決意と不安
『さらに悪かったのは、彼は魔術に耐性がない。一瞬気を抜き、彼を覆うごく薄いオーラの膜が途切れれば街中ですら死んでしまう』
それは彼が生まれつき背負ったハンデの話だった。
他のスカラーにもない特徴であるそれは彼をより追い詰めていた。
『――彼は今日までに158769421863回の死と相対してる、今日のうちにあと2000回はああして死を追い払うだろう。』
それは、一瞬、何かの冗談だと思うような数だった。
「――あの本が、先輩の死ってことですか?」
『そうだ、あの本のページを見るたび、彼は先ほど貴様が見たもののような『死の情景』を見る。先ほど貴様が見たのはその中で『最も陰惨で最も我々が忌むべき可能性』だ。』
言われて、必死に目をそむけていた先ほどの記憶がよみがえる。
逃げ出したくなるような記憶。膝の上にテンプスがいなければ今頃暴れ散らかしてこの部屋を破壊していたかもしれない。
『スカラ・アル・カリプト』は大につけ小につけ一つ、こういった可能性を持つ。だから、一つの時代に『スカラ・アル・カリプト』は12人しかいない――存在できない。それすら、全員が欠けずに存在したことはまれだ。』
それは、世界の八割を掌握した文明を維持するのにはあまりにも少ない数だ。
ただ、あの光景を見れば納得のいく話だった。
『だからこそ、秘密暴きに必要なのは心の強さだ、頭の良さもいるが――決してそれだけではなれない。』
どこか誇らしく響くその声は、まるでとても身近な親類のように慈愛に満ちている。
『ただ――彼の場合強すぎる。肉体に収まりきらない。』
その声が、突如として悲しみを帯びた。
『彼の精神に反して、彼の肉体は物理の法則にあまりにも縛られている。どれほど鍛えても彼の精神や魂を収めるのに相応の力を得られない。』
質量をもつがゆえに、物理的な法則に縛られる。筋肉は筋繊維の量によって発する力が決まり、脳は細胞の量によって機能に制限がある。
腹も減るし眠りもする。それが、この状況を引き起こしていた。
『脳は精神の依り代、物質界での乗り物だ、脳が精神からの情報を受け止め、物質的な形に出力する。だが、あまりにも処理能力が低い。』
「支え切れてないと?」
『そうだ、精神と、それに帰属する知性が大きすぎる。彼の脳は生まれた時からずっとギリギリの状態だった。それでも、今までは彼自身の精神と知性でどうにか抑え込めていた、ただ……』
「闘技場の件ですか。」
『そうだ――正確に言えば、あの一件で彼が覚醒した能力が問題だった。』
「能力……想念の戦士とかいう?」
『そうだ、スカラーの戦士が扱う技で、その力を扱うための条件を彼はあの戦場で整えてしまった。』
思い返すのはあの闘技場で彼が行った数々の無茶だ。
『お前たちのためにおこなった百に及ぶ連戦が原因か、それともあの土の子供との二戦か……あるいは二度の臨死体験が悪かったか、彼は目覚めてしまった。』
その声には明確な嫌悪と怒りがこもっている――それはそうだろう、自分だって自分が気に入らないのだ、この怪物にとり、自分たちは自分が面倒を見ていたひな鳥を殺しに来た敵対者でしかない。
「力を得て、何がいけないんです?」
『均衡が崩れた。想念の戦士の力で精神が力を得た、重くなってしまった、彼の脳ではもう支えられない。』
それは情報の量が増えたことを示していた。
想念の戦士はスカラの技術でも戦闘に特化し、先読みとオーラによる肉体の強化をつかさどる技術だ。
戦闘時に相手の駆動パターン、視線、フェイントをかけるタイミング、思考すら完全にパターンとして記憶し、模倣し、その対策を即座に打ち出すこの力は、その分、見るべきパターンが多い。
だからこそ、彼の脳はその処理に耐えられない――出力するべき情報が多すぎる、振り分けが間に合わない。
『精神が予知を支配しても、その余波だけで脳が暴走してしまう。脳が予知の断片をつなぎ、必要のない情報を意味あるものにしようとして混乱し、正常な情報を得られなくなっている。痛みもそのせいだ、治癒の魔術も効果がない。当然だ『感じている痛みも恐怖も、彼自身によるものではないのだから』』
「……予知の先輩が受けた傷を先輩が感じてるってことですか?」
『そうだ。彼は現実でそれを回避しているが、複数の予測に侵されている脳は回避できているのかわかっていない。だからこそ、彼の体が傷ついているように感じてしまう。」
脳の正常性が失われているのだ。
自分が何を見て、何を見ず、何をしているのかが判断できなくなっている。
『予知が複数に分岐するのもそれが原因だ――どれが今の自分の予知で、どれが過去の予知か、あるいは未来の予知なのかがわかっていない。まだそこまでひどくはないようだが……それでもこれだ。じきに制御できない情報は脳を破壊しその機能を止めてしまう。』
「なら、何かで補助すれば――」
『本来ならそれでいい、だが知っての通り、彼の体質は『魔性』というものを受け入れない。』
「……!」
つまりそれは、魔術による保護や回復を行うのが困難であるということだ。
『お前は大した魔術師だ、それは認めよう、だがお前がどれほど細心の注意を払って術を使っても、彼の脳に何の影響も出ないと断言できん。』
そして、薄氷を歩くような今の彼の状態を悪化させる可能性は十分にある。
この縞模様の怪人がここに現れた理由はそれだった。
あの『二度と見たくないいつか』の映像を見せてまでマギアを止める理由はこれだ――テンプスは本当にギリギリのところにいるのだ。
『スカラーがいれば、手を借りることもできただろうが……そうもいかない。ここにはいないからな。』
その言葉にかすかな悲しみの色が宿ったようにマギアには見えた。
その悲しみからこの生き物の大まかな来歴が知れるような気がした、たぶんこの生き物は――
『ゆえに、お前の力がいる。』
だしぬけに告げられた一言に、マギアの思考が止まる。
どういうことか聞く必要性はない。
この化け物が最初に話していた通りだ。
自分の――『霊験』が必要だというのだろう。
「……なんで私なんかにそんな重要なことを託すんです?」
『我々とて、貴様のような魔術師ごときに託したくはない。が、それしか選択肢がない。』
忸怩たる思いを抱えて、縞模様の怪人は言った――自分たちの至らなさが心の底から憎かった。
『彼の能力の向上は著しい。我々の初期の想定を超え、《王》のそれとほぼ同一の成長曲線を描いている。それ自体は喜ばしいことだ。』
縞模様の怪人が再び誇らしそうにそう告げる。顔があればその目はらんらんと輝き、口は緩んでいただろう。
『だが、それによって、我々では想定できなかった問題が起きている――脳の保護が間に合わない。王の計画に乗るしかない。そのために、お前の存在が必要だ。』
「……霊験、ですか。」
『そうだ、あの力ならば精神の強さを維持したまま脳を保護できる。』
「……でも、あれは……」
問題がある。
確かに、自分に――超自然的存在であるニンフの力には他者に霊験を与える能力がある。
好意を持った人間に与える……
しかも、この力は魔術でも、魔力を介するわけでもない。ニンフという種族の……生体的な力を使用する。
好意を持った相手と幽鬼界の領域でつながり、そのうえで双方の力を強くする能力。
だがそれにはある欠点がある。
『そうだ、もしお前が『あれ』のように裏切れば――彼は今と同じ状態に逆戻りだ。おそらく、より向上した能力に体が耐え切れずに死亡する。』
やはり知られていた事実に肩がはねた。
そう、この霊験は『ニンフが相手に好意を持っている』間しか効果をなさない。
今、自分は間違いなく……彼のことが好きだ、家族として共に人生を歩くだけの好意がある。
ただ――この場所にあるあまたの未来はそれを否定するものが多くあった。
自分の知らぬ術による支配、魅了、薬品による影響、家族を人質にされての強要――ざっと思いつく範囲でこんなものか。
耐えられる自信はある。
自分とて世界で――いや、多次元の中で名を知られるほどの力を持つ魔術師だ、そういった術、手段がある可能性は十分に考慮し、そのための術の開発も相当に行った。
対策だって常人では理解されないほど多く組んだ。すべては、自身の臆病な性質ゆえに。
ただ――先ほど見せられた『最も陰惨で最も忌むべき可能性』がそれすら足りないのではないかと彼女を苛んだ。
結局、彼女は自分を信用できないままだった。後押してくれる家族も先輩も、ここにはいない。
『我々もそれは望まない。だが、もし彼の状態が最終段階に至ればそれしかない。』
一人で決める必要があった。
「……」
不安はあった。
悩む理由もある。
膝の上の少年を見つめる。
やらない理由はなかった。
「――わかり、ました。詳細を教えてください。」
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