兄弟戦争
「――よく来たなぁ?歓迎するよ。」
あるさびれた漁村からやや離れた小さな海岸にそこはあった。
ある一家の修練の場、死刑を滞りなく行うため、剣技を鍛えるために訪れることになるその場所は足元の制御の効かぬ砂地であり、なんの器具も用意されていない。
素振りを確認するための人形もなければ、何なら試し切りのための巻き藁もない。
人に不快感を与えぬように人のこない場所。それだけがこの場所の利点だった。
そこにあるのは、静寂と――稽古でできた血の後だけだ。
そこで、せり出した岩場に腰掛けて黒衣の男が現れた弟に懐かしんでいるかのように声をかけた。
「待ってたんだぜ?お前と俺の仲だ、こねえんじゃねえかって不安でなぁ……」
「――よく言う、僕が来なきゃ、お前自身があそこに乗り込んで暴れまわる気だったくせに。」
「ああ?そうだったか?だったかもなぁ……」
そういって、腰かけた男がけらけらと笑う。嘲るような笑み――いつも思うが、どうしてこの男の笑い声はこうも人の神経を逆なでするのか……
これが、弟と兄の間に交わされた最低限の合議だ。
弟が兄の前に身を差し出す代わりに、兄はそれ以外の者に手を出さない。そういう合意。
お互いの行動が完全に読めるがゆえに起こる、いつもの言外の交渉は今日も兄の勝ちだ。
いつでもそうだった、好き勝手に動く兄の動きに弟はかすかに手が届かない。かすかに上回っているはずの予測はいつだって被害を減らすことしかできない。
弟には守るものが多く、兄は壊すのが得意だ。
その差が、兄と弟の力関係を決めていた。
「あの男を脱獄させたのは僕と話すためか?」
「ご明察だ、素敵な招待状も送ってやっただろう?」
「……ああ、お前の下職共か?」
ここに来る前、自分に襲い掛かってきた連中を思い出す。増長し、命令を実行するための気勢に満ちていて――
「――ずいぶんとしょぼい部下だったな。」
――それほど、興味をひかれなかった。
お誘いがかかってから五分、二十人はいたろう迎えの騎士たちは全員ここに顔を出していない。
それが答えだった。
「全員、海岸に捨ててきたが……あれ、、もしかして次兄が片付けるのか?」
「いいだろ、あいつはいつもそう言う役だ。」
そういってけらけらと笑いながら黒衣の兄は岩場から降りた。
その姿はまるで神話から飛び出したように均整がとれている。
テッラも同じように表現されるが、この男はそれ以上だ。
弟から頭一つ分大きなその体躯は、細く見えるのにまるで絞られた縄のような筋肉を持つその肉体は偉大な芸術家が作り上げた彫刻のように均整がとれて、背後からは後光がさすようにすら見える。
その強大な体に反して小さな顔は、まるで逸話の天使でも降りてきたように整っている。
切れ長の目、なだらかな鼻、形のいい唇、剣の先のように鋭い顎。
おおよそだ屋かに見える挑戦的な顔つきの男には、確かなカリスマが見え隠れした。
何のこともない流し目で人をひれ伏させるような威圧感を放つのは、この男の魔力がなせるのか、あるいは魂が人よりも上位なのか。
そこにいるだけであたりにいる人間をことごとくみじめにさせる美貌、その男よりも美しい物を弟は最近できた後輩しか知らない。
余人なら魂からひれ伏すとすら言われるその覇気とも蠱惑ともつかない気配が、この男がだれだか教えている、目が見えずとも分かるだろう、この男がただものではないことを。
見るたびに思い知る格差に、内心で辟易しながら弟は手に握ったかぎ爪のようなものに力を籠める。
狭い海岸、男が二人、何も起きないはずはない。
四人ならば、お互いを誰かが止めるかもしれない。
三人だとしても、誰かが間に入って止められるだろう。
だが、今ここにいるのは二人だ。
それも、仲の悪い兄弟が二人。
だから結局、この兄弟も例にもれず、男が二人いると起こることをするのだ。
いつのまにやら、兄の手には細身の長剣が握られていた。
全身が黒い鞘に収められたその剣が、親指で抑えられていた鞘の戒めから解き放たれてその白銀の刀身を外界にさらす。
銀灰色の斬線が空気を切り裂いたのはほとんど同時だった。
刀身に纏った魔力の燐光が青白い光を残してたなびき、斬撃の軌道で飛んだ。
魔力の斬撃だ、化け物じみた魔力の投射量がなければ行えないまさしくある流派の秘儀の一つ――この男が、五歳の時からできたお遊びの技。
その一撃に、弟はかぎ爪から放たれた砲撃で対応した。
ガオン!
空気をかみ砕くような音が響き、空間を割るように不可視の砲撃が斬撃を打ち砕いた。
まっすぐに兄に向けた腕の先、不可視のオーラの砲弾を放った弟は憮然とした表情で再び引き金を引く――そこには彼には珍しい殺意がこもっていた。
「――死ね、くそ兄貴。」
「――ほざけよ出涸らし!お前に何ができる!?」
誰も知らない海岸で、誰も知らない二人の男――フロリス・グベルマーレとテンプス・グベルマーレのこの世で最も高度かつ、危険な兄弟喧嘩……いや、兄弟戦争が始まった。
『――サンケイ、次!』
「……!」
ところ変わった岬の先、こちらでも起こっていた兄弟戦争は弟の劣勢だった。
目にも止まらぬ速度で殺到した火炎球の魔術をサンケイは必死の形相でかわす。
すでに体感時間で三時間に到達しかけている戦闘はボルド優勢で進んでいる。
状況を打開するべく、サンケイは彼が扱える魔術で最も早い稲妻の魔術を選択し、即座に投げ放った。
空間を埋め尽くす広域の魔術放射は人を殺すには十分すぎる威力がある。
普段の彼なら選ばない魔術の選択、今までの彼に人を殺す度胸はなかったし、今の彼にしてもそれは禁忌だという自覚はあった。
それでも、こうして放つしかないのだ。これをもってしても――
「――おせぇんだよ雑魚が!」
『サンケイ!後ろ。』
叫び声とともに、背中に強い衝撃――蹴られた。
体が前のめりに吹き飛ぶ、早い物体は軽くとも威力が出る。何かの漫画で読んだ理論をサンケイはありありと実感していた。
急ぎ、相手の移動方向を振り返るがそこには誰もいない――素早い、移動した後だ。
『早すぎて……捕まえられない!』
明らかに相手の魔術が発達している。
自分もキノトの技術で加速しているはずなのだ。だというのに、一向にとらえられない。
まるで霊体のようにすり抜けているかのような動き、しかし体を襲う痛みがこの世に相手がいることを示している。
だとすれば、答えは一つだ。
『フロリス……!』
苦々し気に、キノトが呻いた。
彼女からすれば尊厳を凌辱されているに等しい所業だ、彼女がずっと夢に見た魔術を勝手に弄り回され、おまけに、それは自分が見つけ出した術よりもずっと性能がいい。
おまけに、それが悪人の手にわたって、恩人を傷つけている。
彼女からすればとてもではないが許されない状況だった。
しかし、彼女にできることはない。
せいやくのしょは幽鬼界から魔術を扱えるようにすることはできるが、実体化させられるわけではない。その欠点がありありと出ていた。
サンケイだけでは、この状況は打開できない。
『……ッ!』
思いつく対策はすべて行っていた。
地面を氷張りにし、壁を打ち立て、全方位に攻撃を放った。
そして、 そのすべてが無駄だった。
氷は直前で踏みとどまられ溶かされた、壁はできる前に攻撃を食らい、全方位への攻撃は――御覧の通りだ。
どうにかする必要がある、この速度についてこられる人間が足りない。
そうでないなら未来予知でもするか、速度差で圧倒するしかないがこれ以上の加速はサンケイに負担がかかりすぎる。
対処の手立てがない。
放たれた風の刃に外股が切り裂かれる、液体とは思えない速度で血が地面に跳び、高速で蒸発した。
「――どうしたぁ、サンケイ!お兄ちゃまに助けは呼べないかぁ?裏切りもんがよぉ!」
君の悪いだみ声が周囲一帯から響く。高速移動しながら声を張り上げているのだと、キノトにはすぐに分かった。
「……」
その一言にサンケイは黙る――わざわざ反応してやることもあるまい。
とはいえ、確かに、自分にできることはない。やはりこの世界の天才相手に転生した程度の事では対処できないらしい。
だが――
『……たぶん、そろそろ……』
彼のこれまでの十六年のサンケイ・グベルマーレとしての過去が伝えている。あの兄の事だ、きっと――
「それとも、あの出涸らしにすら見捨てられ――「――ほう?盗人の分際で人の男を愚弄とはずいぶん肝が据わってるじゃないですか。」――あべっ!?」
終わりを告げる鈴の音が鳴った。
こちらを嘲笑する声が止み、次の瞬間、吹き飛ばされ止まったことでボルドの姿が地面の上に現れた。
それが、空気を瞬間的に膨張させた『大気の爆発』によるものだと気が付いた人間はここにはいない。
それだけの早業だった。
強く吹き飛ばされたのだろう、頭を振ってもうろうとする意識を確かにしようとするその姿を、いつもように美しい、それでいてみたことのない装備の少女が見つめていた。
「……早いね、マギア。」
「そうですか?見たところ少し遅かったかと思ってましたが……まあ、あなたがそういうならそうでしょうね。」
そういって帽子をかすかに上げ、少女――マギアがほほ笑んだ。
「私はあなたのやったことを許す気にはなりませんが――同じ人間を信じたものとして後は引き継ぎましょう。よくがんばりましたね。」
そういって、彼女は傲然とボルドの前に立ちふさがった。
「――さぁ、次と行きましょうか。人の男を愚弄するとどうなるのか教えてやりますよ。」
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