夜襲

 真夜中、夜の帳も落ち、声すら寝静まった夜更けの闇の中で一つの影がうごめいていた。


 背後のうらびれたレンガ造りの壁に背を預け、夜の闇の中で凍えるように身を縮めるその姿は見るものの同情を誘う。


 それはまるで汚らしい浮浪者のような格好に身を包んだその男は、実際、誰の目にも浮浪者として映るだろう。


 汚らわしく、臭く不快で――だからこそ誰もその男に注意を払わない。払うべきではない、そう思わせる。


 それこそがこの男の偽装だ。


 あらゆるものに注意を払われないことで気配を隠すその男は、ある組織において、それなり以上に優秀とされた構成員の一人だ。


 周囲に溶け込み、あるいは今回のように注意を払われない人間に化けて自身に与えられた務めを果たす。それが彼の仕事の方法だった。


 こうして彼がここにいるのもまた任務の一つだった。


 今日攫ったらしい人間の身内だか、仲間だかがそれをもう一度攫うのを阻止する。警護の一環だった。


 そのために、彼はここにいる――正確には『守るべきものの上』に立ちふさがっている。


 相手が何者かは知らない、その情報は上の方で止められている。よくあることだった。


 だが、それがどんな人間であろうと、自分よりも腕のいい斥候であるはずはあるまい。


 影に隠れて現れるわけでもない以上、必ず自分の前を通るだろう。


 その時に背後から突き刺してやれば、どれほど腕の立つ相手であっても関係はない。


 人とはそう言うものだ――いつだって、影を制したものが勝つ。


 そう考えながら、寒さに身を震わせるように小さくなった男はけれど視線だけは鋭く、警戒が周囲に向けて放たれていた。


『さあ、いつでもこい――』


 そう体に力を張り巡らせる、どんな人間が来てもいいよう気づかれぬようにひそやかに、けれど確かに力をみなぎらせて。


「――ごゅ?」


 次の瞬間、回転する視界と共に力が抜けた。


 頭部に走る鋭い衝撃、頭部を叩いたことで、体が宙に舞ったのだ。


 体が地面に倒れたらしい音を聞きながら、彼は自分が何かに襲われた事、自分がそれに気づけなかったことを知った。


『――何が――』


 驚愕が顔に出るのと、彼の意識が再び襲ってきた衝撃によって完全に喪失するのはほとんど同時だった。


「――役所の人間が夜間点検に来るこの時間の下水溝周りに浮浪者がいるはずないだろうが、間抜けめ。」


 どこか苛立っているような声が、彼がこの夜聞いた最後の言葉だった。




 ひとりでに動く影が男の体をまさぐっていた。


『鍵みたいなもんがあるわけじゃないのか……となると、どっかに入り口が隠されてるんだろうな。』


 そう考えながら男の体から手を放して、彼は男の隠していた入口――下水溝につながる石の蓋を見つめた。


 彼がつけた『』が示す限り、彼女はこの下を通ってどこかに向かったはずだ。


『わざわざ面倒な道を通ってまでここに来たんだ、たぶん、この下に何かあるんだろう……』


 そう考えた彼――テンプス・グベルマーレはゆっくりと腰を上げた。


 ここまでの道行を空を飛ぶ星のように猛烈な速度で走った彼は、風と風の隙間、闇と闇の隙間を潜り抜けるように気配を残さずに走り抜けて来た。


 テンプスが直接的な戦闘によく使うため勘違いされるが、実のところ、『秘密暴き』の力は直接的な戦闘よりもこういった隠密行動や謎を解くことに趣を置いた力である。


 それは敵の組織構造的なパターンを見抜き、そこにおいて最も意味のある場所に攻撃を加える事であり。


 または、他人の意識的なパターンや光や影の屈折を見抜き、完全に体を隠しおおせて見せる秘匿技術であったりする。


 そう言った意味で、彼はいま、初めて「秘密暴き」の力をフルに使っていることになる。


 その力は「パンくず」を追う際にも使われた。


 石畳の上ですら、他人の足跡を追うことができるテンプスがz分が残した痕跡を追うことなど造作もない。


「パンくず」を追い、先ほど自分を刺し貫いた槍を置き去りにして――やはりフェーズシフターはなかった、やはりテッラが持ち去ったらしい――走り抜けた彼はどうやら彼らの足跡が町を出るルートではなく、町の戻るルートに乗っているのはすぐ気づいた。


 やはり街中に「巣」があるのだ。マギアが睨んだとおりに。


 そこに魔女がいるのか、魔女がそこに現れるのかは不明だが、少なくとも一つ確かなのは間違いなくアプリヘンドの町の中にいるということだ。


 町の門をすり抜けるように通り抜けたテンプスはその過程で友人と親族への連絡を済ませた彼は走り抜けながらいくつかの準備を終え、とうとう入口にたどり着いた。


 彼の目に映るパターンはここが地上にある「パンくず」の終点だと語っている。


『こいつが待ち構えてた以上、たぶんここが入口なのは間違いない。』


 その上で面倒なのはおそらくこれが罠の入り口でもあることだ。


 明らかに何かしらの罠が待ち構えているはずだった。


 中に入ったと同時に待ち伏せがある可能性もある。


『透視なんてできんしな……』


 フェーズシフターもない今、彼にできるのはせいぜい他人を闇討ちする事と罠を貼ることぐらいだ。それにしたところで攻め込みに行く以上意味はない。


『ま、だからって行かない選択肢もないんだが……』


 意志の蓋に鋭い視線を送りながら、いくつかのパターンを考えたテンプスは深く息を吸った。


 叔母の靴は履いた。キビノとアマノの贈り物は隠した。剣は持ってる。今使う武器はすぐに使えるようにした――あとは、勇気を持つだけだ。


「――さて、鬼が出るか蛇が出るか……」


 呟いて、重い石の蓋に手をかけた。

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