脚色がかなり伺えます。

信じるか信じないかは、あなた次第。

その辺を御承知の上、お読みください。



ラムセス二世はアメン神に祈りを捧げました。

「我が父アメンよ。私は見知らぬ土地で大勢の敵に囲まれた。すべての異国がうち揃って私に向かってくる。対する私はただ一人だ。孤立無援だ。だが私にとっては百万人の兵士よりも十万両の戦車(チャリオット)よりも、いや一万人の心を一つにした兄弟子供よりも、アメン神の方が心強い」


アメン神はこのように応えました。

「面を向けよ、ラムセス・メリアメン(ラムセス二世の誕生名)! 我は汝と共にあり。我こそは汝の父なり。我が手は汝の手と共にあり。十万人の人間より我を頼め。我こそ武勇を愛する勝利の主なり!」


無事祈りを聞き届けてもらえた(らしい)ラムセス二世。

愛馬が引く戦車(チャリオット)に単身乗り込み、手綱は己の腰に巻きます。そして、器用に戦車を操りながら弓を射て、敵の戦車隊1000両をばったばったとなぎ倒しました。そこについてきたのはペットのライオン!


このライオン、実際レリーフに描かれています。

タテガミがあるので雄ですね。


すっからかんになったエジプト陣営では、エジプトをすっかり蹴散らしたと思いこんだヒッタイト兵達が、略奪を始めていました。

ラムセス二世はそこに戦車で突っ込みました。


今度はヒッタイト兵側がパニック状態に。

そして、ラムセス二世の雄姿に鼓舞されたエジプト残存兵達が、ファラオに続きます。


信じられない事に、形成は逆転しはじめます。

慌てて逃げるヒッタイト戦車隊。

それを猛スピードで追いかけるエジプト戦車隊。


ラムセス二世率いるエジプト戦車隊は、敵の戦車隊をオロンテス川まで追い返す事に成功しました。

ヒッタイト側の武将をオロンテス川へ叩きこんでいる様子を描いたレリーフがラムセウムにあるそうです。


次にヒッタイトは第二弾の戦車隊を、カデシュからエジプト陣営に向かって突撃させます。

それに気付いたラムセス二世は、追撃を中止してUターン。エジプト陣営を守ろうとしますが、ちょっと遠くまで行き過ぎていました。


その時。アムル国に駐屯させていたネアリム師団が北西から到着。第二弾のヒッタイト戦車隊と戦闘を開始します。

続いて、プタハ師団が南から到着。

ヒッタイト戦車隊は、まさかの挟みうちにされてしまいました。


ヒッタイト兵達は戦車を放棄して、オロンテス川をワニの如き速さで泳ぎ、カデシュに逃げ帰ったそうです。

ちなみに、ワニがどれくらいの速さで泳ぐかというと――最高時速30㎞。

そんなバカな。


セト師団は――出番なしでしたね。


翌日、ムワタリ二世はエジプトに休戦を申し入れ、ラムセス二世はこれを受け入れました。



【勝敗】

え、それじゃあ、『カデシュの戦い』ってラムセス二世の圧勝だったんじゃない?

と思いませんか。


実際は、ドローむしろ負け戦でした。


なにせヒッタイト軍は、戦車隊しか出していません。

18000の本部隊と、19000の別部隊は、ちゃんとカデシュに無傷のまま残っていました。


戦車隊がエジプトに蹴散らされてしまった後、ヒッタイト側はカデシュに籠城ろうじょうします。

カデシュは頑強な城壁に守られており、エジプトはカデシュを包囲して落とすだけの兵站へいたんを持っていませんでした。

ゆえに、ラムセス二世は休戦を受け入れざるをえなかったのだと思われます。


エジプト軍の撤退後、ヒッタイトはちゃっかりアムル国を取り戻しました。それだけにとどまらず更に南下してウピを手に入れることで、エジプトをシリアから追い出す事に成功するのです。


私が思うに多分、ここがヒッタイトの本当の恐ろしい所なのでしょう。


【ヒッタイトの恐ろしさ】

これは、文献に裏付けされたものではなく私の勝手な想像です。


ヒッタイトが、エジプト側の軍勢をどれだけ正確に把握していたのかは分りません。

しかし、カデシュで戦車部隊がことごとく蹴散らされたとしても、手元には37000の兵が残っていました。

これをぶつけたら、エジプト軍に更に打撃を与えられたはずです。しかも上手くすれば、ラムセス二世の首をとれたのではないでしょうか。

何故それをせず、カデシュに籠城ろうじょうしてエジプトを撤退させる方を選んだのか。


ヒッタイトの真の目的は、戦争でエジプトの横面を張り倒す事ではなく、緩衝地帯に及ぶエジプトの支配勢力を縮小させる事による『お仕置き』だったのではないかと私は考えました。


書き忘れていましたが、エジプトやヒッタイトが覇権を争っていたシリアやカナン一帯は、地中海とメソポタミアを結ぶ重要な交易路の要衝でした。

両国は、この地域を支配することで、交易路を掌握し、経済的な利益を得ることを狙っていたのです。


このカデシュの戦いでエジプトは多くの兵を失い、シリアの覇権を奪われてしまいました。

一方ヒッタイトは、失ったのは2500の戦車隊。アムルを奪還し、シリア一帯を手に入れました。


うん。やっぱりこれはドローではなく、ヒッタイトの勝利ですね。

私はそう結論付けました。


とはいえ、エジプトも絶体絶命の危機から、よく持ち直せたなと思います。

それには、エジプトとヒッタイト戦車の違いが関係していたそうです。


――え、アメン神の御加護?

それはまあ、置いておいて。



【戦車の違い】

戦車というと、タンクのようなごっついものを想像してしまいますが、この時代の戦車とは、馬で引く戦闘用馬車のことをいいます。チャリオット、という種類です。


馬の数は、2頭引きから4頭引きとされています。レリーフを見ていると、エジプトやヒッタイトでは、2頭引きが多い印象です。


ヒッタイトとエジプトで大きく異なっていた点は、馬の数ではなく形態でした。


ではまず、ヒッタイト側チャリオットの特徴から。

ヒッタイトは三人乗りでした。

一人目が手綱取り。

二人目が盾持ち。

三人目が槍や剣、または弓などの攻撃役。

良点は、安定性が高く守りには固い事。

欠点は、重いから遅い上に馬が疲れやすい事。


次にエジプト側チャリオットの特徴です。

エジプトは二人乗りでした。

一人が手綱とり。

二人目が弓で攻撃します。

良点は、とことん軽量化しているため、とにかくスピードが出るし小回りが利く事。

欠点は、安定性が悪いのと盾持ちがいないので接近戦向きではない事です。

戦場では多分、流鏑馬やぶさめのような闘い方をしていたのではないでしょうか。


結構、お国柄が出ていますね。


カデシュの戦いでは、ヒッタイト戦車隊はまず、ラー師団を攻撃してからアメン師団を蹴散らしにかかりました。ゆえに馬の疲れ方が、エジプト戦車隊とヒッタイト戦車隊で大きく違っていました。

加えて、ヒッタイト戦車の重い事。エジプト戦車の軽い事。

出せるスピードの差は歴然です。

この差のお陰で、ラムセス二世率いるエジプト戦車隊はヒッタイト戦車隊をオロンテス川まで追い込み、撤退させる事ができたと考えられます。


機動力ってやっぱり大事なんだなと思いました。



【騎馬兵は?】

私達にとっては、チャリオットより馴染み深いのが騎馬兵。

なぜに騎馬兵を使わなかったのか? 機動力なら、戦車より断然優れているはずなのに。


『カデシュの戦い』当時、騎馬兵はエジプト側にもヒッタイト側にもおりませんでした。


エジプトに馬が定着したのは、新王国時代に入ってからです。1)


馬は西アジアから入ってきました。それまでは、馬の役割はロバが一手に担っておりました。

だからエジプトでは馬の歴史が浅く、カデシュの戦いの時代に馬はまだ、牽引用でしか使われていませんでした。

そもそも当時の馬自体が騎兵用にガンガン使えるほど頑丈ではなかったそうです5)。


ハミはありましたが、鐙(あぶみ)も鞍(くら)も存在しません1)。

乗馬自体はしないことはなかったそうですが、それは貴族のぼんぼんくらいしか会得できない特殊技能だったそうです。

庶民は依然、ロバを愛用していました。


第18王朝のホルエムヘブ王の墓には、乗馬しているレリーフがあります。しかし、乗り方はまだロバ式。つまり、お尻に乗っていたのです。

ようやく、現代のような馬の乗り方をしたレリーフが見つかったのが、Bc725年の第25王朝です。それでもまだ、鐙や鞍は描かれていませんでした1)。


ちなみに、私の作品ではカエムワセトがこの未開拓である騎馬術を使って奇襲を仕掛けています。

鞍や鐙が無くても手綱があればギリギリ乗馬はできるそうなので、すれすれセーフかなと思っております。


ラムセス二世は、馬が大好きだったそうですよ。

ラムセス二世の愛馬二頭の飾りを施した、金の指輪が発見されています1)。

多分、乗馬もしたんじゃないでしょうか。



【ラムセス二世の馬の名前】

ラムセス二世の二頭の愛馬に関しては、名前がちゃんと分っております。


●テーベの勝利

●ムト(太陽神ラーの嫁さん)は満足する 


だったそうです。

えらく長い名前ですね。


多分、アメンホテプとかアメンヘルケプシェフとか、エジプト人っぽい長い名前だったんだろうと思われますが。

ちなみに、私の小説の主役である、ラムセス二世の四番目の息子カエムワセトも、『テーベに現れし者』という意味です。『ワセト』は都の一つであるテーベの事。彼はテーベで生まれたんですね、きっと。


そういうわけで、AIさんの優秀な頭脳をお借りして、ラムセス二世のお馬さんも古代エジプト人っぽい呼び名に変換してみました。


●テーベの勝利→qn(w) Waset (クンワセト)

●ムトは満足する→Mwt iryt Hmt(ムトイリトハミト)


本当にこんな呼び方だったかどうかは分りませんが。……なんか、競走馬の名前みたいだなと思うのは私だけでしょうか。


そういえば、この『テーベの勝利』君は、カデシュの戦いでラムセス二世の戦車を引いて大活躍したそうです。



【一旦まとめ】

すみません。やはり今回も、量が多くなってしまいました。

カデシュの戦いでの小話の続きおよび、和平条約締結やヒッタイトの王女の輿入れ(こしいれ)については、次回にいたします。



【参考文献】

1) ホームページいろいろ


2) 論文:The Bodyguard of Ramesses II and the Battle of Kadesh


3) 神になった太陽王の物語 ラメセス2世

  ベルナデット・ムニュー:著

  吉村作治:監修

  創元社


4) wikipedia日本語版と英語版


5) youtube


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