応援コメント

第3話 ラムセス二世の一生をざっくり年表にしてみた」への応援コメント

  • めちゃ調べておられますね。

    凄いです♡ミイラとかは私も凄く興味があって
    テレビでしか情報はわからないですが。笑
    色々勉強になります。

    作者からの返信

    @niku_9様

    いつも読んで下さってありがとうございます!
    実物を見た上でうんちく垂れたいですが、お金も時間も無いので、情報元は本やネットばかりです(笑)

    ミイラ、凄いですよねー!
    私はセティ一世のミイラが好きです❤

  • 私、エジプト王朝については素人なんですが、

    第〇王朝、っていうのは、

    中国でいう、禅定OR簒奪による、血統変更、

    っていう認識でしょうか?

    作者からの返信

    @Mwada_0816様

    ご質問ありがとうございます。
    私もよく分らなかったので、調べてみました。

    王朝の区分けは、新王国時代に編纂されたというパピルスが最古だそうです。それより有名なのが、紀元前300年のプトレマイオス朝時代にいた歴史家マネトという人が書いた『アイギュプティカ』または『エジプト史』という本で使われた区分です。残念ながら現存はしていませんが。

    で、本題である、その区分けの方法なのですが。
    マネトは一応、血統が変わるタイミングで王朝を区分けしたと言われています。――が、実際、王朝区分と家系は一致しない所も多い様子です。
    例として、新王国時代、第18王朝の一部であるアマルナ時代と呼ばれている期間が上げられます。
    アマルナ時代の終盤は、王の血統が変わっています。けれどそれもひっくるめて、第18王朝としています。王朝区分は、便宜的な印象をぬぐえません。

    全体的に見ると、やはり血統が変わったポイントで区切っている様子ではあります。
    しかし、現存する情報では、何をもって王朝を分割したかははっきりとは分っていないそうです。
    また、現代でも修正が加えられていっているらしく。

    なんとも頼りない回答になってしまい申し訳ありません。
    これが、現代知られている古代エジプトの王朝区分でした。

  • 相変わらずの情報量……すごい……。
    最後、他のひとたちとひとまとめのミイラ発見だったんですね。
    かわいそう……なのかな?

    作者からの返信

    壱単位様

    コメントありがとうございます。
    エジプトは古代から盗掘だらけで、ラムセス二世のミイラは盗賊の手から逃れるため、何度もお引越ししたそうです。
    最終到達地点が、ハトシェプスト女王の葬祭殿の後ろの絶壁穴だった、と。記憶が曖昧なのですが、確かラムセス二世のおとーちゃんの、セティ一世のミイラも一緒にそこで発見されたんだったかな?
    盗掘から逃れられて、最後は偉大なおとーちゃんと一緒にいた。そう思うと、ちょっと救われる気もしますね。

  • 複数の資料で微妙に年が違いますしね……あの時代になると。
    統合するだけでも一苦労ですね。
    どっかで誰かまとめていそうなものですが。
    実際日本ではツタンカーメンやクレオパトラの方が昔は知名度が高かったですが、アブシンベル神殿のことなどが知られてから、あとは某ゲームの影響もあって一気に名前が知られた印象はあります。実際、古代エジプト三千年並べても、彼ほどすごいファラオはそうそういないですよね。
    文字通り別格。

    ところで、前1278年のセティ一世崩御の後、前1279年に戻ってラメセス二世即位になってます……年齢とかみ合わなくて気付きました。

    あと1行目、《》を閉じ損ねてるかと(^^ゞ

    作者からの返信

    和泉将樹様

    コメントありがとうございます。
    ラムセス二世はほんとゲームのお陰で有名になりましたね!
    年表を見ていると、濃密で忙しい人生を送ってきたんだな。と感じました。特に30代と40代はゴッタゴタです。
    お疲れさんでした、と言いたいです。

    西暦の誤りのご指摘、ありがとうございます!
    文献で確認したら、文献からしておかしくなってました。
    共同統治ということで良いのかしら?
    と思いつつ、ややこしいので、この部分はwikiを採用して修正しました。
    ありがとうございます。

    それから、閉じ損ねも(笑)。
    感謝です。

    編集済