輝ける天上界、サンクトス

 これなるは正義、悪を許さぬ果断さ、理法、天上の気品、そして慈悲を知ろしめす所。


 いかなる悪も見逃さぬ油断なき天上の監視者により守られし防壁の園。


 万物が美とともにある秩序と善の砦。


 輝ける天上界、サンクトス。


 この名を知っている人間も今はいなくなって久しい。


 人が次元を渡れなくなってもうずいぶんと――少なくとも百年以上――経つ昨今において、この次元の存在は意図せずに隠され、誰にも理解されぬまま風化してしまった。


 テンプスすらマギアに聞くまでは厳密な意味では存在を知らなかった異邦の地。


 それが、今、テンプスの目の前に広がっていた。


「――どうです?あの庭ほどじゃないですが、ちょっとしたものでしょう?」


 そういって、してやったりとばかりに笑う後輩に、テンプスはうなずくしかなかった。






「――で、どこに行くんだ?」


 ここに降り立った時に降り立った庭に机を出して行われる昼食会は豪勢ではないが朗らかだった。


 そんな昼食の席で、テンプスは合流したマギアに向けて疑問を投げかけた。


「ん?何がエス?」


「食べながらしゃべらない、の。」


「ん……失礼、何がです?」


「……ここに来た理由、君の忘れ物だろう?」


 テンプス達がここに来たのはもともとマギアの忘れ物をとるためだ。


「ああ……そうでしたね、書庫の事で頭いっぱいで忘れかけてました。」


「おい。」


「冗談ですよ、どこ――と言われると困るんですが……」


 手に持ったフォークをくるくると回して、マギアは天井を見上げてつぶやいた。


「まあ、遠いところですよ、安心してください、すぐ着きます

あ、そうだ、本を一冊借りていきたいんですけど。。」


「いいけど……どうやって、さっきも言ったけど、ここ一応地下だぞ。」


 誰にも見つけられない場所、と言われて思いついた場所がここだったから連れてはきたが――ここで良かったのか、今更謎になってきてしまった。


 以前も語った通り、空間を飛び越える魔術はこの次元では使えない。スカラーと魔法文明の大戦時に双方が空間移動を禁じる措置を行ったからだ。


 より厳密にいえば、魔法文明側が作り出した『空間移動湾曲領域』をスカラーが危険視してその上から『空間移動阻害領域』を作り出して、空間移動を阻害しているのだ――無用な犠牲者を出さないように。


 その性質上、魔法魔術、そして、科学的技術問わず、この次元内で空間移動はできない。


 どこに行くにせよ、ここから移動するのは難しいはずだが――


「知ってますよ、別に空を飛んでいくわけじゃありません――もしかして、魔術が使えないとか言いませんよね。」


 マギアはひどくあっけらかんと答えた。まるで、ここが目的地だといわんばかりだ。


「使えないところもあるぞ、まあ、大部分は使うだけなら問題ないけど……」


「ならいいです、どこでやりますかね……」


 そういって、思案交じりに食事を再開した後輩に首をかしげながら、テンプスも食事に戻った。




「ついてきてください、用意ができました。」


 そんな一言を放たれたのは、食事終わりの茶をしばいている時だった。


 はて?と首をかしげながら、テンプスはマギアに従い滑らかな廊下を歩く。


「何をするのか」と聞けば、「秘密です、ばらしたら面白くないでしょう?」とくすくすと笑ってはぐらかされ歩いてきた先は先ほど気の重い会話を交わした庭だった。


 にやにやと笑う後輩にその場にあった巨大な魔術円の中心に留め置かれ、何やらぶつぶつと古い言語で呪文を唱える後輩を困った顔で見る羽目になった。


 自分の体に影響を与えないよう細心のtゅう意を払て行使されているらしい魔術を眺める――知らない力の動きだ。


「何これ。」と問いかける言葉に「待ってると面白いことになる」とノワに諭され、言葉に従った。


 何が起こるにしろ、この少女たちが行うことだ意味があるのだろう。


 そう考えた時だ、魔術円が一瞬強く光ったと思えば、次の瞬間にはこの地に移動していた。


 ワイン色の夜空の下、金属の輝きを持つ銀の海の波打ち際にぽかっと間抜けずらでテンプスは立っていた。


「次元移動の魔術です、本来はここじゃなく別の次元に行くときに使うつもりの術だったんですが……まあ、べつにいいでしょう。」


 そういって意味ありげにテンプスを見たマギアは、いたずらっぽく笑って彼に言った。


「――どうです?あの庭ほどじゃないですが、ちょっとしたものでしょう?」


 そういって、してやったりとばかりに笑う後輩に、テンプスはうなずくしかなかった。


 まるで水銀のように見えるその海は、しかし粘性を持たず、水のように流れ銀色の小魚の群から深海を悠然と泳ぐ強大なファスティトカロンまで、さまざまな水生生物が悠然と泳ぐ神秘の海だ。


「すごいでしょう?あれ、全部聖水らしいですよ。」


「……すごい。」


 そういいながら、彼は真上の空を見つめる――ワイン色の空は明らかに夜だ。


 だというのに、テンプスの目はまるで昼の太陽の下にいる様に後輩の姿を見ている――その理由が空にあった。


 まるで、無数の蛍が空に逃げ出したかのように全天が星の輝きで埋め尽くされている。


 暗闇を怖がる子供が夢想する怖くない夜を形にしたようなその空は、人が不自由せず、それでいてものを見ることが十二分にできるだけの明るさを持って地表を照らしている。


 顔を戻して遠くを見れば岸辺にはさまざまな建築様式で建てられた、磨き上げられた白い石の城塞や邸宅が点在している。


 美しい場所だった――先ほどまでいたはずのあの庭とはまた別種の美しさがある。


「ふっふっふ、そうでしょうそうでしょう、もっと褒めていいんです――」


「すごい!」


 胸を張り、どこか自慢げな声を上げるマギアにテンプスがかぶせるように声を上げた。


「――ぇっ、あ、はい、えーっと……喜んでもらえて何よりです。」


 その勢いに、マギアは気圧されたように後退った。その顔をはかすかに赤い。


 予想外にテンプスの勢いがよかったこともそうだが、出会ってから一度も見たことがない瞳の輝きがどこか少年じみていて……年相応の無邪気さが出ているのが大きかった。


「うん!ありがとう!」


 そういって、今まで見たことがないような顔で屈託なく笑うテンプスから、マギアは視線をそらした――なんだってこの人は、時たますごくかわいらしくなるのだろう?


「……兄さん、かわいい。」


「ね。抱っこしちゃダメか、な。」


「辞めなさい、私だって我慢してるんですから。」


 傍らでひっそりと肩を組み、悪だくみでもしているかのように声を潜めて語り合う三人をしり目に、テンプスは周囲を子供のような目で見まわしていた。


 この次元は、彼が子供のころ……この体質になる前、母から聞いたおとぎ話の舞台そのもののように、彼には映ったからだ。


 銀の海に輝く星々、立ち並ぶ異国の建物――そういったすべて。


 いつか、こんな場所に行ってみたいと思っていた場所。


 家業と体質に阻まれてずいぶん前に来ることをあきらめた場所。


 それが目の前にあるのだ、彼からすれば、これは夢の成就に他ならなかった。


 残り少ない人生でこんなことができると思っていなかったテンプスからすれば、それはまさしく降ってわいた幸運だった。


「んん、えーっと、いいですか?」


 キラキラとした視線を向けるテンプスに、傍らから声をかけたのはマギアだ。


「ん?」


「そろそろ移動したいんですが……」


「あ、うん、どこ行くの?」


 彼にしては珍しく興奮気味に自らをせかす姿に抱きしめてやりたい衝動を隠しながら、マギアは目的地を口にする。


「ここで一番大きな交易所――城です。」

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