空の上の悩み

「はい、お茶だ、よ。」


「あ、ああ、どうも……」


 困惑の至りでアネモスは差し出されたカップを受け取った――もう一時間近くこうして困惑している気がした。


 彼女が座っている異様にやわらかい椅子のようなものに沈み込みながら当たりを見渡す。


 そこはテンプスが用意していた巨大な箱の内部だった。


 高さにして三メートル超、長さにして八メートル、幅が三メートルにもなるこの巨大な『部屋』は実際、かなり快適だった。


 長年証明不能とされてきた鋼属性の魔術によって作られた不可解な金属は鉄のような硬さを持ちながら内側から外が見えるほど透明だ。


 自分の目の前にはきちんとした机があり、自分の腰かけている椅子のような何かはまるで水を固めたように形を変えて自分を支えている。


 机の上に置かれた謎の照明――魔力を感じないのに炎もなく輝いている――はどういう原理なのかさっぱりわからない。


 調度品はない、が、それでも設備はそれなりにあるらしい。少なくとも先ほどお茶は出てきた。


 そのどれもが魔力を感じない。


 テンプス曰く、「けん引してるルフから流れる電磁気」によって動くらしいその装置群がどんなことができるのかさっぱりわからない。


 あの巨大な鳥――これがルフというらしい――によって牽引されながら進むこの箱の速度もかなり早い。


 透き通っている箱の外部を見れば景色が恐ろしい速度で流れていく――少なくとも、自分はこんな速度で空を飛ぶ存在を知らない。


 せわしなくせかせかと動き回る女性、最近大図書院に入った二人目の司書にしてマギアの母であるタリスとテッラがかいがいしく自分たちの世話を焼いている。


 ノワは驚いたことにネブラと何やら話している、動物がどうこうという声が聞こえるが、盗み聞きの特技はないので何をしゃべっているのかはわからない。


 サンケイは少し離れた位置で壁の向こうの景色を眺めながらなにかを考えている。


 自分の姉は――最初目を白黒させていたが、物の五分で順応して今は対面でイスの柔らかさに身をゆだねて寝ている。昨日は楽しみで寝れなかったらしい。


 何やら落ち着かない様子できょろきょろとしているセレエの気持ちはよく理解できた――何が起きているのかわからないので身の置き場がないのだ。


 総じて、とてもではないが移動中の光景とは思えなかった。


 テンプス曰く『粗末な部屋』らしいが、とてもではないがこれが粗末とは思えない。


 少なくとも、移動中にこんなに快適な人間はたぶんこの世にはここにいる人間しかいないだろう。少なくともそれなり以上の企業の娘として生を受けた自分にはこんな経験はない。


『なんか、私とんでもないことになってるんじゃないかしら?』


 困惑の冷めきらぬ頭が、それでもそれだけは考えられた。







「にしても、ルフって大きくなるんですねぇ。」


 オーラアライザー用のスフィアを作成しているテンプスを後ろっから眺めていたマギアがふと、そんなことを言った。


「普段は都市生活用に体積を押さえてるからなぁ……これが本来の姿っていえばいえるのかね。」


「ほう、それはまた……まあ、この大きさで生活させるのはことですしね。どうやって大きくなるんです?」


「エクトプラズムの量を増やして新しく体を作ってる、小さくなる時は逆だ。」


 いつもの研究個室の焼き直しのような会話。だが二人にはこれが本題を避けているだけだと理解できていた。


 またしても沈黙。いつものように会話が続かない。


 もう、二時間近く、彼らはこうして、無為な時間を過ごしている。何をするでもなく、決心ができないまま。


「……実際、どうなんです?」


 それでも、と口火を切ったのはマギアだった。


「何が?」


「里帰り、気まずいんですか?」


「……」


 彼女もテンプスも避けていた質問だった。


 それを聞けば、彼の過去の蓋が開くのは目に見えていた。そして、彼の生い立ちや断片的に聞こえる過去から考えてそれは愉快なものではあるまい。


 だから、話さないようにしていた。可能な限り。


 それでも、彼にその質問を投げているのはそれが必要だと判断したからに他ならない。


 彼は今、明らかに悩んでいるし、それがこの空のかなたに待つ彼の故郷への帰還が原因であることは間違いがない。


 何かがあるのなら対処するべきだ――彼ができないのなら自分マギアがやろう。


「気まずいって、わけでもない。別に喧嘩別れしてきたわけでもないしな。」


 一瞬の逡巡ののちテンプスはそういった。


「じゃあ、なんなんです?」


「……面倒なことにならなきゃいいと思ってるが……たぶんそうもいかなそうだなぁ。っていうのが一つ。」


 彼の中で渦を巻く予測は彼が何かしらの事件に巻き込まれる可能性を示唆している。


 今までのパターンから言ってもそうだし、何より、今回は弟と一緒に里帰りだ、確実に何か起こるだろう。


「いつものパターンですか。」


「いつものパターンだ。いつも通り、なんか起こる予感がする。」


「ふむ……長期休暇中でもそれですか。休みとかないんですかねぇ。」


「問題に手足が付いて南国でバカンスか?望み薄だな。」


「……確かに、それなら私たちが行きますね。」


「だろう?」


「まあ、あなたと私がいて、対処不能になることもないと思いますけどね。ノワとお母さんもいますし。」


「一般的な奴ならな。」


 よそから襲い掛かられるのならまだいいが……家庭内の問題だと面倒だ、対処できないかもしれない。


 それでも、まあ、死にはしない。想定される《最悪の問題》は自分を殺さない。


《あれ》が自分を殺すのは11だ。それまでは自分を殺すことはない。最も、長期休暇はつぶれるだろうが。


「結構、で、ほかには何が?」


「……がっかりは、されたくないなと思って。」


「はぁ?」


 呆れたような言葉がマギアの口から漏れた。


「何にがっかりするっていうんですか?」


「……僕の、過去とか。」


 そういった彼の顔をマギアは見ていなかったが――たぶん、ひどく陰気な表情をしてることはわかった。


「なんです、動物虐待でもしてましたか。」


「それはないな。」


「じゃあ、女性の下着でも盗みましたか?」


「近づけもせんよ。」


「じゃあ、実は人をいじめてたとか。」


「できるわけがない。」


 苦笑交じりに否定する――そういうことをした記憶はない、助けた記憶はそれなりにあったが。


「では――実は洗濯が面倒で放ってある服がベットの下に眠っているとか。」


「……ん?」


 なぜだろう、突然毛色が変わったような気がした。


「子供のころ書いたと思しき勇者の技ノートが地下室に眠っているとか。」


「……ちょっと?」


「体臭ごまかすのに謎の薬を作ってるとか。そこまで臭くないから気にしないでいいと思いますけどね。」


「……マギアさん?」


「ベットのシーツしばらく洗ってないとか。脱臭剤とかいうので濡らしてますけど気持ち悪くないんですか?」


「……ねぇ!?」


「まあ、私は結構好きですけどねあの匂い。」


「マギアさん、もう、もうよくないかな?」


 つらつらと上がるのは彼の現在の汚点への言及だった。


 実のところ――聡明な読者諸兄はお気づきかもしれないが――彼は基本的に自分の身の回りに関する意識が非常に薄い。


 それが、幼少期に過ごした処刑道具だらけの小屋のせいだったのか、あるいは11か月後に近づく死によるものかはわからない。


 ただ一つ確かなのは、彼は自分という人間に関することに関してひどく無頓着になるということだ。


 自分の生活環境を整えることは基本しないし、それほどいい食事にも頓着しない。自分の清潔さなどにも意識が向かない。


 最低限人前に出るとき、学園に行くための装具一般の洗濯や風呂には入るが、自室となると本当に頓着しない。


 彼女に指摘されたのはその一角だった。


「……なんで知ってんのさ。」


「これだけ一緒に暮らしててわからないわけないでしょう?あなたの部屋に毎朝入ってるんですよ?」


「……そうでした。」


 顔を背ける――どうしても集団生活に慣れていない部分がある、基本、彼はひとりで生きてきたのだ。


「――そして、あなたがそんな人間だって、私もお母さんたちだって知ってます。」


 そんな彼を見ながら、マギアは言葉をつづけた。


「そんな私達が、何であなたに失望すると?」


「……僕が、君らの前で意識的に振る舞いを会えてるのは知ってるだろ。」


「ええ、縞模様さんから聞いてますよ。」


「……あそこには、なる前の僕を知ってる人が多いから。」


 それを知られるのが怖いと、彼はそういっているらしい。


「それは、ベットのシーツ洗わないのよりもまずいことですか?」


「……ものによるな。」


「ふむ……かえって興味がわいてきましたね。」


「おい。」


「冗談――でもないですが冗談です。」


 くすくすと笑いながら、彼女は不安を打ち払うように言った。


「――あなたがどう思ってるかは知りませんが、私たちだってそれなりにあなたについて知ってますよ、高々あなたが見た通りでない程度の事でどうこうなったりはしませんよ。」


 そういって、彼女は珍しく年相応の少年のように小さくなったテンプスの頭を撫でていた。

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