一番やばい状況

 開け放たれた扉に血にまみれた手が勢いよくたたきつけられた。


 まるで赤い手袋でもしているかのように深紅に染まった手がに力がこもり、一人の男がその痛ましい体をどうにか扉の内側に転がり込ませた。


 いつも通りのよく見る自宅の玄関は、つい五分前に見た時に比べても何一つ変わることなくそこにある――変わったの自分の方だと男は理解していた。


 あけ放たれたうち開きの扉によりかかって浅く荒い呼吸を続ける男――テンプスはあたまにかかったもやを 振り払うかのように頭を振りながら扉を支えに歩き出した。


「やろう……すきかって……やりやがって…………」


 あの衝撃的な告白の直後、歩き去ったテッラに向けて強引に引き抜いたフェーズシフターをで攻撃しようとした彼だったが、それは長く続かなかった――意識を失ってしまったのだ。


 それが出血によるものではないのは間違いないが、何が要因だったのかはわからない。


 一つだけ確かなのは自分が貴重な時間を無駄にしてしまったことだ。


 明滅する意識を必死に奮い立たせて彼は毒づいた――かなりまずい状況だ。


 右半身の内ももと手首に流れているの太い血管をやられた、血が止まらない。


 ついでに言えば腹を突き抜けた分も何かしらの内臓――位置的に腸か?――を傷つけているのか、先ほどから吐血もしている。


 貫かれたまま放置された状態からどうにか体を引き抜いてここまで帰ってきたが――血がひどく噴き出している。


 大概の戦ったことのない人間は勘違いしているが、騎士物語や英雄譚のように人間は強い生き物ではない。


 主要な血管がかすかに傷つくだけでも十二分に危険な状態になるし、どこかの臓器に何かがあれば死ぬ危険性は高い。


 彼が今まで調べた人体の知識とスカラーの医学の知識が正しいのなら、この出血量で意識を保てるのはおそらく二分……失神まであと三十秒ないだろう。


 引き抜かずに済むのならそうすべきだったが――深くに刺さっていた上に、魔力の影響で土の槍に接触していた箇所が石化しかけていたので、引き抜くしかなかった。


 騎士物語の英雄たちは人の腕ほどもある槍を体に刺しながら戦うというが、あいにくとテンプスにそんな化け物じみた生命力も回復能力もない。


 あるのは不遇な過去に培われた精神の頑健性と祖父と共に作り上げた肉体だけだ。


 固まった筋肉を強引に引き抜いたせいでひどく痛む、本当ならかけらだって動きたくはない、ないが――


『マギア……たすけないと…………』


 明滅する意識は意味のある思考をなさない。


 頭の中に流れるパターンもぐちゃぐちゃだが、一つだけ確かなことがあった。


 マギアはあの魔女たちにさらわれたのだ、でなければ彼女の家族を使うことなどするまい。


 そもそも、家族がどこのだれか知っている時点で魔女がらみ直は確定なのだ。


 そして、オモルフォスの件から考えて決して楽しいお茶会にご招待とはいくまい。


 彼女に何か用があるのか、あるいは苦しめて殺したいだけかはわからないが――どちらにしても、ろくなことにはならない。


 念のため、は掛けてあるが――それだけで抜け出すのは不可能だろう。


『………たすけないと…………』


 廊下にまるでぶちまけられたような血の跡を残しながらテンプスは目的の扉にたどり着く。


 明滅する視界はもはや用をなしていないが彼の中の知性が記憶の中から彼の目的の物を探り当てて、その場所に体を導こうとしている。


 どうにか扉を開くと同時に、彼の膝から力が抜けた――いよいよ、血が足りていない。


 ガタガタと震え始めた肉体を必死に抑え込んで、テンプスはよろよろと食堂の一家に据えられた棚に向けて歩き出した。


 テーブルに足をぶつけてよろめき、肩から棚に突っ込みながら彼は必死に棚の中にある瓶を手に取った。


 それは、用務員に襲撃されたときにアマノが弟からあずかってきた秘伝の薬だ。


 いかなる奇跡か数百年続いた汚れ仕事のたまものか、ある種の奇跡的な配合比によって、ある種のパターンを形成するこの薬は一般的な魔術の薬と同じ程度の効果を魔力なしで引き起こす。


 決してこの上なく優れた薬ではないし、これで自分が助かるのかは微妙なラインだが、彼が今頼れるのはもはやこれしかない。


 瓶を強引に押し開けて、倒れ込むように瓶の中身を飲み干す――もはや、倒れているのか立っているのかは自分でも定かではなかった。


 口の中で何かが爆発でもしたかのような衝撃が襲ってきた――が、普段これを飲まなければならない時よりもはるかにましだ、おそらく、意識がなくなりかけているせいで感覚がないのだろう。


 おそらく半分ほど飲んだだろうところで飲むのをやめ、体の患部にじかに薬液をかける――祖父曰く、体感的にはこちらの方が治りがいいらしい。


 瓶の重みがなくなったの確認して、彼はそれを掘っぽりだして脱力した――もはや、動けそうになかった。


 霞、明滅する視界に銀色の何かが映る――ああ、そう言えば、叔母が『どうせ勝つんだから前祝だ、持って行きな。』と昨日渡したシチュー入りの寸胴があったな。と、どこか遠い事のように思い返していた。


 そして、二日後に迫っていた我が家恒例の食事会は欠席だな……と苦笑しながら、意識をなくした。

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