顔のない影との午後

 ――そろそろ腕が疲れてきたな――


 吊り上げられた腕を意識すると感じるしびれに辟易しながら、ステラはひどく煩わし気に顔をしかめた。


 つられている腕同士をこすり合わせて拘束を断ち切る試みは失敗に終わったらしい。


 普段自分が寝泊まりしている部屋よりも広い部屋で、彼女は一人縛り上げられている。


 今の自分の姿はかなり人から見ると異様だろうと彼女は苦笑した。


 何せ部屋のありとあらゆる場所から張り巡らされた紫の糸が彼女体を縛り上げ、なぜかはわからないが彼女の薬指と中指を後ろ手に縛りあげて体を吊り上げているのだから。


 どういう原理なのかはわからないが、腕に血こそ回っているがこの姿勢はひどくつらい。


 おまけに殺風景で生活感のない部屋は夏の日差しのせいか妙に蒸し暑く、肌に服が張り付いて気分が悪い。


「シミになるからやめてほしいんだよねー……」


 制服はこれともう一着しか持っていないのだ、買い替える金もない、汚れた姿で後輩の前に出る羽目になるのだけは勘弁してほしい。ただでさえ威厳がないのにこれ以上はまずい。


「ま、ここから出れるのかもわかんないんだけどさ……」


 言いながら、彼女は唯一うごく首だけを動かしあたりを見渡した。


 あるのは部屋に差し込む光と――自分が昨日『誘拐犯』からの提供を拒否した食事だけだ。


 夏にほど近い気温のせいかハエがたかっているその食事の異臭と自分の身動きの利かない体のせいで吐き気がして止まらなかった。


 こうなってかれこれもう一週間はたっている、それでも見つけられていない以上、よほど、ここに縛り付けた相手は周到らしい。


『にしても……いったい誰が?また財団?』


 ステラは相手の顔を見ていなかった。


 ある友人と久しぶりの会話を楽しんだ後、別れてすぐに意識が消えて――気が付いたらここにいた。


 相手が何を企んでいるにせよ、それが素晴らしい結果を生むことはないだろう、だとすれば何とか自力で逃げ出したいが――この体を縛り上げている細い細い糸は、一体どうしたことかまったく切れる様子もなく自分の体を吊り上げている。


『明らかに魔術でできてるよねぇ……土当たりの魔術かな?それともまったく別の技術?スカラーってことはないよねぇ。』


 まじまじと自分を縛る糸を見つめる、紫に染色され、目に映るか映らないかの境界にあるその糸は、まるで蜘蛛の糸のように見える。


 細く強靭で――それでいて、触れていることを感じさせないほど軽い。


 物は試しと腕を引いて糸を引きちぎろうと試してみるが――やはり、意味はなさそうだった。微動だにしない糸が腕に食い込み、肉と神経を圧迫し痛みを感じさせる。


 ではこれなら、と、魔術を行使しようと魔力を練り上げ、喉から声を絞り出した。


第一の滅びの庭からFrom the First Garden of Destruction第二の熱砂の園へTo the second desert garden燃えろ!burn!焦熱scorching heat。」


 思念を向けた対象に熱を発し、炎を生じさせる魔術を行使する。


 この程度の糸ならば、即座に焼き切れるはずの熱量を生み出す魔術が発動し、彼女の肉体を開放する――はずだった。


『……やっぱり、無理か。』


 やはり意味がない。魔力が魔術の形を成さない。


 初日に目覚めた時に試した時と同じだ、魔術が封じられている。


 いったいどんな原理かはわからないがこれだけは確かだった。


 彼女が知る限り、魔術を封じる技術というのは存在する。当然だろう、でなければ魔術師の逮捕など危険で行えない。


 だが、それはひどく面倒な手順が必要なはずだった。


 どこそこの危険地帯にしかないとされる特別な鉱物を使い、そのうえで国の秘匿技術である魔術を封じる魔術を行使する必要がある――と、彼女は学園に入ってから聞き知っていた。


『……これはその鉱物じゃない。鉱物が練りこまれてる感じもしない、ただの糸だ――じゃあなぜ魔術が使えない?この異様な強度は何?』


 わからない、わからないが――できることはない。


 彼女の手札はすべて封じられてしまった。


『……いや、一つあるか。』


 彼女の脳裏に映るのは生まれた時から彼女の中に潜む何かの姿だ。


 まるで鳥のような姿をした金色の何か、鋭いくちばしと力にみなぎる金の目、燃えるような赤い羽根。


 それが何かは彼女自身もわかっていない、ただ強大な力を持ち、自分の意思に応じてこの世に力をもたらすことだけはわかっていた。


 これを使えば、確実にこの校則など一瞬で解き放たれることができる、確信があった。


 ただ――――あれは禁じ手だ。


 最初に使ったときはそのせいで大惨事になった。


 次に使ったときは二度と使うわけにはいかないと心に誓った。


 最後の……去年の一回は、優しい後輩を殺しかけた。


 あれは本当にダメだ、今思い出しても足が震える。今まで生きてきた中で一番やらかした自覚がある。彼だったから生き残ったがほかの人間だったとしたら間違いなく消し炭だった。


 もし、自分の後輩のまrでそれを行ったら?


 同じ事をもう一度するのか?


 そう考えると、彼女はそれを解き放つことができない。


 そうでなくとも、この周辺にる一般の人間の事を考えればとてもではないが使えない。


 周辺にもたらされる被害を考えれば、とてもではないが決断できない。


「……はー、助けてもらえるように待つしかないかぁ……」


 結局、彼女はこの選択肢を選んだ。


 ここ数日、同じことを考えてはやめてを繰り返している。


 後輩たちは優秀だし、友人たちに関しては


「はー……みんな心配してるかなぁ……悪いことしてるよねぇ。」


 ――ほんとに?――


 背筋に冷水を流し込まれたような悪寒を感じた。


 それは彼女が最も恐れる一言だった。


 ――あの人の夢も守れなかったお前に、あの子たちは価値を感じる?――


 誰のものかわからぬ声が脳裏で囁く。


 いつから彼女の中にいるのかわからないその声は、いつも自分の部屋で一人眠る夜と同じように表れた。


 顔のない無形の影は、いつものように彼女を攻め立てる、先輩に会ったときに消えたはずの影がもう一度彼女の視界を奪い去っていく。


 ――生まれてきたことすら間違ってるはずのお前が救われるわけがないのに、何を期待してるの?――


 顔のないはずの影が、嗤いながら彼女の思考を埋めて彼女を苛む。


 そのにやついた顔が、否が応でも彼女の精神を削り体から力を奪っていく。


 それは彼女の中でうごめく彼女自身への不安だった。


 彼女の中でうごめく過去への不満と彼女自身への不信感が鎌首をもたげて、噛みついてきていた。


 脳裏に浮かぶそれが友人や後輩の姿を取り始めた――いつものことだ、一人でいるとすぐこうなる。


 ――あなたに何ができるの?――


 ――あの人は救えなかったのに?――


 ――彼の事だって殺しかけてるでしょう?――


 ――役に立たないのに?――


 ――このまま、誰にも助けられずに朽ちればいいのに……――


 口々に放たれるそれは、自分が自分に思っていることだった、そう聞いている……そのはずだ。


 友人たちは、後輩は、優しい人たちだから、きっとそんなこと思っていないはずだ。そのはず――


 ――ほんとに?――


 そういった影は、ソムニの姿をしていた。


 膝から力が抜けた。糸が突っ張り、体を持ち上げる。


 肉に食い込んだ糸が痛みで意識を現実に戻す。


「……平気、私は平気……」


 外から見ればどう考えてもそうは見えない様子で、ステラはぶつぶつとつぶやいていた。


 その様子を、かすかに残った埃と日差しと――魔術だけが見ていた。







「……なんか、闘技場にいた時の君みたいな状態になってるな、あの人。」


「む……あそこまでネガティブにはなってませんでしたよ。」


「嘘つけ、アラネアが心配して離れられなくなるぐらいへこんでたろうが。」


「……いや、まあ、そこまで厚顔無恥でもありませんから、そりゃ、ね。」


「まあ、わかるけどな……早く助けんと心が持たんな。」


「……のようですね、急ぎましょう。」


 遠く離れた地下室で、二人の男女の声がした。

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