初戦

 彼が通されたそこはなるほど『コロシアム』だった。


 テンプスが歩を進める円形の舞台は、整備が十分ではないのか、それともする気がないのか。これまで激戦で傷つき、何か所かの陥没や――おそらく、先ほど泣き叫んでいた男の物だろ血痕が点在している。


 その舞台を取り囲むように屹立する壁の上には、テンプス達を睥睨するように上からの悪の渦が感じ取れる――どうやら、あそこが観客席らしい。


 嘲笑と彼の死を見んとするものたちの視線が降り注いでいる舞台の上で、彼を待ち受ける危険を察知して、彼の中の能力が唸り、警告の声を上げている。。


 一体どんな処方でこんなところにこんな巨大な物を使ったのかは皆目見当がつかないが、どうやらここが人間性の底辺であることは間違いないらしい。


 ここに善意はない、あるのは他人が死ぬのを見つめる暗い喜びと悪意と――優越感だけだ。


 煩わしそうに鼻を鳴らして、テンプスはゆっくりと歩を進めた。


 手に持つのは彼自身の剣だ――驚くことに、これは牢獄の中でも取り上げられなかった。


 まるで、暴れられるのなら暴れて見ろと言いたげなその雑な収監方法は、看守たちの命すら使い捨ての駒として見ていることの証左であり、同時に、自分達には絶対にその刃を向けられないという自信の表れだ。


 どのみち、彼にあの場所で暴れるという選択肢はない――まだ、マギアの場所も、テッラの理由も、もっと言うならマギアの家族の状態も把握していないのだ。


『時計さえ取り戻せてれば暴れてもいいんだが……』


 ない以上無理はできない。


 眉をひそめながら、円形闘技場の真ん中に向かって歩くテンプスを出迎えたのはあざけりと失望と――あとは好奇心からくる野次だ。


「――おいおい、なんかガキが出て来たぜ!」


「あんなひょろい体で戦えんのかよ!」


「また壁のシミが増えるだけなんじゃねぇのか!」


 などと叫ぶ羽虫の音に、テンプスは何も返さなかった。


 彼らに振りまくような愛想は持ち合わせがないし、そもそも、人付き合いのいい法でもないのだ。


 自分を中心に渦を巻く批判とも好奇ともつかない声の渦を切り裂くように舞台の上に立った彼の目の前に居たのは――


「……また、ずいぶんでかいね……」


 ちょっと呆れてしまうような大男だった。


 身の丈はテンプスの倍、あの用務員が呼び出した鬼と同じほどの背丈を持ち、体の節々に寄せ集めらしき鎧をつけている。手に持った金属のこん棒はその体躯に見合った長さだ――テンプスの全長よりも長い。


 体の全身をその男は――生き物だった。


『魔族か……』


 魔族――オモルフォスの館で見たっきりその後見ていない希少な種族だ。


 人魔講和によって戦争状態が解けて、人間とは居住地を分けた者達。


 昔小鬼の友人から聞いた忠告を思い出す――


『あそこには――』


「――ろくでなししかいない。か……」


『――さあ新人馬鹿のお出ましだ!アプリヘンド特殊養成校からの殴り込み!あのヒョロヒョロの体で一体何ができるのか!?『魔力なしの』テンプス、いざ出陣です!』


 ひときわ大きな歓声とそれ以上に巨大な罵声が響いた。どうも、ここでアプリヘンド特殊養成校の名前は受けが悪いらしい。


「ご機嫌だな……」


 苦笑しながら、おそらく待機位置だろうかすれた白線に体を止める。


 ゴロゴロとうなるように鳴る音は、どうやら相手の喉からなっているらしいと確認したテンプスは、暇でもつぶすように、相手に告げた。


「あー……一応聞いておくけど、降伏する気は?」


「ナイ。」


「理由を聞いても?」


「オマエコロス、メシクエル、シアワセ。」


「……なるほど。」


 彼は理解した――つまるところ、彼もこの状況のとらわれということだ。


 彼らの凶暴性を増幅するために彼らに餌を与えていないのだ、生き物として彼らとて死にたくはない。死にたくないなら――殺すしかない。


 そして、人間側は薬の影響で前後不覚であり、まともな判断能力がない。


 まさしく、飢えた猛獣の檻の中に肉を放り込むように相手に与えているわけだ。


 何ともまぁ……


『見下げた連中だな……』


 眉間にしわが寄る――さてどうやって倒したもんかな、と考えていた。


「――オマエハニゲナイノカ。」


「僕か?いろいろあってね、逃げられんのだ。」


「ソウカ……デハ――」


 熱狂が強まる、実況の声はすでに耳に入っていないが、その強まりで理解できた――


「――シネ。」


 ――どうやら、用意ドンとはいかないようだと。


 巨体が動く、合図も何もなしに始まった試合は相手の――そう言えばこの魔族の名前を知らない――動きは機敏だ。


 一足で間合いを詰めて、振り上げた棍棒を全速で振り下ろす。


 地面が揺れた。


 地面に突き刺さった金棒が土煙を巻き上げ、激突地点を隠した。


 観客が歓声をあげる。


 これが観客の求めている物だ。


 自分達の日常ではありえない興奮、スリル、非日常的な光景――人間の死。


 そう言ったものこそがこの人間性の底辺における需要であり、ここに来る人間たちはこれこそが求めるものだ。


 彼らは暗い喜びに震えながら、土煙が収まるのを待った。


 しかして、土煙が収まった時、そこには――。


「――!」


 何もなかった。


 粉々に砕けたわけではない。それならば確実に死体が残るはずだ――先ほど死んだ男のように。


 だというのに、この場には何もない――何もないのだ。


 その事実に慄いた観客がテンプスを探したとき、彼の姿は――魔族の後ろにあった。


 その姿はすでに剣を横に振り切った姿であり、刀身には赤い血が付着している。


 次の瞬間、魔族の体がかしいだ。


 足から力が抜け、膝が折れた。


 がくりと跪いた魔族の体の後ろにはすでにテンプスが首の高さまで剣を上げている。


 彼の二倍ある体が彼の高さまで下りてきた時、テンプスの腕がひらめき、首の後ろ――人で言うなら盆の窪に当たる部分にごくごく軽く触れた。


 それでことは終わった。


 魔族の全身が前のめりに倒れる――その顔を見た物はその目がぐるりと上向き、白目をむいていたこと気がついただろう。


 肉体反応のパターンを阻害する一撃は、魔族の意識を完全にはく奪し、地面に沈めるのには十分な威力があった。


 剣を横に振って鞘に剣を収める間、会場を沈黙が支配していた。


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