郷愁
「ケケケケケッ!」
耳障りな雑音が鼓膜に刺さる。神経に障るその声は、明らかに数百年も前に死んだはずの女のものだ。
高笑いとも奇声ともつかぬ、かん高い耳障りな声を上げ、男の体を持つ老婆がアマノの目の前に、いつだか見たことのある思い出の残響を実体に具現化していく。
「―――やりな!その女を食わせてやるよ、数百年ぶりの餌だ!」
「まったく、品のないこと――『止まりなさい。』」
狼の姿をしたそれに向かって、彼女は自分の中にあふれる力を投げかけて、その行動を縛った。
『やはり混ざっていますね……まったく、強欲でどこまでも品のない……』
かつて煩わしく思ったものが再び自分の前に存在するという事実に、アマノは煩わしさと苛立ちを覚えた。
そして、同時にやはり自分が受け持って正解だったと思ってもいた――少年の方ならともかく、精神がガタガタの少女に相手をさせるのは酷な相手だ。
『まさか『赤の制約』の代行者があそこまで動揺するとは……』
思い返すのは先ほどのマギアの様子だった。
彼女自身は気が付いていないだろうが、傍から見ればありありと動揺が見て取れる。
その動揺をあの女は容赦なく突いて逃げようとするだろう。
そうはさせない、ここまで追い詰めてもらっておいて、逃げられては片手落ちだ。
それに――彼女の気持ちは分かる気がした。
それはある程度の長い時を生きる人間に特有の感情だ。
嫌われたり、恐れられたり、裏切られたり、理不尽なことに巻き込まれたり――そういった人のよろしくない面をよく見る彼女たちからすれば、彼のような人間は希少だ。
他人のために自分を使い、他人のために行動を起こす者。
長生きすればするほど、そういった人間が稀有な存在となる――だから、余計に深く感情が揺れてしまう。
ましてや、『渡し守』から聞いている情報では、彼女は霊体のまま1200年、誰とも関われなかった人間だ。
人の営みを見ることはできても、体験できない少女、そんな少女が幼少期に受けたさまざまな精神的な傷と悲劇を見聞きしてそれをどうにもできない状況は彼女に人を嫌わせるには十分な力があったはずだ。
自分がいまだに老夫婦の献身を忘れないように。
宿で見かけたあの雀の娘の笑顔を忘れられないように。
そして――それが奪われたときの衝撃を、自分は知らないなどと、とても言えない。
自分にはあまたの経験があるが、彼女には初めての経験なのだ。ああなるのも仕方がない。
『むしろ、あの子に気を使えるだけ昔の私よりはましでしたね。』
そう思いながら、老婆が投げつけてきた石を扇で払う。
「なんだいなんだい!防戦一方じゃないか。あれだけ啖呵切っておいて――友情ごっこならよそでやりな!虫唾が走るね!」
などと叫びながら、次は先ほどの倉庫にもでてきたのと同じ鬼を呼び出し、アマノにけしかける。
その姿に顔を顰めながら、アマノは再び体から湧き出る力を使い、鬼の体を縛る。
それでも動こうとする鬼に対して、彼女は苦悩を感じながらさらに力を振り絞り、天人としての力を体外に放出した。
内側から湧き立つ力を光として放出する。
光が輝き、物理的な圧力を伴い周囲を制圧した。
まるで瞬間的に現れた太陽のように周辺を熱波が襲い、一瞬後には最も近くにいた鬼の姿は完全に消滅していた。
『それにしても――やりにくい!』
知り合いの顔でこちらに襲い掛かってこられるのはかなり――気分が悪い。
そう、アマノはこの老婆が放つ呪縛生物のもともとの魂を知っている。
先ほど始末したあの鬼はあの宿で最も付き合いの長い客だった。
過去、自分の島が襲われ、身内がいなくなったらしい彼は、あの宿に来ることで孤独を癒やしている節があった。
だからだろう、雀の娘が死んだと告げた際、最も過激に怒りを表現していたのは彼だった。
仲間を引き連れて、あの女に責任を取らせると襲いに行って――帰ってこなかった。
狼もそうだ、
死に猛り狂った彼らは総出で襲いに行って――今ここにいる。
先ほど出くわした裸の男も、おそらく彼女の腕を伸ばしている存在も――皆、どんな者達だったかわかっている。
人にとって利益になる存在ではなかったかもしれないが、少なくともこの女の僕として扱われるような者達ではない。
苛立ちと怒りが募る。
内側から湧き上がる怒りを光として放つ――あの器物が無事なら、この男の体がどうなってもかまわないだろうと考えていた。
突然放たれた怒りを、老婆は大げさに避けた。彼女に武芸の心得はない、出来ることは強化された身体能力での強引で雑な戦闘だけ。
『――この分なら縛れそうですね』
力の大部分は分かった、この分なら拘束したところで、抵抗はできない。
放たれた石礫を、術で強化された扇で払う。
内側から湧き上がる力を練り上げ、言葉とともに放つべく口を開――
「けけけけけっ――いいのかいクソガキ、一発抜けたよ!」
その言葉にとっさに振り向く。そこにいたのは狼の一匹だ。
アマノに目もくれず、全速力で校舎に向かって走っていく。
それだけならいい。千疋狼は数が多いことを除けば、知能が高い狼でしかない。どれだけ腕が悪くとも、戦闘訓練を受けた人間が囲めばどうにでもなる。
だから、問題は――彼がくわえているものにあった。
『――また爆弾……!何時の間に抜けて――』
そこで気がつく。おそらく、彼女が彼らの体を作り出せるのは自分の目の前だけではないのだと。
先ほど、狼を作った時に、一匹自分の後ろに生み出しておいたのだ。爆弾は――先ほどの石礫に混ぜたか、礫を払う一瞬、視界がふさがれた際に投げたのだろう。
「――ああ、あの糞犬があれを人ごみのど真ん中で爆発させたらどうなるだろうねぇ!粉々になるんじゃないかい!?ああ、どうせなら前回の賭けで勝った奴にぶつかって死んでほしいよ!」
そう言いながら、狂ったような哄笑を上げる老婆を横目にアマノはその狼を止めようと口を――
「――捕まえた!」
瞬間、首に何かが巻き付いた。
「こゅ……!」
腕だ。
伸ばした腕をロープのように首に巻き付けて締め上げている。
これでは口が使えない。
腕に手をかけて引きはがしにかかる――が、この分では校舎に侵入する狼を止められない。
いっそ光を放ってこいつを黒焦げにするか――と思ったが、それをやると今度は校舎がただでは済まない。別に建物自体はどうでもいいが、生徒や教員を巻き込む可能性があるので、うかつには――
「ああ、捕まえた捕まえた!これで終わりだよ、小娘!あたしにたてつくからそうなるのさ!このままその枝みたいな首をへし折って――」
耳障りな声が響く。ひどく腹立たしいその声に――
「――おい、婆、人の後輩に何してやがる。」
――聞き覚えのある声がかぶさった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます