加速世界の追跡

「――ねー、お母さん、おやつ。」


「えー?いま?我慢しなさい。」


「や!今!」


 そういってぐずる子どもにサディは困ったような顔をした。


 普段はよく言うことを聞くこの子がぐずるのには相応の理由がある――ここ二日、まともに外に出せていないからだ。


 この前に起きた爆発事件から二日、警邏は犯人を捕まえたという声明を出していない。


 ゆえに、夫から家から出ない方がいいと言い含められて二日間、家にいたわけだが――さすがに食料が尽きた。


 夫が買ってくる店屋物はあれで結構高い、決して裕福とは言えない我が家にとって財政難は命の危機に匹敵する問題だった。


 ゆえに、子供と二人、買い出しに出てきたわけだ。


 子供からすれば、確かにわがままの一つも言いたくなるだろう。彼らにとって家は狭すぎる世界だ。


『……まあ、大丈夫か……』


 二日ぶりの市街は依然と変わりないように思えたし、実際、ほとんど何も変わっていなかった。


「……わかったわ、じゃあ、リン――」


 ゆえに、彼女は子供の意見に従い近辺の屋台で甘いものを手に入れよと声をかけて――


「あああああ!」


 ――その二人の間を叫び男が通り抜けた。


 それは親子の認識よりも早く起こり、彼女たちの間をすり抜ける様に走り抜け、走り抜ける瞬間に起こした魔術の衝撃で二人を傷つけるための動きだった。


 放たれたのは大気の刃だ、風の魔術で最も簡単かつ初歩的な魔術は大気の生霊の能力で魔術円抜きで魔術を形どる。


 男からするとひどくのっそりと、しかし、親子からすれば一瞬の間に形成されて彼女たちの首を狙う。


 見ることのできない大気の刃を使ったのは彼の悪辣さの発露だったのか、あるいはとっさの判断だったのかはわからない。


 一秒を百倍以上加速させた男の行いは親子の目には映らず、誰の目にも映らない――後を追っている青い鎧の男を除いて。


 真後ろを追いかける彼の目には男の体から魔力が抜けだし、大気の生霊の能力だろう大気の刃を形成しようとうごめいているのが見えた。


 あの軌道ならあの二人の首を確実に切断し、首から上を血の噴水に変えるだろう――自分が何もしなければ。


 脚に力を込めて一足で親子の間に滑り込んだ彼は魔術の構造上、無くなってはならぬ場所を指ではじく。


 オーラで包まれた鎧の指は狙いを過たずに魔力と反発し、魔術を打ち砕いて見せた。


 同じように子供を救うために一瞬だけかがんで魔術を打ち砕いた時、男はすでに十二歩分は先にいる――さっきからこんなことばかりしているなと、内心でため息をつきながら、彼は再び走り出した。


「――ゴでいい?」


「いいよ!」


 そういって、笑顔を向ける娘にサディも笑いかける――彼女たちの身に起きたことを知るものは何もなかった。







「――あぁっぁぁっぁぁぁぁぁぁぁ!」


 口からほとばしる絶叫が自分の声だと、襲撃者――ボルド・テポラ、前世での名を三渓祐介は思えなかった。


 自分でも発したことのない声だ、前世で旧帝大に落ちた時だってこんな大声で叫んではいない。


 乱立する人垣を潜り抜けて走り続ける――逃げるしかないのだ、相手がこんな化け物だと思っていなかった。


 証拠品保管室の襲撃が失敗したと理解した瞬間、ボルドは自分によるされた唯一の武装である、服の中に仕込まれていた爆弾を起動させた。


 玉櫛笥の魔術は『使用者の身に着けている物ごと時間を所定の倍率で早く進ませる』魔術だった。


 その能力は強力無比で――同時に、欠陥だらけの魔術だった。


 この魔術でなのだ。


 彼が術の起動時に所持していない物体はごく低速にしか前に進まない――彼らにとって、襲撃者の百秒は一秒なのだ。


 射出する魔術は遅すぎてあたらない、射出する魔術の進む速度もまた、百分の一でしかないからだ。


 そして、それは物にも適応される――物の進みも遅いのだ。


 これもまた、術の限界だった。


 そして、彼はこの一件に武器を持ち込んでいない、必要がないからだ。


 肉体が強くなるわけではないこの魔術において所持品の重量は非常に重要だ――軽い方が早くなれる。


 だから、彼が持ち込んでいたのは、服と爆弾だけだ。


 その唯一の武器をボルドはためらわずに切った。


 でなければ逃げられないと思っていたからに他ならない。


 そうして投げられた爆弾はテンプスの方に勢いよく飛び、彼の背後にいた騎士を巻き込むように爆発した。


 そこで、予想外だったのは爆風は魔術の範囲外だったことだ。


 爆弾本体は高速で飛んだが爆風は早くならなかった。


 それでも、普通に考えれば十分だったはずだ、廊下には二十はくだらない騎士がいたのだ、そのことごとくを救う方法などないはずだった――相手がテンプスでなければそうだったのだ。


 ボルドが背を向けて逃げるのと、テンプスが真後ろに向かって走り出したのは同時だった。


 そして、ボルドが這う這うの体で詰め所飛び出し、背後を見た時、窓から顔をのぞかせて自分がめくり上げた路地裏を見ていたはずの騎士たちは


 誰もだ、誰もいなかった――それを見た時、彼は脇目も振らず走り出した。


 明らかにあいつの速度は自分並だ、あの呪具なしでそんな動きができるなんて想像もしていなかった。


 脇目も振らずに走り抜けて――自分の背後に迫った青い風に慄いた。


 追ってきている!自分を!


 気に入らなかった、腹が立った、これほど時間をかけた計画が無残に灰とかしたことがいけ好かなくて仕方がなかった。


 そして、何よりも恐ろしかった。


 逃げるためにできることはすべてやっている、すべてだ。


 道行く老人を暴風で吹き飛ばそうとし、親子に大気の刃で攻撃し、魔術を出鱈目に発動させた。


 そして、そのすべてが防がれた。


 老人を風よりも早く軌道から抱えて移動させ、大気の刃を指で砕き、魔術のことごとくを発動前に打ち消した。


 もう打つ手がない。逃げるしかない。


 大通りを恐ろしい速度で駆け抜ける。


 幸いにもあの青い鎧をまとったテンプスも自分の最高速度には追いつけないらしい。


 当然だ、人の百倍速く時間が流れている自分に追いつけるわけがない。


 だが、蒼の鎧が自分と同速に近くなれるのは間違いない。急がなければ――


『大広場だ、この時間なら、この時間なら人が大勢いる!』


 その中に潜り込めばいい、あの男は子供を守っていた、あの人ごみの中で魔術を出鱈目に発動させればいい。そうなればさすがのあの男も自分を追うどころではあるまい。


 彼の中で考えられる最良の逃走経路がこれだった。


 目算であと十歩分、あの男は先ほど放った魔術の始末でまだ三十歩は離れている。


 これなら逃げ切れる――いつだってそうだ、自分は勝てる。


 旧帝大など名が知れているだけだ、自分がいる場所が最良の場所で、だからこそ自分はいつだって勝者に――


「――はっ?」


 駆け込んだ大広間の入口で男は茫然とつぶやいた。


 


 ただの一人も、人がいないのだ。


「なんで……」


「――ゴールへようこそ。」


 後ろから声がかかった。


 飛びのくように体を後ろに向ける――三十歩以上離れていたはずのテンプスがすでに真後ろに立っていた。


「な、なんで、なんなんだこれ!」


「あんなところで戦えんだろ?だから、マギアに頼んで人を払っておいてもらった。」


 そのために、テンプスは彼が証拠品保管室につくまで何もしなかったのだ――マギアと連絡を取るために。


 彼がプランBを伝えた時、マギアはひどくあっさりと了承の返事を返し、この場所を本当にからにして見せた。


 まだ連絡してから一分立っていないはずだが……


『どんな手品だか……』


 捕まるような代物でないといいのだが、と仮面の後ろで渋面を作るテンプスを知ってか知らずか、ボルドはひどくうろたえて後退りした。


「――さて、人もいないことだし、そろそろけりをつけようか。」


 そういって腕を広げるテンプスはまるで魔王のように見えた。

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