人間性の底辺

 童女との会話から四時間後。テンプスは狭い牢獄の中で、彼の出番を待っていた。


 結局、彼に選択権はなかった。


 童女の提案を受け入れた彼は、「でばんまでここに居ろ」と申しつけられて、この狭い牢獄に放り込まれた。


 歩いて来た道から察するに、ここは――おそらく町の地下だ。


 下水道よりも下、光の通らぬ場所、誰にも声の届かない場所。


 だというのに、ここはひどく騒々しかった。


 周囲からは狂ったような叫び声と哄笑が響き、すすり泣きとここから出せと叫ぶ声に満ち満ちていた。


 その声の主が上層でさらわれてきた家無したちであることを彼はここにいた一時間で理解していた。


 彼らは生活を逆転させることを望み、この『人間性の底辺』に挑んで――そして、その現実に打ちのめされたわけだ。


 恐怖に打ち震えて、恐れに負けて――狂気に逃げた。あるいは、そうして、彼らはこの場所に適応したのだろう。


 何もかもを飲み込む暗闇の中で、狂気と苦痛が渦を巻いている――なるほど、自分にここを教えた『彼』が人間性の底辺というだけはある。テンプスは辟易していた。


「――おい、しっかりしろ!」


「いやだぁぁぁ!」


「っち……きちんと立て!」


 テンプスの傍らで叫び、のたうつ音が聞こえた。


 視線を向けて見れば、隣の房の男がどうやら暴れているらしかった。


 自分よりも頭一つ大きいだろう大男が、まるで五歳の子供のように駄々をこねて暴れ、牢獄の鉄格子にしがみついている。


「死にたくない!いあだぁ!」


「っち――おい、薬!」


「いい加減黙れ!」


 係員が何やら取り出した――銀灰色に光るそれは何か円筒形の物体だ。


 ごく最近、ある企業が発表したそのガラスと金属部品の混ざり合った物体は薬物を血管に流し込むための道具だ。


 注射器と呼ばれるそれは、実のところスカラーの遺跡から発掘されたものだ。テンプスの祖父が発見し、再現のために二十年ほどの時間を経て、ようやく再現された代物だった。


 そんなものが悪人の手にあるのはいささか業腹だったが――まあ、どんなものでも一般に出回ればこうなる物だ。


 それを暴れる男に突き刺して、中身を押し込む――変化は劇的だった。


 叫んでいた男の表情が解け、だらしのない笑顔になって、まるで餌を目の前に置かれた野犬のように鉄格子から飛び出しておそらく舞台の方向に走り抜けた。


 薄暗く、光の薄い室内で何をすることもなくそれを眺めていたテンプスは内心で『あれを打たれるのなら面倒だな……』と思っていた。


 薬の薬効に耐えながら戦う方法はすでに会得しているが、それはそれとして面倒に変わりはないのだ。


『……打たれる前に伸すか?飯なら最低限どうにかできるしな……』


「――あん?なんだこのガキ。」


 その視線に反応したのか、係員らしき連中の一人がこちらに視線を返した。


「ああ、今日入った「新作」だよ。養成校の学生様だとさ。」


「はっ、それはまた……そんな奴がここまで落ちてくるとはな。」


 そう言って口角を上げる男たちに、テンプスは何を言い返すでもなく見ていた。


「おい、見てるかガキ。お偉い英傑様もあれを打たれればすぐに野良犬だ!お前の艶姿も楽しみだぜ。」


「趣味のわりぃ奴だな……こんなガキの何がいいんだよ。」


「あ?お高くまとまってるやつが、自分が誰かもわからなくなって死んでくんだぞ?最高だろうが!」


「……そうか?」


 どこか楽しそうに話す浸りに、罪の意識は感じない。


『いいかい旦那、あんたはいい奴だから言っとくがな――あそこはやめとけ。見るだけで目と脳が汚れるぜ。』


 などと語る『子鬼の友人』の姿が思い起こされる――自分だって触らずに済みの野なら触りたくなかったのだが。


「ああ、お前はどんなふうに――」


「――おい、どけ、そいつの出番だ。」


 そう言って背後から響いた声は、手前の男の物よりも責任感を感じるものだった。


 煩わしそうに振り返った係員をテンプスを迎えに来た係員が眺めていた。


「あ?なんだよ、はえぇな、前の奴はどうしたんだよ。」


 手前の係員が煩わしそうに言葉をかける。


「あれか?。」


 そう言った男の後ろを啖呵とその上に置かれた前衛的なオブジェ――人の死体がテンプスの目に映った。


「はえぇ、相手誰だよ。」


「『岩砕き』だ。丸一日飯を食ってない。」


「はー……そりゃ災難だなぁ。」


 言葉とは裏腹にテンプスに向けてにやにやと笑う係員は鉄格子のカギを開ける――その手にシリンジを持ちながら。


「ああ、そいつはあれだ「特別ゲスト」だ。薬は要らん。」


「あー……それはそれは。」


 そう言って、気の毒そうにも嘲笑しているようにも見えるその顔をテンプスに見せた係員は懐にシリンジをしまいながらテンプスに告げる。


「よぉ、学生様、もし生きて帰ってこれたらお前の晩飯、逸品増やしてやるよ。」


「おいおい、いいのかよ、自腹だろ?」


「いいんだよ――どうせ、今日死ぬんだしな!」


 そう言って笑う男たちの顔はひどく醜悪で、子鬼の友人が天使に見える程ひどいものだった。

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