第2章 Vtuberデビューへの道のりは、案外厳しいらしい。

第16話 上地らいかはママだった?

 俺の妹が、Vtuberになろうとしていた。


 今までろくな青春も送ってこなかった妹は、せっかく大学生になれたのに、せっかくコロナも明けたというのに――男の一つも作らず、それどころか、まともなサークルの新歓にも参加せず――「Vtuber研究会」などという得体の知れないサークルに入り、Vtuberになろうとしていた。

 俺はそんな妹を見て、耐え切れなくなった。ただのお節介だとわかっていても、彼女をそのままオタクの世界に放っておくわけにはいかないと思った。

 だから俺は、こかげを飲み会に連れて行った。正確には、俺となぜか同じことを思っていたもう一人の女もいたわけだが。


 自分自身、ここまでの行動力があったことに驚いている。久しぶりに会った妹に、兄貴らしいところを見せてやりたくなったのかもしれない。


『そっかぁ。こかげちゃん、きっと本気なんだろうね』


「ああ」


 だが結局、俺の目論見もくろみ――俺とひなたの目論見は、失敗に終わった。

 こかげに男を作るどころか、下手すれば飲み会がトラウマになってしまうような思い出を、妹に植え付けてしまった。

 ……情けない。


 しかし一方、のび太とジャイアンのような関係に見えた(もちろんあの性悪しょうわるビッチがジャイアンである)こかげとひなたの友情は、あの一件を経て深まったように見えた。

 ひなたはこかげの想いを理解し、こかげの「Vtuberになる」という夢を叶えるため、先輩Vtuberとして協力してあげる、という感じになったのだと思う。


『じゃあ、お兄ちゃんも頑張らなくちゃね』


 電話の終わり際。俺から事の顛末てんまつを聞いた母は、そんなことを言っていた。

 その口調はいつものように柔らかいままだが、これは母なりの喝だったのだろう。こかげが頑張っているのだから、お前も見習って何かに精を出せ、と。

 向上心の無いやつは馬鹿だ、とはよく言ったものだ。


「はいはい」


 正直、余計なお世話だとも言ってやりたかったが、今の俺はそんなことを言える立場ではなかった。

 不思議なもんだな……単に俺が母親に似ているのか、家族というのは誰でもお節介を焼きたくなるものなのか、どちらかはわからない。


 なんにせよ、俺は、


「せいぜい頑張りますよ。お兄ちゃんらしく」


 とりあえず、今はこかげの夢を応援してやろうと思った。

 ……なんて書くと、偉そうだけどな。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 あの飲み会から1週間ほど経った土曜日のことである。

 俺は再び厚大の109号室マルキューおもむいていた。


 V研の活動日は本来毎週日曜日らしいのだが、夏休みにも入ったし明日からお盆ということで、日にちをずらしたということらしい。ちょうどバイトもなかったので、俺も顔を出すことにしたのだ。

 ちなみに、このことはたまたまコンビニに来たじらいちゃんに聞いた。その日はいつもの地雷フォルムではなく、爽やかお姉さんフォルムだった。そこに何かの法則があるのか、はたまた気まぐれで決めているのか……俺にはわからない。


「アタシ考えたんだけど、おたるたるの妹っていう設定がいいと思うの」


 ホワイトボードの向かい、上座(と言っていいのかわからないが)に座り、偉そうに腕を組んでいたひなたが話し始めた。

 ひなたの斜め隣にはこかげとらいかが座り、俺は一番ホワイトボードに近い席(らいかの隣)に座っている。

 これがゼミや授業だったら間違いなく俺が一番やる気のある奴だが、この俺がそんな特等席に自ら座るわけがない。来た時には他の席が既に埋まっていたのだ。これぞ日本人。


 大学院あるあるだと思うんだが、受ける人数が少ない授業とかだとみんな後ろに座りたがるから前の方ガラーンとしちゃうんだよね。それで教授とかが「前空いてるよ」って何回も言うんだけど結局誰も来なくて、しまいには教壇降りてわざわざ教室の真ん中まで来て授業始めるんだよね。

 あれってマジで見てていたたまれないからさ、みんなほんと前行った方がいいよ。そんなことしてるから教授の頭が薄くなっちゃうんだよ。俺は絶対行かないけどね。


「――書記! 何のためにそこ座ってんのよ!」


 俺が恩師の危機的な頭皮について考えていると、横から鋭い声が飛んできた。


「……書記?」


 アンタ以外誰がいるのよ。って顔だった。

 いや普通こういうのは女子がやるもんでしょ。そんなのは男女差別だとか言われそうだけどな、大体男ってのは字が汚いんだよ。適材適所なんだよ。秀知院だって書記のチカは可愛いんだよ。書記はもはや女子のステータスなんだよ。

 チカっとチカチカっ☆


「でも……なんで、妹……ですか?」


「そりゃ決まってるじゃない。そうすれば後々アタシとコラボとかしやすくなるし」


 恐る恐る尋ねるこかげに対して自慢げに答えるひなたは、こう続ける。


「それに……なんだっけ? 腕押し……じゃなくて」


「……はこおし?」


「そう! それよ!」


 はこおし……? 箱を押すということだろうか。のれんに腕押しよりは意味のありそうな行為だが、なぜ箱を押す必要があるのだろうか。

 疑問に思いながらも、「おたるたるの妹」と書いた横に、箇条書きで「箱押し」と書いていく。


「でも……たるちゃんじゃ……」


「なに? アタシじゃ力不足だって言いたいわけ?」


「や……そういうわけじゃ……」


 不良のようなメンチを利かせてくるひなたを前に、こかげは目を泳がせながら体をすぼめ、アホ毛をしなっとさせている。

 ちなみに、今日も妹は可愛い。白いシャツにグレーのパーカーを羽織るというシンプルな服装だが、キャラT1枚で堂々と大学に来ていたあの頃に比べたら天と地ほどの差だ。ついにオシャレに目覚めたということだろうか。

 まあ、そのパーカーもよく見ると胸元になんかのイラストっぽいのが入ってるんだけどね。誰かのグッズなんだろう。


「そういえばさ、たるちゃんって登録者何人になったの?」


 ルーズサイドテールがよく似合うお姉さん――もとい上地らいかは、横から助け舟を出すようにひなたに問う。


「え? 千……もうすぐ二千人だけど」


 正しくは1512人である。ばっちり今朝確認済みである。さばを読むにもほどがある女である。DHAがたっぷりである。どこさへきさ。

 ちなみに、そのうちの1人は俺だったりする。


 ち、違うんだからね! たまたまボタンが押ささっちゃっただけなんだからね! 

 アンタの配信なんて興味ないんだからねっ!


「に、二千……一年も経って、二千……っ」


 らいかはお腹を押さえながら吹き出しそうになっていた。

 生理だろうか? それともつわり?


「な……! 地雷女のくせにバカにしてんじゃないわよ! 自分でやってみればどんだけ大変かわかるっつーの!」


「そっか。そうだね。ごめんごめん」


 謝りながらポンポンとひなたの肩を叩くらいか。


「っきー! バカにしてっ!」


「どうどう」


 百合百合しい……じゃなくて。なんか姉妹みたいだな。驚くことにあのへそ出し香水女がうまく手なずけられている。けしからん。

 密です! 密です! ……これは小池百合子。


「あ、さとりさん……それ、違う」


「ん? なんだ?」


 ゆるゆりを繰り広げている二人をよそに、こかげはホワイトボードの文字を指差し、指摘した。


「はこおしの『おし』は、そうじゃなくて」


「あっれぇ? アンタそんな漢字もわかんないのぉ? 北大生のくせに、そんな漢字もかけないんだぁ? ふーん、北大生のくせにぃ」


 ここぞとばかりにあおってくるクソビッチ。

 くそ……酔った勢いで余計なこと教えなけりゃよかったな……。


「前から言いたかったんだけど、なんでお前敬語じゃねえんだよ? 人生の先輩に向かってなんて口利いてんだよ?」


「えぇ~? だってぇ、敬意を払うべき要素がないし~?」


 う、うぜぇ。

 こいつ、配信ではあんなにび売ってるくせに、俺の前じゃこれだよ。敬虔けいけんなおたるたるのリスナーたちも裏ではこんなこと言われてるんだろうな……。

 お前のおかげで俺はVtuberを嫌いになりそうだよ!


「あはは! さとりくんよ。箱おしの『おし』は、推しの子の『推し』だよ」


「ああ」


「箱っていうのはVtuberの事務所のことで、その事務所ごと推すってこと。わかりやすく言ったら、AKBだけじゃなくてHKTとかNMBとかも好きって感じかな」


「ほお」


 さすがは僕らのお姉さん。例えがわかりやすくて助かる。

 でもさすがにAKBは古すぎるんじゃないですかね。ほら、


「えいちけーてぃ?」

「えすえむびぃ?」


 令和キッズには伝わってませんから。

 せめて乃木坂とかにしとかないと……えすえむびぃってなんだよ。SMBarみたいでなんかいやらしいなおい。

 ……SMバーってなんだよ。なんか行ってみたいなおい。


「ん? でもV研は別に事務所じゃないだろ?」


「そうだね。普通箱推しっていうのはハロライブみたいな企業勢に使われる言葉なんだけど、個人勢でも似たようなことが起きることがあるの」


「というと?」


 俺がその話に食いつくように身を乗り出すと、らいかは「ふっふーん」と得意げに鼻を鳴らした。


「ママ推し、だよ」


「ママ……?」


「絵師推し、でしょ」


 いきなり出てきたバブみのある言葉にうろたえていると、またもや横槍が飛んできた。

 ……ネットで見たから試しに使ってみたけど、「バブみ」ってなんだよ。赤ちゃんの味ってことかよ。うまみに次ぐ味覚の新要素かよ。ミルキーはママの味だよ。ママの味ってどんな味だよ。お前ママ食べたことあんのかよ。


「それだと味気ないでしょ? ママの方が愛情がこもってるというか」


「はぁ……そういうのホントめんどくさいのよね。普通にイラストレーターって呼べばいいのにさ、なんでただの仕事相手のことママ呼ばわりしなきゃなんないのよ」


「こら! ママの前でなんてこと言うの! ひなちゃんをそんなそんな子に育てた覚えはありません!」


「うわ……キモ」


 ひなたは本気で引いているようだったが、対するママはなぜだかニヤニヤと嬉しそうだった。

 どMなのだろうか…………ん? ママ? じらいちゃんが、こいつの?

 じゃあパパは誰なんだよ? というかその場合パパってどういう意味になるんだよ?

 なんて突っ込もうと思ったのだが……。

 キィ。と、扉が開かれる音がした。


「おはよー!」


 そこにいたのは――スラッと伸びた長い脚に、まくったシャツから覗くほどよく筋肉の付いた腕、手首にはきらりと光る腕時計をはめた、顔の整った男。


「いやぁ、久しぶりだなー」


 爽やかな声に、爽やかな髪型、そして爽やかな服装。静岡のおいしいハンバーグ屋もびっくりのさわやかさである。正直羨ましい。

 シャツの中に見えるインナーに書いてある「Hello V Live」の文字が気になるが、きっとそういうオシャレ着なんだろう。俺には到底着こなせない。


「せ、せせ……せんぱい!?」


「お! ひなたか! 元気してたかい?」


 突然現れた爽やかイケメンに話しかけられたひなたは、くりっと目を丸くして、


「げげ、げげげのげんき……げ、げんき!」


 顔をまるでゆでダコのように赤く染めていた。


 わっかりやすいなー、この女。

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