第3話 ラムセス二世の一生をざっくり年表にしてみた
さて今回は、
ラムセス二世の第四王子カエムワセトを主役にするなら、必ず把握しておかなければならない最重要事項です。
しかしながら、書籍やネットで掲載されているようで意外と無いのが、これでした。古代エジプトのざっとした年表ならすぐ見つかるんですけどね。
今回、書籍やネットから資料を集めてまとめたので、忘れる前にここに記録しておきたいと思います。
なおこの年表は、必要に応じて、加筆・修正が入る予定です。ご了承ください。
【生没年および即位年】
ラムセス二世の即位年には諸説あり、また生まれ年も大まかにしか特定されていません。仕方ありません。なにせ紀元前1000年以上前の人だもの。記録が残ってるだけでもキセキですよね。
ここでは、現在最も有力だと言われている即位年Bc1279年説で進めてまいります。
生まれはBc1302
死亡年はBc1212
とします。
表記方法は
↓
西暦 治世年 ラムセス二世の年齢 出来事
↓
という順に書いて行きます。
西暦は全部、頭にBc(紀元前)がついているものとしてお考えください。
――あ、すみません。重要な事を書き忘れていました。
みかみ(筆者)は数字が壊滅的です。算数力は、小学校二年生の娘よりも劣ります。もし計算間違い等を発見された場合は、ご指摘頂けたら有難いです。(電卓ですか? 使ってますよ。使ってても間違うんですよ。だから壊滅的なんですよ)
ではラムセス二世の、生まれてから死ぬまでの出来事を並べてみましょう。
よろしくお付き合いください。
【ラムセス二世 年表 ※数字は全てアラビア数字で表記します】
1302年 ホルエムヘブ(元将軍)治世19年 0歳 ラムセス2世誕生
↓
1293年 ラムセス1世(ラムセス2世のじいちゃん)治世1年 9歳 パラムセス1世即位(第19王朝の始まり)
↓
1292年 ラムセス1世治世2年 10歳 ラムセス2世軍司令官を務める2)
↓
1291年 セティ1世(ラムセス2世のお父ちゃん)治世1年 11歳 パラムセス1世崩御。セティ1世即位
↓
1288年 セティ1世治世4年 14歳 ラムセス2世摂政に任命される3)
↓
1287年 セティ1世治世5年 15歳 ネフェルタリおよびイシスネフェルトと結婚
↓(この間に、少なくとも長男アメンヘルケプシェフ、次男ラメセス、三男プレヒルウォンメフが生まれている)
↓
1285年 セティ1世治世7年 17歳 (予想:カエムワセト誕生)
↓
1284年 セティ1世治世8年 18歳 ヌビア遠征イレムの国(上ヌビアの西)まで到達2)
↓
1281年 セティ1世治世11年 21歳 ヌビアへ遠征(アメンヘルケプシェフとカエムワセト(4歳?)も参戦)
↓
1279年 ラムセス2世24歳 セティ1世崩御
同年 ラムセス2世治世1年(5月31日 ⅲ収穫期の27日) 24歳 ラムセス2世即位
同年 (予想:ワセト(テーベ)からぺル・ラムセスへ遷都)
同年 ラムセウム建設2)
↓
1278年 治世2年 26歳 彫刻のスタイルを変更。図柄の輪郭線を石の中に彫り込む『沈み浮き彫り』を採用
同年 海の民の一派シャルダナ族との戦い。勝利。
↓
1276年 治世4年 28歳 初のシリア遠征(第1次シリア作戦)勝利。アムルを占領3)
↓
1275年 治世5年 夏(増水期)第ⅱの月 9日 29歳 第2次シリア作戦(カデシュの戦い*カエムワセトら出陣)ドロー?負け?2)
↓
1273年 治世7年 31歳 第3回シリア作戦(カナンの王子が反乱した事による*アメンヘルケプシェフとともに出陣)勝利。かつての勢力圏を奪還。3)
↓
1274~1273年 治世8・9年 32~33歳 その後のシリア作戦。ダプール獲得(包囲して手に入れる)3)
↓
1272年 治世10年 34歳 ダプールが再びヒッタイト領になり、出兵。(ダプールの戦い)。勝利
↓
1266年 治世16年 40歳 聖牛アピスの葬儀をカエムワセトの指揮の元行う。
↓
1264年 治世18年 42歳 ヒッタイトのムルシリ3世(ウルヒ・テシュプ)がエジプトへ亡命。平和交渉が始まる。
↓
1262年 治世20年 44歳 ヌビアのイレムの国が反乱。これを鎮圧し、7000人の捕虜を連れ帰る。
↓
1261年(1258年の説もあり3)) 治世21年 11月10日←日付はどこからの情報か謎。YOutube?) 45歳 ヒッタイトとの平和条約が結ばれる。
同年 アブ・シンベル神殿完成2)
1260年 治世22年 46歳 イシスネフェルトの娘であり長女でもあるビントアナトを正妃に迎える←wikipedia 『ネフェルタリ』より
↓
1257年 治世25年 49歳 第4王子カエムワセトがプタハ大神殿の最高司祭に就任4)
同年 皇太子アメンヘルケプシェフ死亡。第二王子ラメセスが立皇4)
同年 ネフェルタリが死去 ←wikipedia 『ネフェルタリ』より
後、ネフェルタリの娘メリトアメンを正妃にむかえる。
↓
1252年 治世30年 54歳 セド祭1回目(カエムワセトが取り仕切る)
同年 神殿の倉庫の管理長が供物を大量に盗む。ごたごたの最終判断は後継者の王子(皇太子ラメセス?)にゆだねられた2)。
↓
1245年 2月 治世37年 61歳 ヒッタイトから王女がラムセス2世の元に嫁ぐ(マアトホルネフェルラーに改名)
↓
1243年 治世40年 64歳 再度、ヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁ぐ。
↓
1241年 治世42年 66歳 セド祭5回目
↓
1233年 治世50年 73歳 第2王子ラメセス死去。
同年 第4王子カエムワセトが立皇。
↓
1228年 治世55年 78歳 聖牛アピス埋葬。ここ以降、カエムワセトの名前が出てこなくなる。
予想:同年カエムワセト死去。第13王子メルエンプタハが立皇(40代?)。
↓
1212年(もしくは1213年) 治世65年 90歳 ラムセス2世崩御(セド祭の前日に亡くなる)
同年。メルエンプタハの治世が始まる。
↓↓↓
Ac1881年 考古学者によって、ハトシェプスト女王葬祭殿の後ろの崖の窪みから、多数のミイラとともに、ラムセス二世のミイラも発見される。エジプト考古学者のyoutubeより)
【まとめ】
以上、ラムセス二世の年表でした。
文献が増えれば増えるほど西暦がごっちゃになるので、暦は文献1)と2)から得た情報を主に計算してあります。
とはいうものの、やっぱり文献を絞っても、数年のずれは出て来ました。でもまあ、紀元前ですしね。彼の子供の数からして100人だとか200人近いとか、信じられないくらいの開きがあります。エピソードの数年くらいのずれは誤差として、おおらかな心で受け入れてしまおうと、そういう結論に至りました。うん、大したことないよ、多分。
さてさて。
ざーっと年表を見ているだけでも、ツッコミどころ満載なラムセス二世の一生です。次回からはこの年表を元に、色々と興味深い当時の出来事などを考えてみたいと思います。資料は少ないですが。
宜しければ、またお付き合い頂けたら幸いです。
【参考文献】
1) 古代エジプトを知る辞典
吉村作治:著
東京堂出版
2) 神になった太陽王の物語 ラメセス2世
ベルナデット・ムニュー:著
吉村作治:監修
創元社
3) ネットから拾った学術論文
科学ニュース 研究レビュー
4) ウィキペディア日本語版、英語版
5) その他インターネットからの情報
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