母の歌

 バキン!と硬質の物と硬質のものがぶつかる音が響いた。


「――大丈夫?」


 そんな声が聞こえたのは奇跡的偶然か、そうでなければ精神の必死の抵抗が功を奏したからだったのかもしれない。


 鈴が転がるような声……聞き覚えがある……家で……


 必死に持ち上げた視界が自分の前に立ちふさがる輝く壁と自らの傍らでひざまずいてこちらを心配そうに見つめる美しい目――今日は銀色に見えた。


「た、りすさ……「お母さん」ぁ……お母さ、ん」


 いつか聞いたものと同じ否定の言葉を耳にして、笑う余裕すらなくテンプスは顔を伏せた――彼女にまつわるパターンが彼の脳を襲って新しい痛みをもたらしていた。


 そんなテンプスの様子を見つめて、傍らの女性――タリス・カレンダはさらに額のしわを深めた。


 彼女は娘二人のように魔術に精通しているわけではないのだ、彼の体の変調はよくわからなかった。


 何とかしなければと考える彼女の耳に、テンプスの震える声が響いた。


「……ごめん、なさい、たすけて……」


「――もちろん、任せて。」


 その一言でやることが決まった。


 震えて動けないわが子に微笑んで、自分の魔力によって導かれた輝く壁を打ち消して、二人の襲撃者――いじめっ子に向き直った。


「私の子に危ないことするなら許さない、よ。」


 そういって、彼女は戦闘態勢をとった。





 数日前に、突然決まったこの大図書院での仕事にようやく慣れ、司書さんともようやく話すようになった放課後。


 一時的に席を外す司書に代わって閉架式図書の整理をしていた彼女の耳に、娘の悲鳴のような声が響いたのは数分前のことだ。


『先輩が襲われてるんです!冷たい鉄のせいで大気の生霊が動けなくて!』


 普段冷静な娘からは考えられないほど焦った声で叫ぶわが子をなだめて息子を探しに走って――先ほどようやく見つけた。


 その顔色はあまりにも悪い。青いを通り越して色をなくしている、まるで死体のようだ。


 体を丸めて痛みに耐える姿はとはいえ、ひどく痛ましい。


 その姿を見た時に、なんとしてでも無事に家に連れて帰ろうと心に決めた。


「……誰だあれ……」


「……話にあった、マギア・カレンダの……」


 ぼそぼそと話し合う相手の声を聴きながら、さてどうしてやろうかと考える。


 目の前には霧の幕がある、娘たちなら少しばかり手こずるかもしれないが幸いにもここにいるのは自分だ、問題はない。


 本音で言えば、後ろで倒れている少年のようにしてやりたいところだが……彼の状況を見ると、そうもいっていられない。


『この子たちがいたほうが、マギアもたすかる……よ、ね?』


 であるのなら捕まえてしまおう、この程度なら1200年前の逃亡生活でとらえていた賞金稼ぎのほうが手ごわいだろう。


 方針が決まり、内部で魔力が揺れた。


「――なあ、お義母さん。そこどいてくんないか?そいつさえころ……倒したら後でいくらでも構ってやるからさ――」


 すっと息を吸い肺に力を籠める。


 次の瞬間、美しい唇からこの世のものと思えない旋律が響いた。



 ――タリス・カレンダ決して優れた魔術師ではない。


 九番目の聖女に育てられこそしたが、彼女はどうしても『魔術』というものが理解できなかった。


 彼女からすれば、魔力というものは身近にあり、勝手に動き回るものだったからだ。


 それは、彼女を守るために放たれた守護の魔術と魔女の呪いがかみ合った結果だったのかもしれない。


 彼女たちに絶世の美貌を与える魔術――『ニンフの美貌』。


 今は闇の父のもとに送られているだろうあの悪名高き「偏愛の魔女」――オモルフォス・デュオの体内に潜んでいたあの魔女の放った魔術は単に『ニンフのごとき美貌を与える』魔術ではない。


 その真実の効果は「生まれたての子供を『ニンフとの混血』に変える」というものだ。 


 異なる次元の中に存在する超自然的存在の性質を人間に与える。ともすれば、あの闘技場で使われていた生物混合器にもほど近い魔術の絶技は多数の前提条件はあるが間違いなく当時最高峰の魔術師の技だった。


 その力によって、マギアたちは半分ほど『超自然存在』としてこの世に生を受けた、その力を彼女は最も強く肉体に反映させていた――最も、彼女たちの中でその事実を正確に理解しているのは1200年の間に理解したマギアだけだったが。


 だからだろうか、彼女の力が他の人間に比べて超自然の側に寄ったのは。


 オーラム――呪歌を操り、魔法にほど近いが異なる御業を完遂する今は失われた技術。1200年前ですら十全とは言えなかった技術を、彼女は目覚めた時、なぜだかすでに持っていた。


 だから、彼女が行うのは詠唱ではない。


 歌だ。


「あ?なんだこの女……きゅうにうたひだひ……?」


「――おい、気を付けろ、たじかごにょおんな……?」


 突然の行動に、二人の襲撃者が首をひねって――その膝ががくりと崩れた。




 めがかすんでいる。


 てからちからがぬける。


 どこかとおくでなにかがおちた、からんからんからんからん。


 くちからなにかたれている。


 ひどくあたたかい。


 みみにひびくおとがひどくきれいだった。


 ずっときいていたいとおもった。





 ――そこにあったのは異様な光景だった。


 テンプスを殺しに現れたはずの二人の男が霧の中、まるで魂を抜かれたようにひざまずいていた。


 その顔はまるで表情の筋肉をごっそり抜かれたかのように力がなく緩み切って、口からはよだれがたれ、倒れていないのが不思議なほど前傾になっていた。


 まるで死人のように見るその二人が生きていることを証明するのはただ一つ、目の前から響く旋律に乗せて左右に揺れる彼らの体だけだ。


 一つの旋律が耳を通るたびに全身が震え、思考がしびれていた。


 オーラムが扱う『万能なる技芸』の一『恍惚の技芸』により、魂を歌にからめとられた彼らは自身が行うべき行為も忘れて、子供のように揺れていた。


『……ん、決まった……じゃあおやすみなさい。』


 歌が変調する――『万能なる技芸』が一、『誘眠のさえずり』により、意識を奪いにかかる。


 恍惚としている二人は、もはやまともに抵抗できない――必勝の型だった。


 自身の魅力にあらがえない小物ならば歌が聞こえ、姿が見えればいかようにでもできる。


 さあ、仕上げだ――そう考えて息継ぎをした瞬間にそれは起きた。


 ――――キッィィィィィィン!―――――


『!』


 ガラス通しをこすり合わせるような不快な音が響き、自分の歌が妨害された。


 驚いたように、音の方向に目を向けるが――霧が深くて見えない。


『……三人目?』


 内心で首をひねる――娘に聞いていた話では襲撃者はおそらく二人だろうとのことだったはずだが……


『隠れてた……?でも、うちの子どっちも気づいてなかった……』


 あの二人から完全に隠れるなどできるのだろうか?


 それにこれは風の魔術ではない、『音』の魔術だ。


 自分の声を静音の魔術で打ち消した――あの二人の襲撃者にはできそうにない技法だった。


『……あっちが、主犯だったか、な……?』


 目を細める――おそらく、襲撃者がつかまりかけたので慌てて出てきたのだろう。だとすれば、やはり、この二人には何かしらの情報が……


「――あっ。」


 そこまで考えて振り返る――


「……逃げられた……」


 そこにはもはや誰もいない。


 拘束しておいたはずの二人が完全に消え去っている。


「……やっぱり、ちょっと鈍った、かな。」


 やはり1200年も寝ていたせいで勘が鈍っている――眠る前なら拘束しながら三人目の相手もできたものだが……


『ま、いっか……それより、うちの子……!』


 慌てて震えるわが子のもとに帰る――自分でも驚くほどお母さんで来てるなぁ。と内心かすかに胸を張りながら。

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