保険――オーラアライザー――

『―――――?なんだ……?』


 テンプスはここ半年強彼の友として共に研究を支えてきた机から顔を上げた。


 彼の視界に移るのはいつもの光景だ。


 見慣れた小さな部屋、その外にありえない構造で広がる大図書院の風景、その外からくる衝撃を受け止め守るためにそそり立つ黒法師――無思の法。


 変わった点は何もない。


 ないはず――いや。


 視線が向くのは彼の目の前に鎮座する本だ。


 彼の――あるいはそれ以外の死を見抜くエクスプレーネの力によって導かれた『答え』とそれに続く道筋が描かれたこの本の無限にも思えるページは、そのすべてが彼がくい止めるべき悲劇の可能性だ。


 自らの死と他人の不幸、渦巻く悪意とそれにあらがうための意思の表れ。


 想念の戦士に目覚めてからというもの数倍に膨れ上がったこの情報はこの精神界においては決して致命的な物ではない。


 精神にも、それをさばく知性にも余裕はある――問題は脳だ。


 物理的な要素である細胞の数が、処理能力が、今の状況に対応しきれていない。頭痛も狂った感覚もすべてはこれが原因だ。


 その影響を減らすため、日夜この本と格闘しているのだが――どうにも、状況は芳しくない。


 徐々に圧に押され、脳がきしんでいくのがわかった。圧を緩めようと奔走しているが、どうにもならない――今までは。


 感覚が伝えている、その圧が減っている。


 いや、自分が頑健になっている。


 何かが自分をくるむように包み込み、本の与える苦痛を和らげていた。


 何かの慈悲や庇護だ。


 直感的にそう感じる、それが何かはわからないが彼を何かが守り、救おうとしていた。


 いまだかつて感じたことがない――いや、違う、はるかかなた昔、まだこの『病状』が発生する前に一度だけ感じた。


 あの時は道でこけて、痛みで泣いた自分に母が……


「……かあさん?」


 口にして思う――違う、だが同質のものだ。何か……それに近いもの、慈悲や哀れみや……愛情に近いもの。


 そういった何かが自分の精神に助力し、パターンを穏やかにしている。


『……今ならいける……かな?』


 確信はないが、そんな気がした。


 可能性の本から目をそらし、もう一冊の本を呼び出す。


 それは想念の戦士の力を示す本だった。


 内部がもはや顕微鏡でもなければ見えないほど細かく書き込まれたその本はしかし、ただ一か所、表紙が完成していなかった。


 無地の厚紙とも何かの金属ともつかない表、そこに描かれるべき表紙のパターン、それが、想念の戦士を操るためのパターンだ。


 全体を覆い、力の方向を定め、力の導きを与える。


 これが完成すれば、自分は脳を補強し、この状態から脱することができる。


 精神の中から取り出した筆を手に取り、彼は表紙に筆をつけた。







「――じゃあ、僕の体のことはあいつから?」


「ええ、今の現状と能力のあらましは聞きました。」


 襲撃から一夜明けて、精神界での不可解な経験の影響か、テンプスの目覚めはここ最近で最も素晴らしいものだった。


 ここ最近の習いのように自室で起床を待っていた後輩が、どこか、決意に満ちた声で彼に声をかけてきたのはそのタイミングだった。


 話を聞けば、先日、薄れた意識で聞いた話をきちんとするべきと考えた彼女は自分にあの地下室での一件を語った。


「……すいません、隠してて。」


 そういって、頭を下げる後輩をなだめる。


 彼にはこの少女が黙っていた理由に見当がついた。


 あの縞模様の怪人が口止めしたのだろう。


 あの連中は敵というわけではないが、どこか秘密主義なところがある。


「まあ、最近妙に過保護だなと思ってた理由はわかったから、僕はいいよ。」


 そういって、ほほ笑むと後輩はまたしてもばつが悪そうに。


「……すいません、あなたがこんなことになると思ってなかったので、少し……焦ってしまって。」


 そういって悲しげに目を伏せる。


「でも、もう、大丈夫です。いろいろ吹っ切れましたので。今日からはいつもの私ですよ。」


 そういって、笑うその顔はいつものように神秘的だった。


「と、いうわけで、しばらく外出禁止です。」


「えっ。」


 ――その笑顔から放たれた言葉はテンプスの顔を硬直させるのに十分な威力があったが。


「いや、学校とか……」


「いかなくてよろしい。」


 ぴしゃりと一言。にべも言わせない一言だった。


「いや、単位が……」


「その辺は襲撃を受けてますし、管理体制をダシに教員を脅してどうにかします。」


 空恐ろしい一言は、おそらく、本心であろうと確信できるだけの凄みを持って放たれている。


「えっ、いや、それは……」


「それとも、昨日のようにまた誰かしらを襲撃に巻き込みますか?」


「む……」


 そこは確かに問題だった。


 普段ならばともかく、今の自分に人をかばいながら襲撃を退ける能力はない。


「少なくとも、襲撃が落ち着くまで、先輩にはここにいてもらいますよ。私もここにいますので、逃げられるとは思わないように。」


「むぅ……」


 確かに、問題はある。


 とはいえ、彼女に非合法な手段で自分の進退を決めてもらおうとも思わないし、彼女をここに縛り付けるつもりもない。


「……仕方ないか……」


 ばれる危険性を考慮するとやりたくはないが――『保険』を使うとしよう。


「……わかった、代わりにオーラアライザー……僕の作ったひし形の機械あるだろう、あれとってくれ。」


「……構いませんが、逃げるつもりなら簀巻きにしますよ。」


「しないよ。」


 その言葉に、不承不承と言いたげに彼女は机に置かれた機械装置を手に取って渡す。


「ん、ありがとう――僕が磨いてた石、持ってる?」


「ん……ああ、薬液につけてたやつですか?ありますよ――」


 そういって手渡されるのは一角がひし形に欠けた正方形の水晶塊――あの時、水晶の花を作ったものに酷似した『キューブ』だった。


「何するんです?またあの花でも出すんですか?」


「まさか、ちょっとインチキするだけだよ。」


 苦笑交じりに彼は『小さい自分』の名を呼んだ。


「――アラネア、ごめん、もうしばらく手伝って。」


 そういって、彼はベットの下から飛び出してきた水晶の蜘蛛を撫でる。


「おや、わが使い魔、またお手伝いですか?」


「ん、もうちょっと借してね、この子がいないと始まらないから……」


 言いながら、彼は蜘蛛の体を撫で、彼が足をたたんだのを確認すると、その体をキューブのくぼみにはめ込んだ。


 あつらえたように――いや、実際あつらえたのだが――すっぽりと、水晶の蜘蛛はキューブにはまり込み、元からこの形であったかのようにふるまっていた。


 そのキューブを花を作った時のようにスキャナーに差し込む。


 そのまま、ひし形を回転させ始めた。


 上の三角形を右に二回し、下の三角形を左に一回し、右側の三角形を二回転。


 仕上げにひし形を展開し、まるで蝶のようにその体が開く。


 変化が起きたのはその時だ。


 スキャナから光が漏れ、中心部から何かの粒子が漏れる。


 それが、オーラと自然界に満ちる原質の媒体エーテルの混合によって作られた『エクトプラズム』であることを知っているのはこの時代ではテンプスだけだ。


 どこか紫の色合いに近いその物体が徐々に形を成していく。


 粒子が形を成したと同時に、光が消え、部屋に残ったのは――


「……はい?」


 ――もう一体のテンプスだった。


「――ごめんね、今日からしばらく僕の代わりに学園に行って。」


 その一言に、もう一人のテンプス――アラネアはうなずき、同意して見せた。


 これこそが、オーラアライザーの本来の力。


 使


 それが、オーラアライザーの本来の用途だった。

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