偶然の再会と人間性の底辺
後ろ回し蹴りが宙を切り裂き、立ちふさがっていた魔族の横っ面を強く打ち据える。
体がふらりと浮かび、反対の壁面にあった円筒形の物体に着弾する。
一瞬、その光景に眉を顰めるテンプスはそれでも足を前に進める。
狙いは太古の遺物――『生物混合器』だ。
ひとまずあれの前に陣取りたい――そこまで行ければ最低限の時間が稼げることをテンプスは魔族の動きから理解していた。
トカゲの怪物に向けて、テンプスは低く跳んだ。
自分よりも頭一つ大きい相手に攻撃を放つために必要な動きだった。
その動きを察した魔族の顔横につけた腕をあざ笑うようにテンプスの足がしなり、太股に膝の骨がぶち当たる。
膝ががくりと落ちる。
その軌道に合わせて、彼の足が再び動き、脾臓と頬骨を打ち抜く。
外皮越しに痛打を受けた蜥蜴頭の魔族をすり抜けて、彼は直進する。
ポケットには試合で使った硬貨がまだ二枚、使用可能な状態で残っている――テッラ相手には使えなかった。動きが早すぎたし、使っても意味がないだろうと思ってもいた。
背筋が泡立ったのは、そのまま駆け抜ける彼の足が、『生物混合器』の円陣の一つを踏もうとした時だった。
――殺気。
地面を踏んだばかりの右足を強く蹴り、真後ろに進路を取る。
追って来る魔族はいたが、今はそれどころではない。
飛びのいた一瞬後に、巨大な鉄槌のような鉄塊が彼の目の前に落ち――ない。
空中で静止している。重力と重量を筋力だけで支えられていることの証明だった。
驚異的な筋力だった、単に振り下ろすのではなく途中で止めるとは。
その光景に内心で舌打ちする――装置も壊してくれれば話も早かったのだが。
再び、駆けだそうと力を両足に込めて――
「――そこまでだ。」
――脇からかけられた咆哮が体を止めた。
その声が自分にかけられていることをテンプスは理解していた。
状況によるものもそうだし。声に込められた感情のパターンもに実にその事実を示していた。
疲れによる劣化と弱体化が解けた彼の感覚器は今までにないほど研ぎ澄まされている。
その感覚が告げている――どうにもまずいのが出て来た。
明らかに自分よりも強い、肉体の反応が並外れている。この反応は――
『――うん?』
そこまで考えて彼はこのパターンに覚えがあることに気がついた、これは……オモルフォスの館で――
「それ以上、この部屋の……至宝に近づくというのなら、この私が――」
そう言いながら現れた男の顔は――
「――『城崩し』のバルドが相手になるぞ。」
――どこか懐かしい顔立ちだった。
しめっぽい廊下を美丈夫が歩いていた。
輝く金髪はまるで垂れた稲穂のように豊かで、どこか中性的にも見える美貌はまるで輝くようだ。
しかし、彼を見てその美貌に黄色い声をあげる者はいないだろう。
その顔は重い沈痛の色に沈み、体から溢れるような怒気と――重く暗い絶望感が漏れ出していた。
実際に彼の心を覗ける人間がいたとしたら、そして、覗いてしまった人間がいたといたら、すぐに意識を手放すだろう。
その時の彼には一人の人間で抱えるにはいささか重い苦しみが蔓延って、心を壊そうとしていた。
彼の心にはいまだに目の前で血の海に沈むテンプスの姿があった。
指示通りに急所は外したが――外したが……それは、別段彼が生きていることを示したりはしない。
あの血の量は明らかに死んでいる、今まで何人も闘技場に沈めて来た彼の経験がそう伝えている。
彼の手には彼の胸を貫いた時の感触が、未だに残っている。
あの感触は致命傷だ。
その感触がまだ手から離れないままだ。
それが気分を重くしている――自分のやったことが間違いではないかと疑念が体を重くする。
それでも、彼は足を止めたりはしない、出来ない。
この先に呼び出されている、いつものようにだ。
まるで闇が蟠っているかのような廊下の先、誰も近寄らない部屋の扉の前で、彼は一つ深呼吸をした。
行くりと扉を開く、そこに居たのは――
「――ああ、来たね……」
――まるで地獄の底から現れた悪魔か何かのような声だった。
しわがれていて、それでいて熟れて腐った果実のような響きと腐乱臭すらする吐き気を催す気配。
この闇の底の主――こいつが童女の上役だ。
まるで枯れ枝のような姿のその老婆はその見た目に似合わぬ悍ましい魔力と共にそこに居た。
「今日はよくやったじゃないか。ええ?自分の先輩でもお構いなしかい?」
「……契約だからな。」
吐き捨てるような一言。
実際、この女と長々と会話をしたくはない――それは相手も同じだろう。
「それよりわかってるんだろうな、後――」
「――1戦だ、わかってるとも。お前の自由まで後――」
「俺の自由はいい、彼女だ。彼女の自由をよこせ。」
「ああ、もちろん……それもあと1戦――だが、それまではあんたは私の物だ。いいね。」
「――わかった。」
不承不承に、その言葉を肯定する――それしか選択肢がない。
「じゃあ、来な……いつも通り、お前をいただくよ。」
そう言って、老婆がしわがれた手を動かす。
その動きに従って、彼は服をはだける。見せるのは、肩口――傷跡に残らぬ疵の残る場所。
老婆はそこに、ゆっくりと、振るえる口で――噛みついた。
その容姿に似合わぬ咬合力で歯が――牙が皮膚を食いちぎり肉をそいだ。
痛みと不快感に顔を顰めるテッラに意識を向けず、傷口から溢れる血を啜り、肉を食んでいく。
変化は劇的だった。
テッラの体から力が抜けていく。それは黄金にもほど近い大地の神秘に満ちた魔力の流れだ。
それが傷口に凝集し――魔女にくわれる。
半面、魔女の肉体には活力が戻る。
若返りはしない、が、明らかに活力と力が満ちている。
それは古い呪法だった。
食んだ物の力を得る。
古の交霊術に類するその術は老婆――『名声の』魔女の肉体を維持する唯一の方法だった。
転生ならず、この女が生きている唯一の理由であり、この施設を運営する最大の理由だ。
ここは本当に都合がよかった。
魔女の『真実重要な目的』のため、生きながらえる餌を育てる蟲毒。それがこの悍ましい施設の正体。
この施設のおかげで、この男にも巡り合えた――本当に都合がいい施設だ。
人間性の底辺は、この女のためだけにあるのだ。
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