千丈の堤も蟻の一穴から

 彼は生まれてからこの方、一度も戦ったことのない恐ろしい敵と対峙していた。


 飢えた獣の目をした敵は、まるでこちらを睥睨するかのように眺めながらその長い鼻をひくつかせている。


 この敵による後ろからの襲来に、彼が反応できたのはほとんど偶然のことだった。


 真後ろから突然現れたその生き物によって放たれた必殺の噛みつきを影の動きから察知した彼は、すんでのところで体を倒し、まるで虫のように地面を這って攻撃をかわして見せた。


 鋭い爪と前歯の生えそろった恐ろしい噛みつきに苦戦しながらも彼は緻密に攻撃を重ね、すでにダメージはずいぶんと蓄積している。


 強襲から始まったこの戦いも、終わりが近づいているのを彼は感じていた。


 無理をして二足で立ち上がる強敵の爪による一撃が放たれるよりも早く、腕の内側にある胸部――胸のほぼ中心にあるとされる急所に細い腕を打ち込む。


 肉体反応における全てのパターンの収束点であるその部分に強い衝撃が襲うと、肉体は一時的に強い麻痺を引き起こすことを、彼は知っていた。


 爪を振り切るために腕を開いた姿勢のまま、ぐらりと強敵の体が倒れる。


 その体を今にも折れそうな細い手足で抱えた彼は強敵をそっと地面に寝かせる――予想外の戦闘だったが『この体』について知見を深めるいい機会だった。


 そう考えて細い上を合わせて感謝の合掌を行っていた彼のもとに足音が響いて来たのはその時だ。


 彼はとっさにその体を物陰の中にねじ込んでそっと様子をうかがった。


「――聞いたか?ボスの連れて来た学生、ほとんど無傷で33試合超えたらしいぜ。」


「ああ……まったくあのうすら寒い『眼の魔人』と言い、『土石の覇者』と言い……バケモンはバケモンを見分けやすいのかね?」


「かもな……ああ、そうだ、明日お前、たぶん闘技場に詰めっぱだぞ。」


「なんでだよ。」


「そのガキにデバフを掛けるらしいぜ――ま、どこまで効くのかは知らんがな。」


「ま、特別手当が出るなら何でもいいさ……」


 そう言って傍らを歩いていく男たちを眺めた彼はその事実を「」に伝えた――相手が仕込むのなら、大きい方も仕込まねば負けてしまうだろう。


 物陰からそっと顔を出し、敵が通り過ぎたことを確認し、彼は敵が曲がったと思しき角を眺める――広い廊下に扉が二つ、突き当りに一つと中ほどに一つ。


 二人――足音と話し声からそう判断した――の姿は見えない、どちらかに入ったのだろう、鉢合わせはまずい。


 出てくるまで待つわけにはいかない、時間がないのだ。


 この部分を調べるのは後にしようと思いながら、彼は傍らの強敵――に目線を向けた。


 鼠には悪いが少々彼の体からオーラを拝借しておく必要があった。


 彼の機能を維持する動力源であり、あの部屋にはない物だ。


 今、自分の機能を止めるわけにはいかない、彼女の肉体の維持を行っておかなければならないのだ。


 あの魔女だか、魔女もどきだか――あれが魔女ではないというならあれはいったいなのだ?――のことだ、彼女に食事を与えないか、妙な物を入れている可能性は十分にある。


 それに、マギアがあの魔女達からの施しを受けるのかと言われれば……正直、疑問だ。


 そのためにも、彼女の肉体を維持できるエネルギーが必要だったが『パンくず』代わりのオーラを放出したせいで力を使いすぎていた。


 回復する必要がある、彼女を守るために。それこそが自分の務めなのだから。


 そのために、変態の誹りを受けることを覚悟しながら服の中に入り込んでまでここに来たのだ、たがえるつもりはない。


 それに、大きい方との作戦上、この奇怪な施設についても調べておきたかった。


 ここが魔女もどきの居城であり大きい方が戦っている舞台と地続きであることは大きい方との精神的つながりとこれまで彼の聞いて来たあの童女の耳障りな言葉が教えている。


 それによれば、『時計』はこの施設の内部で童女が調べているらしい。あれは余人には破壊できないし魔術師に理解できる代物ではない。時計さえ取り戻せればこの状況などどうにでもなる。


 そして、時計と同じぐらい調べる必要がある情報がもう一つあった――いったいどんな理由でテッラはあの魔女たちに付き従っているのか?


 はなっから敵だったのか?それはおかしい――テッラがサンケイの友人になったのはマギアとの接触前だ、その段階から弟の周囲に彼を配置する利点がない。


 そして魔女にサンケイを狙う必要はない。魔女の存在を知らないサンケイは敵たり得ないし、よしんば敵だったとしても――サンケイでは魔女には勝てない。それはオモルフォスの一件が証明している。


 だとすれば、彼らの友好関係は真と見ていい、だとすれば――いったい何が理由で弟を裏切ったのか?


 彼と大きい方の疑問はそこにあった。自分ならいざ知らず、弟との関係は間違いなく彼にとって有益だった。それを断ち切る理由がわからない。


 これを解明しなければ、魔女を倒しても片手落ちだ。探り出さなければ……


 そして、何よりもマギアの家族二人を戒めから解き放つ必要がある。


 方法は思いついているが――実行は困難だ。まず、彼女たちがどこにその身を置いているのか突き止めなければならない。


 これらが彼に与えられた使命だ。


 あの童女の罠に乗ると決めた時に大きい方と計画した通りに大きい方は戦っている、自分も相応の働きをせねばなるまい。


 こんな時、自分が小さい体で作られていてよかったと思う――本来は携行性を上げるための措置なのだが。


 この空間に作用している魔術はある程度以上の大きさの物体しか感知できないのは明確だ。


 でなければ、先ほどの強敵であるネズミやら蠅やらと言った下水につきものな生き物を無作為に探知してしまうだろう。


 何かしらの方法でより分けている可能性もあるが――これまでの隠れ続けていられていることを考えるとおそらく単純にある程度以上の大きさの物体は探知していないのだろう。


 マギアを見ても分かるが、魔術師はどこかしらで手を抜きたがるものだ。


 これらの情報を可能な限り調べ上げ、自分に刻まれた能力の有効期間である8時間のうちに伝声管を通ってマギアの元に戻る。


 ハードなスケジュールだ。しかし、勝算はある。


 確かにここは魔術で作られた強力な城塞だ、だが――崩すのに魔族騎士など必要ない。


 彼――ソリシッドアグロメリットはその身に宿す水晶の輝きだけを残してその場を立ち去った。


 どれほど強大な城塞も蟻の開けた穴一つで崩れるのだ。この魔術の砦とて例外ではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る