ある青年の覚悟

「――まさかあそこまでとは……」


 細く狭く、それでいてひどく臭う『通路』を進んでいた男は感嘆の声を上げた。


「なるほど、『あいつ』の兄さんだな。」


 そう言って苦笑とも微笑みともつかない笑顔を浮かべた男は奇怪な出で立ちをしていた。


 全身を覆うローブは闇の様に暗く、夜の闇に溶けてしまうように彼の体を隠している。


 深くフードを被る彼は世の中の目から自分を隠すように外套の陰に体を沈め、静かに、しかし素早く。まるで影のように細い通路――町に張り巡らされた用水路を走り抜けていた。


 フードの裏からチラリと見え隠れする金髪はまるで稲穂のように豊かな色合いで、この掃きだめにはひどく似つかわしくない。


「それにしても――あれが自信の源か?だとしたら納得だな。」


 そう言って彼が思い返すのは今日の昼に見かけたあの一戦だった。


 食堂で行われるバカ騒ぎに、彼は何の興味もなかった。


 いつものように学生たちが集まってのバカ騒ぎ、悪いことではない。年相応に楽しみを見いだすのは間違いなく素晴らしいことだ。


 とはいえ、他人への思いを伝える神聖な場所を見せ物のように公開するのは、彼にとって理解できない趣向だった。


 それゆえ、その場所から離れようとして――本来いなかったはずの人間を見つけた。


 テンプス・グベルマーレ。


 彼が数少ない友人とみなす男の兄で、先日腕を貫かれて療養中だと最近仲良くなった女子が語っていたはずだ――それが何故か恐ろしいほどの速度で廊下を駆け抜け、食堂に向かって突進していくのが見えた。その光景に彼は異様なほど興味を引かれた。


 あの物静かで、それでいて余裕のあふれる彼があれほどまで焦って駆け抜ける理由が知りたくなった。


 男にとって普段の彼は、不思議な人という印象だった。


 死刑執行を担う首切り役人の息子であり、同時に生きることに過剰なハンデを背負っている男。


 学園では苛立ちの捌け口にされながら、そのことをおくびにも出さずに生活している――彼の知る人間の生き方とは明確に異なる生き方をする人物だ。


 自己の責任を他人に押し付けず、他人の責任を守らせようとし、その上で――重荷をともに背負う男だ。


 彼がそのような人間を知らなかったし、これから先、彼以外に合う気もしていなかった。


 そんな彼が全速力で廊下を駆け抜けなければならない理由は一体何なのか?


 猛烈な興味に誘われて彼はごくひっそりと――その後ろを追った。


「そこまで考えたらあとは絡まった糸がほどけるようにわかった――マギアは一回生、それも『決して発育がよく見える方ではない。』一歳下でも通るぐらいだ。」


 そこまでの会話を聞いて彼が思ったのはやはり彼は賢いということだ。


 同じチームの才女すら敵わないその利口さは、確かに自分が友人と認めた男の兄だ。


「見るな。」


 そう言いながら彼の放った攻撃には大いに驚かされた――あの剣は以前大会の際にも目にしていたが、あのような用途で使えるとは……


 それも、彼の弟に言わせればあれは自力で作ったらしい、最初に聞いた時も恐ろしい知性だと思ったが、あの弩はひとしおだった――あんなもので狙われては自分だって防げるかわからない。


「――別に、僕は人が誰を好きになるかに関して咎めるつもりはない。」


 そう言われたとき、彼の心がわしづかみにされるような衝撃を受けた――自分に語りかけられているような錯覚さえ覚えた。


「ただな――相手との同意が取れてないのなら、それは罪だ。年齢的にも道義的にもだ。裁かれる必要がある。」


 そう言いながら、彼が傲然と相手を非難する姿は――いつだか見た英雄譚を見ているかのような気分になった。


 そして――あの輝く鎧、彼の弟から不思議な時計を祖父から預かって何やらそれを修繕しているという話を聞いていたが……あんな機能があるとは驚きだった。


『あの鎧は――多分勝てないな。試してみたい気もするけど。』


 そう考えて微笑む――あの兄はそ試したいと言えばやらせてくれるだろう。そういう人だ。


 ――だから余計に気分が悪い。


 用水路の途中、剥げかけたレンガを所定の順番でたたく。


 これが、『開門』の合図だ。


 最後の一打を終えると同時に、レンガが勝手に動き出し、彼が向かうべき道を示した。


 堅く、強く敷き詰められた土の舗装路は間違いなく高度な魔術の産物だ。


 人間の技とは思えない長大なトンネルの向こうで、今日も彼の悪夢が待ち構えている。


『――残り三回。後三回終えれば――』


 自分と『彼女』は自由になれる。


 あの『魔女』どもが約束を守るのかは未知数だが――


『それでも選択肢がない。』


 ゆえにやる。


 単純明快で――だからこそ、覆す方法がない真理が彼の目の前でとぐろを巻いて、彼を捕食しようと狙っていた。


 それが彼の望みをかなえる唯一であり――たぶん、最良の方法なのだ。


 だからこそ、彼は後ろ暗い行為に手を染める必要がある。


 永遠に彼をさいなむ鋭い棘、美しくもなく、甘美でもない――最低の行為。


「すみません、先輩。別にあなたに恨みはないんですけど――これしかないんです。」


 そう言いながら、彼は自分の槍に顔を映してみる――彼の後ろでほの暗い『裏切り』の影が波打つ鎌をもって彼を切り裂こうとしていた。

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