六菖十菊/すでに過ぎ去った悲劇

事件の後で

 夜と朝の間のごく短い時間、夜が切り払われるこのタイミングで、テンプスは自主トレーニングの最後のランニングを終わらせにかかった。


 十日近くベットに縛り付けられていたというのに彼の肉体は彼の思うまま――いや、それ以上に滑らかに動いている。


 身体能力の向上、そして、強化。


 彼の中に宿る想念の戦士の力が正しい精神の形に導かれてテンプスの体を守り、強くしていた。


 つい先日まで感じていた頭痛は完全に消えている。体調は絶好調だった。


 今なら、あの地下下水を同じように走り抜けるとしてもより早く、そして、よりしなやかに駆け抜けることができるだろう。


 軽快に歩を進めながらテンプスは後ろを振り返った。


 普段ならやらないこんな動きをしたのには理由がある。


 それは――


「……大丈夫か?」


「ん、私は、まだ、行ける……」


「……」


『アラネア様曰くダメだそうです。』


 そこにいたのは健康的に息を切らせている一人の美しい少女とと一体の、そしてそのうえで死体のように力なく倒れ伏した後輩の姿だった。


「無理についてこなくていいのに……」


 苦笑交じりに告げるテンプスに賛同するように息を切らせた少女――ノワが口を開く。


「ん、姉は体力ない。」


「……ぅぅさぃですよ……だぃたぃ……」


 猫の上で、死体と液体の間を行き来している後輩――マギアが口を開く、彼女の上では彼女の使い魔と化したアラネアが彼に搭載された機能で彼女の疲労を打ち消そうと格闘していた。


「……なんて?」


 まるで隙間風のように意味のある言葉と雑音の間を行き来している声を耳で拾えずにテンプスは聞き返した。


 その一言に、少女の下で振動を聞き取った猫――キャスが言葉を代弁する。彼の上で体力を回復させようとするアラネアも必死だ。


『うるさいですよ、大体、魔術師に体力なんていりません。妹がおかしいんです。だそうです。』


「む、おかしくない、魔術師だって戦い続けるのには体力が必要。」


「……!」


『つかれないように戦う方法なんていくらでもあるでしょう、召還生物をさし向けてもいいですし、防衛術の裏で休むことだってできます。』


「でもそれだといろいろ不備が出る、直接戦える方がいい。」


『術師が前衛を張るなんてありえないでしょう、それこそ、不備です。先輩だっていますし……』


「いないときに戦うこともある。」


 侃々諤々の痴話げんかに発展した姉妹のやり取りを眺めながら、テンプスは苦笑した――今日も、平和かはわからないが一日が始まるなぁと思っていた。





 ザッコ・テンポの逮捕から三日、その悲報はまたしても学園を揺らした。


 まあ、当たり前のことだろう。これで四度、この学園から逮捕者が出たことになる。


 奴隷販売にすら手を染めていたオモルフォス・デュオ。


 他の部員を弾圧し、何人もの女性の人生を狂わせたジャック・ソルダム。


 児童性愛の隠れ蓑に学園を使った男、スワロー・ミストスィザ


 そして、自分の同級生を操って、下級生を殺そうとしたおぞましき殺人鬼、ザッコ・テンポ。


 並べただけで吐き気がするような事件が立て続けに起こったこの学園の評判は悪くなる一方――と思いきや、これがそうでもなかった。


 なぜ?と問われれば、宣伝がうまかった。というほかないだろう。


 学園……ひいてはあの理事長はこれらの案件に対して『問題』ではなく、『実績』として発表したのだ。


 これらの事件は痛ましいことだが、同時に、学園はそれを対処できる能力があることをアピールしたのだ――テンプスの活躍を奪う形で。


 これまで彼が解決した案件を『学園側の指示』で行われた行為であったとそう、発表したのだ。


 それは紛れもない嘘だったが、それを信じるに値することをテンプスは行っている。


 ジャック・ソルダムの公開告白だ。


 国際法院の執行官まで出張ったあの一件は、よそから見れば、学園側が何かしているように見えるに足るだけの衝撃があった。


 高度な魔術制約。彼が扱った不可解な装備、そして、国際法印とのつて。


 それだけのものをただの学生が用意できるはずがない。


 それが世間一般の反応で、それを利用して、理事長は学園が『自浄作用のある組織である』と喧伝したわけだ。


 そのたくらみは功を奏した。


 疑った人間がいなかったわけではないが……それでも大部分はこの学園の力を評価し、名を上げこそしなかったものの評価の下落は下げられた。


「だまされやすい連中ですねぇ……」


 研究個室でその事実を聞いたマギアは一言吐き捨てる。その顔は侮蔑に満ちていた。


「まあ……仕方ないさ、実際、事態は収拾してるわけだし。」


 苦笑交じりにテンプスが返した。


「あなたがでしょう?教員とかいう無能連中の教えを受けて役に立った人間なんていないじゃないですか。」


「ん、兄さんはもっと褒められるべき。」


 総意って不満げに起こる二人を、テンプスは苦笑交じりになだめた――何も手に入らなかったわけではないのだ。


 内心に秘めた言葉から、記憶が呼び起こされた。


 テンプスはこれらの「嘘」を認める代わりに、ある取引を理事長に求めた。


 それは――





「――マギア・カレンダの入学?」


「ええ、あなたのことだ、マギアの事、もう知ってるんだろう?」


「……何のことで――」


「隠すなよ、僕に嘘は効かない。」


「……いいでしょう、認めます、彼女が不正に入学していないことは気が付いていました。」


 不満げに認める理事長を見つめ、復調したテンプスは内心で舌打ちをした。


 それは、初めてマギアと会ったときにテンプスが告げた事実だ。


 マギアは実際のところ、正当な方法で入学していない。


 魔術で書類と経歴をごまかしてこの学園にいる、そして、経歴についてはともかく書類上の不審はテンプスにもわかるほど明確だった。


 マギアの家族について調べたこの女が、その事実に気が付いていないとはとてもではないが思えなかった。


「あなたはセレエとノワを『正式な方法で』入学させた。マギアに関しても、同じ処理をしていたことにできるんじゃないか?」


 そして、それを行うというのならば、自分が行ったことを案たちの隙に宣伝してもいい。


 そう、テンプスは言っているわけだ。


 ある種、脅しともとれるその一言に、理事長は思わし気に顔をゆがめる。


 テンプスが初めて見る表情だった。体調が悪い折にさんざんパラはめられた意趣返しには悪くない一発だったなと思う。


「……もし私が、それを受け入れなかったら?」


 ややあって、理事長は口を開いた。


 試すような一言、しかし、その一言のパターンもテンプスは読んでいる。


「別に構わん、どっちにしたってあんたはマギアを切れないんだから。」


「……」


 眉を顰める――実際、その通りだった。


 マギア・カレンダはとてもではないが在野に転がっているような人間ではない。


 並外れた知性。


 オモルフォス・デュオに匹敵――いや、超えるかもしれない美貌。


 およそ、この世のものと思えないほどの魔術に対する深い理解。


 そして、その理解を十全と扱える魔術の技量。


 彼女は新しい学園の看板になりえる人間だ。


 おまけに、それに互するような妹と毛色が違うが匹敵する母までいる。


 彼女を手放してそれらを同時に失うことはできない。


 ゆえに、理事長にマギアを捨てる選択肢はない。


「僕はただ、あんたに欠点を修正する機会を与えてるだけだ。」


 テンプスは片眉を上げて、どこか面白いものを見るように理事長を見た。


 言外に含まれた彼の言葉の意味を理事長は理解できている。


 欠点――マギアが不正に入学してきたことをよその学園や他の組織が気づいて、何かの情報機関にリークすれば彼女はここにいられなくなる。


 そうなれば、理事長は彼女を追い出すしかなくなる。そうなれば、リークした組織は彼女に接触をとるだろう。


 もし、彼女がそこに所属しようものなら……考えたくもない。


「今なら、あんたの権限でその欠点は埋められる。むしろ、あんたがこの学園に彼女を招いたってことになればあんたの立場はよくなる――かもしれない。」


 そう言って、テンプスは笑う。


 彼にしては珍しく、人をあざけるような笑顔だった。


「……それではあなたの利益になっていないようですが」


「彼女は僕の体質について調べてる、論文になってくれれば、体質が治る目もあるかもしれない。体質が治ってくれるのは僕としてもうれしい」


 その言葉に、理事長は否定できない。


 実際、彼の体質が治れば彼の生活は劇的に変わる、それは十分な利益だろう。


「どうする?あんたには悪くない取引だろう?自分の欠点を埋めて、僕には何も払わなくていいんだから。」


 ニコニコと、少年は笑う。


 どちらを選ぶまでもないだろうと。


 これが正しい道だと――そう告げる。


 その道が、テンプスにとって最も望んだものであるとしても、理事長は抵抗できなかった。

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