夢?

 ――空気が冷たいというのが、目覚めた彼の最初の感想だった。


 いまだに頭は重いが水銀の虫が這いまわるような頭痛はずいぶんと引いていた。


 かたい石畳の床に倒れ伏す彼の体はちょこちょこと不調を訴えていたが、同時に、先ほどまでのような異様な感覚の乱れはない。


 感覚に狂いはない、ただ、わからないことが一つ――なぜ、後頭部が柔らかいのだろうか?


 先ほど見たときは明らかに足元も石畳だった、それは体の感触が証明している。


 だというのに、後頭部だけ何かに守られているかのように柔らかい――


 内心で首をひねりながら、瞼を持ち上げたテンプスはその目に映った光景に驚いた。


「――ん?ああ、おきましたか。」


 髪をたらし、いつもの制服に身を包んで、いつものように後光が差すような美しさで――マギア・カレンダがそこにいた。


 まるで鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌に、けれどどこか不満と怒りをたたえた彼女の顔を眺めながら、脳がまたしても回転し、今の自分と、彼女の詳細な立体図を作り上げる。


 それを見るに今の状態は、俗にいう膝枕というらしい――生まれて初めてされた。母にすらされた記憶がない。


「……なんでいるの?」


 口をついて出たのは疑問だった。


 自分が知る限り、彼女はこの場所を知らない。ここに来られるはずがない。


 すわ、とうとう脳が壊れて幻覚でも見始めたか?と背筋を寒くする彼に頭上の後輩は一言。


「ステラさんに聞きました……あの人、先輩なんですね、あとで聞いて驚きました。」


 と告げた。


 さっと、テンプスの脳に怒りが走る。


 せっかく隠していたというのに、あの女はいったい何をしてくれているのだ――と考えて、意識を失う直前に彼女に言われたことを思い出す。


『問題があるなら、ちゃんと言いなよ、私みたいになりたくないならさ。』


 ――どうやら、彼女はその一言を是が非でも実践させるつもりらしい。


「……心の準備とかあるじゃん……」


 心の叫びが漏れた、言い方とか、何時言うとか、そういうあれとか――あるじゃないか。


 自分が言えなかったくせに、他人には強要するとはずいぶんと勝手な話だ――いや、だからこそか?


「させたら言い訳でも考えそうだと思ったんじゃないですか?私も同感ですし。」


「言い訳って……」


「口八丁手八丁と権力の横車で人のことどつきますからね先輩は、警戒もやむなしですよ。」


「そんな風に思ってたの……?」


「まあ、多少は。すごいとこから権力引っ張ってくるなこの人……とは思いますよ。」


「……かなり無理してるんだけどあれ……」


「知ってますけどね、普通、あんなことはできないんですよ。」


「……それは知ってるけど……」


 全く、こんな状態の自分を見ているというのに口の減らない後輩だ……などと考えるテンプスを笑顔を見せたマギアの一言が驚かせた。


「――まあ、そういうところも頼りにしてますけどね。」


 その言葉を聞きながら、テンプスは自分が夢を見ているのだと思った。


 普段のマギアはこのようなことをいうタイプではない――だから夢だと思った、気分がいいこと、都合のいいことはたいてい夢でしか起こらない。


 いや、夢だって、何時もそれほど素晴らしいわけではないが。


 よくよく考えてみればも外れている。やはり夢だろう。そういえば……


「……かみ……」


「ん?ああ、これですか、暗いところで銀の髪だと煩わしいかと思いまして、どうです?」


 からかうように告げる少女に思いのたけを伝える。


「ん……いっつもきれいだよ……」


 笑顔で夢でしか言えないことを告げる。


 現実では言えない、言ってはいけない。


 下心で救ったと思われたくなかったし、真実そうであるように本心から善意だけで信じてほしかった――いや、それがもう下心か。


 苦笑しながら彼女を見れば何か致命的な一撃を食らったように動きを止めていた。


「……どした?」


「……いや、その……ド直球できたので。」


 いささか顔が赤いように見える彼女がそんなことを言った。


 おかしなことを言う娘だと思った。


 夢の中なのだ、こういうことも言うだろう――普段は言えないし、言うわけにはいかないことなのだから。


 が避けられない以上、自分は誰とも必要以上に親しくなるべきではない。他人の人生に傷をつけるつもりはない。


 だから――夢でしか言わないし、夢以外で語るつもりもない。


 それに何より――恥ずかしいじゃないか。


 靄のかかったように正気か怪しい脳の働きに任せて、もう少し甘えてみることにした。


 普段ならできない。こんな情けのない姿、見られたくないし見せたくない。


「……もうちょっと寝ていい?」


「ん?なんですか、ずいぶん寝ますね――嘘です、いいですよ、その間に脳は可能な限り治しておきますから。」


「……ん……ありがと……」


 その言葉を聞いて、再び脳が現実から脱落した――よくよく考えれば、夢の中で眠るというのはよくわからない状況だなと思いながら。





「……なんで急にかわいらしくなってるんですかこの人。」


 再び眠りに落ちた少年を眺めながらマギアは熱のこもった顔でつぶやいた。


 この学園の治安維持を担当するという生徒から告げられた場所に倒れていた少年を細心の注意で治しているさなかに起きてきたかと思えば、彼の様子は普段と違っていた。


 なんというか……かわいらしい。ちょっとよからぬ気分になるような……そう――


『子供っぽかったですね……いや、現時点でも子供なんですけど。』


 少なくとも自分に比べればはるかに子供だ、普段があまりにも普通でないだけで――


『――普通じゃない……普通じゃない、か……』


 考えてみれば、普段の彼の冷静さや態度はあまりにも彼の実年齢から離れている。


 まるで老成した老人のような態度だ。


『何かあるのか……』


 あるのだろう、彼は自分にも理解できない技術を扱う、そのうえで、それでは抑えられないほど今の彼の状態は悪いのだ。


『……調べた方がいいんだろう、いいんだろうが……』


 調べる方法がない。


 彼の精神や体の細かい部分を探るための呪文は、それを扱うために祖母からもらい受け、自分の研究成果をまとめたあの本は、よみがえったあの日、天上界の呪文と共に封印した。


『……復讐に天上界の呪文を使うべきじゃない。』


 あれは罪なき者を救ったり、罪のあるものを改心させるための術だ。


『――でも、それはこの人を救わない言い訳にはならない。』


 確かに彼は復讐の途上に出会った人間だ、確かに、彼は復讐の手伝いをしている。


 だが、それは彼が救われてはならない理由にはならない。


 自分のせいで苦難に見舞われている人間を救わぬ理由にもならない。


 だから。


『……取りに行くか。』


 マギアはよみがえったあの日に二度と目にしないだろうと考えた過去に向き合う覚悟をした。

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