聖女の現状
『――なんと言うことでしょう……下馬評では最も期待されていなかったあの男、『魔力なし』のテンプスが異例の三十三連勝を成し遂げました!これは……この闘技場始まって以来のことです!』
壁からせり出している伝声管から響く興奮とも怯えともとれる声にマギアは深く安堵の息を吐いた。
床に完全に固定された椅子にしばられて、身動き一つできない拘束を無理に解こうとしたせいで体の節々が痛む。
部屋に仕掛けられた小細工のせいで体に力が入らないし、気分がひどく悪かった――汚水を喉に流し込まれた後のように。
それでも、彼女の中にあったのは安堵と喜びだ。
自分のために危険に飛び込んできた少年が大きな怪我をせずに今日一日を終えることができた。
それが彼女にとっては喜ばしくて仕方がなかった。
――無論、それが長続きすることはなかったが。
「――あら、思ったより元気そうじゃん?」
耳障りな高い声がマギアの耳朶を打った。
「――おまえ……」
彼女の対面にある部屋の壁から光が漏れる――扉が開いたのだ。
その光の向こうにあったのは三つの影だ。
二つは見知った物、もう一つは――憎い人間の物。
「おつかれー元気してる?してるわけないか!この部屋にいるんだもんねー」
二人の人間を侍らせた小さな影があざ笑うよう部屋の壁を撫でながら、ゆったりと歩く。
その壁には彼女の背後に絵は枯れている物と酷似した文様が掘られている――
以前、オモルフォスの屋敷で使われた物の強化改良型、複数の魔術的な核を持ち、魔力の塊を叩きこんだぐらいでは止められない、魔術師にとって最悪の檻だった。
その壁を撫でていた女――テンプスの前にも表れたその童女はマギアの目の前にまるで踊るように回りながら現れた。
「……何の用です?あなたの望む通りの状況にはなってませんよ。」
そう言ってあきれたものでも見るように眉をひそめたマギアを、心外そうに眺めた童女はぷりぷりと頬を膨らませながらわざとらしく口を開く。
「えーそんな顔しないでよー、せっかく逃げられるチャンスをあなたにあげたから、感想を聞きに来たのにー」
などとわざとらしく唇を尖らせる女に向けてマギアは心の底から煩わしそうに口を開いた。
「――一日に33回も殺し合いさせておいて優しい?倫理の本でも……ああ、教育が理解できるほど利口じゃないんですかね?」
「――っち、あばずれのガキがでかい口叩いてんじゃねぇよ。このブスが。」
「この部屋で薄汚れても貴方よりは美人ですよ。おあいにくさま。」
「――」
童女の纏う雰囲気が変わった。
ほとんど何の予備動作もなく、真横に立っていた人影――彼女の妹に鼻ずらに痛打を食らわせた。
「――!」
目をむいたマギアの目の前で、今度は左隣の人影――マギアの母親に向けて腕を振りぬ――
「っち、元気な小娘。」
――けない。
見れば、脂汗をだらだらと垂れ流しながらマギアが何やらぶつぶつと文言を唱えている。
守護の
彼女の祖母が最も得意とした魔術は、つまるところ弟子であるマギアのとっても最も得意な魔術だった。
彼女が守ろうとしたものを気づ付けるものによる行動食い止める魔術は彼女の母を傷つけようとした攻撃を食い止めていた。
「――あら、大変、体、辛そうね?大丈夫ぅ?」
その光景をつまらなそうに眺めた童女は、唇を耳の先まで引き裂くように嗤う。
実際、この牢獄の中で魔術を使うのひどく消耗する行為だ。攻撃の魔術など使えば一瞬で意識をなくし、おそらくそのまま死んでしまう。
最も得意な魔術だからこそ、どうにか扱えるのだ――それですら、意識に多大な影響がある。
精神が巨人の手で真横に引き裂かれるような苦痛が襲い掛かって来る。
体の肌という肌に鋭い針を刺しながら毒を流し込まれるような苦痛の中でどうにか呪いを維持しながら、ちかちかと明滅する意識をどうにか保ちながらマギアは荒い息を吐く。
息を吐くという行為にすら針で喉を突かれるような痛みに呻いていた。
別段、彼女はこの牢獄に対して――もっというのならこの部屋に張られた魔術に対して、何の対策もしていないわけではない。
無効にはできなくても魔術を扱える程度に影響を低減することはできる。
時間を駆ければ牢獄を破ることもできるだろう。
だがそれは『彼女が一人の場合』だ。
此処には彼女に対する人質が三人いる。
妹、母、そして――自分のために死地に飛び込んだ少年。
これらの問題がかたずかなければ、彼女はここから逃げられない。
こちらを見つめる童女の傍らに歩いてきた妹にかすむ視線が向く――妹の鼻からはだらだらと血を流し、明らかに怪我をしていた。
それに注意一つ向けない彼女は明らかに正気ではない。
精神制御の類だろう、何かしら操られているのは明白だ。
「大変ねー守る物が多い人は。あの生意気そうなガキもあんたなんか見捨ててればよかったのに。」
などと嘯く女に苦笑する――まったくだ。
ただ、それをしない人だと短い付き合いで嫌というほどわかっているマギアはその言葉に賛同せず、代わりに質問を投げかけた。
「――おまえ、何者です?」
それが今、彼女の中を占める最大の疑問だった。
この女が、なぜ自分を此処に置いているのか、わかっている。
何故、あの心優しき少年にあんな真似をさせているのかもわかる。
ただ一つ、ただ一つわからないのは――この女の正体だ。
『こいつは魔女ではない。』
それは明らかだ。
魔女共特有の腐った魔術の気配がしない。確かに見た目に比べれば明らかに異常な能力をしている、それは認めるが――この程度の相手ならマギアはどうにかできる。
牢獄に体力のすべてを捧げても殺しきれるだろう。所詮はその程度だ。
鎧を着たテンプスなら、たやすく打ち倒せるだろう。
しかし、この女は魔女ではない。
だが、自分を拘束しているこの部屋は間違いなく魔女の手による作成物だ。
だとしたら――こいつは誰だ?
かすむ視界で相手を見つめる。
その顔は魔女の物に近い。
近いが――やはり違う。
そんなマギアの視線をあざ笑うように童女は嗤う。
「――さぁ?そのお利巧な頭で考えればいいんじゃない?」
そう言いながら、踵を返した童女にマギアの妹と母が影のように従う。
その光景に歯噛みしながら、マギアはその後ろ姿を眺めるしかなかった。
「じゃ、せいぜい頑張りなさいよー」
そう言ってあざけるように、見せつけるように扉を閉める童女の足元で、煌めく何かが扉をすり抜けた。
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