問題は結局――

 その日は昼から雲行きが怪しかった。


 天候の話ではない、身の回りの話だ。


 いつもの自分の仕事場を見渡してトリス・マリーゴールドはため息を吐いた。


 商工ギルドのすべての工事記録を保存したこの史料編纂室は彼女の城だ。


 国の法律で五年以上施工記録を保存する義務がある関係上、この部屋はどうしても必要な場所だった。


 この町のすべての工事を取り仕切る商工ギルドは、この町で行われた民間、公共問わずすべての記録を持っているといってもいい。


 埃っぽく、湿っていて、陰気なこの場所は古い髪のにおいが充満し、自分の身長よりも高く屹立する本棚がまるで森の木々のように乱立している。


 床にはそれでも入りきらぬ資料が散逸し、彼女の手で、仕分けされるのを待っていた。


 ギルド地下に設置されたこの陰気な場所で、彼女は一人で黙々と資料をまとめている。


 半年前に配属されてから、気づけばこの場所の管理は彼女一人に任されていた。大体の人間はここの勤務を嫌がるが彼女はそうではなかった。


 確かに小説のように面白いものではない、ないが……それでも、ここにある記録は基本的にこのギルドが歩んできた歴史だ、彼女はこの場所が好きだったし、この場所で管理されている記録も愛していた。


 決して優良な成績とは言えなかった学園――アプリペンド特別養成校のような名門ではない――で学んだひ弱な魔術はここで働く分には非常に役に立った。


 唯一優良だった防衛術の授業には感謝している、お揚げで、資料は虫食いもなく地面においても痛む気配もない。


 そんな領域で、彼女は今日もいそいそと資料をまとめて、本に変えて、本棚に収納する作業を行っていた。


 午前は、いつも通りだったのだ。


 いつものように紙の資料を並べ、順番の違う図面を正しい順番に直し、修正前と修正後で分ける。


 重い書類を持って工事内容で分類された棚にしまい込み、次の資料に。


 いつも通りの作業、図面の数値が明らかに違う箇所を見つけてほくそえんだり、紛失した図面の一枚を探して走り回ったり――いつも通りだった。


 おかしいなと思ったのは昼食から帰ってきた時だ。


 刺す眼いこの湿気に満ちた部屋で食事はとれないし、この部屋は飲食禁止だ。


 だというのに、何やら香ばしい香りがした。


 自分が食べた食事よりも明らかにおいしそうなかおり、かすかな嫉妬と猛烈な怒りがわいた。


 ――ここが飲食禁止だってわかってるはずなのに!――


 胸に宿った猛烈な怒りが彼女を突き動かした。


 きっとこの部屋を馬鹿にしている職人当たりの馬鹿が潜り込んだのだ、資料見たさか、あるいは冷やかしのいたずらか、判別は効かないがそうに違いなかった。


 もし資料を汚損でもしていたらどうしてやろう!


 肩を怒らせて彼女はにおいのもとにたどり着き――


「――失礼してますよ、家主さん、ちょっと資料を見せてもらいたいだけなんです。」


 その一言に足が止まった。


 そこにいたのは絶世の美女三人とパッとしない容姿の男だ。


 見るからに自分よりも若い彼らはまるで何かの絵画か何かのように整然と食事をしながら、彼女が作った資料を読んでいた。


 その光景に、何かを言おうとして――体が動かなかった。


 強いしびれ。麻痺の魔術。


 稲妻の魔術にそういったものがあると聞いたことはあるが痛みもなく体を動かなくされるとは思っていなかった。


 まずい。と思った。


 ここは地下だ、入り口を超えて職員用の入口からしか入ってこれないはずだった。だから、外部から入り込まれると思っていなかった。


 うかつだった。人を呼ぶべきだった。


 動かぬ体から汗が噴き出す――恐怖だった。


 このまま自分はこの連中に襲われてここで死ぬ――


「きみ、サクッとやるね。」


「この方が面倒がないでしょう?それに、下手に騒がれて私たちのことがばれてこの人の責任問題とかなったらかわいそうじゃないですか。」


「ん、まあ……それはそうかな。」


「ごめんなさい。調べ物が終わったらすぐ出ていくから許して」


「ん、ご飯、食べる?私が作ったやつ、だけど。」


 そういいながら、少し身長の高い美女に差し出されたのは彼女が食べていたサンドイッチだった――やはり、自分が食べているものよりいいもののような気がした。


 目を白黒させる――なんだか、襲われる雰囲気ではないなと思っていた。


「ごめんなさい、ね?でも私たちもどうしてもやらなきゃいけないことがあって――」






「――そのような事情なら協力させていただきましょう!」


 そんな言葉がトリスの口からあふれたのは彼女を拘束して数分後の事だった。


 その目には闘志と声をかけてきた女性――タリスへの同情と共感が浮かんでいた。


「……すごいな、君のお母さん。」


「1200年前の最先端の魔女たちの最高傑作ですから、封印から漏れる魔性と鍛えられた話術で事務員一人誑し込むことなど造作もありませんよ。」


 けけけ、と悪魔のように笑う後輩を咎めるべきかいさめるべきかわからなかったが――どっちにしても結果は同じだったので頭に手刀を落とした。





「――床下の暖房装置の工事……となるとこの辺になるはずですが、床の下の配管をした工事というのは聞いていませんね。」


 資料を提示しながら地下倉庫の主である女性は秘匿されるべき情報をつまびらかにしていく。


「ふむ……」


 思案気に、テンプスは顎に手を当てる――ありえないことだ。


 あの部屋に魔術を防ぐための何かしらの措置があったのは間違いない。


「民間の工事に限らず、そういった工事はないと?」


「床下というのが……かなり難しい工事になりますし、相当期間、その施設が使えなくなりますので。基本的に行政や施主が許可を出さないことが多いんです。」


 この部屋の主――トリス・マリーゴールドというらしい――がそう告げる。


 この部屋の主だけあり記録を見ることなくさらりと工事内容を言い当てる彼女の知識は相応に確かだとこの短い時間でテンプスは理解していた。


 だとすると何かがおかしい、あの部屋に液体が流れた形跡はない、水がなければ魔術は遮断できない。


「床下に水が流れてないのか?別の手段で防がれたとか。」


「ん、それはない、魔術の防壁なら防がれた感覚があるはず。そんな感じじゃなかった。」


「ふむ……?」


 思案する。


 何か――何かあるはずだ、誰にも気づかれずに魔術を阻む方法が。ノワが間違えたとは思えない。


 だとすると、水はあるのだ。だが、それを足元に張り巡らせる方法がわからない。


「ふむ……じゃあ堀のある家はありませんか?」


「堀……家丸ごと水で覆ってるってことか。」


「ええ、基本的に古い時代の堀はそういう用途だったんですよ。古い魔術師は大体知ってます。」


 だとすれば、相手が拠点選びの際にそういったことを考慮している可能性はある。


 一縷の望みをかけて問いかけた言葉は――


「堀ですか……ありません。」


 ――にべもなく否定された。


「一つも?」


「ええ、今のお話だと家をぐるりと水で囲む必要があるのでしょう?この町の堀のようなものは大体がインテリアです。ですから、入り口に続く道で水が途切れていますから――」


「水で囲われているわけではない。」


「はい。」


 これも違うらしい。


 再び思案気な表情になったマギアを見つめながら、テンプスは考える――ここに資料がないとして。


「――ここ以外に資料のある場所はないんでしたっけ。」


「ええ、商工ギルドの資料はすべてここに。」


「ふーむ……?」


 顎に手を当てて考える――これ以外ならなんだ?


 魔術的な超空間、もうこの町にいない、あるいは――


『違うな、たぶんそれじゃない……』


 何かがしっくりこない。パターンに合わない。


 大きなものが動いているはずなのに、なぜか尻尾がつかめない――そんな感覚。


 何かがずれている、用務員の時も味わった感覚、何が違うというのだ?


 重い沈黙のとばりを切り裂くように部屋の主が声を上げた。


「可能性があるとすれば――」


「あるんですか?」


「はい、貴族の所有地や個人、もしくは何かしらの法人、団体の土地の場合、工事内容は施主もしくは法人、団体の方に記録が渡されるため、こちらには記録が残らないんです。自分の家の図面が残るのを嫌う人もいますから。」


「ふむ……それはありそうですね、泥棒がここに入る可能性もあるわけですし。」


「目的は違うけど僕らも忍び込んでるしな。」


 むろん強盗するつもりはない、しかし、隠したがる人間の気持ちは分かった。


「法人……団体。」


 つまり、会社や財団のような何かの集まり、もしくは――


『……学園?』


 それは脳裏に輝く閃きの導の先に見出した単語だ。


 それにたどり着いた時、彼の脳裏の疑問がいくつか同時に連鎖的に消えた。


 テンプスは顔をゆっくりとしかめた――もしそうなら、相当肝の座ったやつだ。


『……調べてみるか……』


 結局、この問題の焦点は同じ場所にたどり着くのかもしれない。


 新たな方針を得たテンプスは手に持った昼食の最後の一口を飲み込んだ。

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