ある男の逃道

 テンプス・グベルマーレは弱者である。


 座学以外では点を取れず、実技になればいつもボロ雑巾のように教室の傍らに放り投げられている哀れで愉快な道化。


 魔術全盛の時代に魔術を扱えぬ落伍者。


 死刑執行人の息子であり――彼らの体のいい苛立ちの捌け口。


 それがテンプス・グベルマーレだ。


 それはこの学園の――いや、異なる世界を含めたすべての人間の共通認識だった。


 彼らにとってテンプス・グベルマーレは道端の小石だ。


 蹴っても文句を言わず、なくしても支障のない物。


 誰もがそう思っていた。


 彼――スワロー・ミストスィザも同じだ。


 生活に必要な極ささやかなものに限られるとはいえ、彼にも魔術は扱える。


 それすらできないテンプスを彼は哀れみ――蔑んでいた。


 見下され続ける人生において、彼は初めて自分よりも下の人間を見つけたと思っていた。


 喜んだ、彼はいつだって見下されてきたから。


 彼は利口ではなかった。


 何時だって他人より物覚えが悪く、手先が不器用だった。


 そんな彼を世界中の人間が笑っていた。


 幼少の頃、彼とともに笑いあった友人たちはいつしか彼を遠巻きにあざけるようになった。


 幼少の頃、彼を愛した両親は彼を厭うようになった。


 幼少の頃、どんなことも笑って許してくれた村の人間もみな、彼を憎々しく見るようになった。


 だから、彼は大人が嫌いだ。


 彼らは能力で差別し、容姿が悪いと笑う。


 だから子供が好きだった。


 彼らは能力で差別しない、容姿で蔑んでも、𠮟れば理解する。。


 聞き分けがよく、自分を愛する。


 特に女児は良い、彼女たちは自分に同情し、愛してくれる。


 だから、彼は彼女たちを愛しているのだ。


 だというのに――マギア・カレンダ。


 彼女はあの忌々しい死刑執行人の一族に騙され、本来好意を向けるべき相手を見誤ってしまった少女。


 解放してやる必要があった。


 それができるのは自分だけだと思っていた。


 あの唾棄すべきジャック・ソルダムが消えたように、自分には運が味方するはずだと信じていた。


 だから、あの男に裁きを下そうとした。


 奴の大事な物を破壊し、評価を貶めてやろうと思った。


 そう考えて奴の部屋のカギを開けて、自分が絶対に疑われない天才的な手法で奴を追い詰める方法を実行した。


 その帰り道に見つけた。


 何かで揉めている男、やはり、彼は消えるべきなのだと思った。


 だが――彼は勝ってしまった。


 許せなかった、自分が得るべきものを盗んだだけでなく、運命にすらあらがうその姿が。


 だから――殺そうと思った、自分に与えられた力で。


 だというのに――


 ――なぜあの男があんなに強い?――


 スワローは焦っていた。


 テンプスが予想外に強かったからだ。


 あの夜も昨日も天から授かったはずの力から容易く逃れて見せた、そんなことができるだなんて、彼は想像もできなかった。


 彼の脳裏には、あの男の頭に箒が刺さった愉快な死体があるはずだったのに。


 二度の襲撃を切り抜けて見せた男にスワローは恐れを抱いていた。


 あれはきっと途方もない悪が遣わした破滅の使者なのだと思った。


 あれが自分を追ってくるのなら、逃げなければならない。


 そのためにも、『準備』が必要だった。


 そのために走る彼の思考は一色に染まった。


 ――なぜあの男があんなに強い!?――


 それは彼ら『アプリヘンド特殊養成校』の人間が悉く抱く疑問だった。


 それは当然の疑問である。


 彼らが見てきたテンプス・グベルマーレとは弱者だ。


 弟と共犯者である後輩を除けば弟の友人達ですら、彼のことをそう考えていたことからも、それは分かるだろう。


 そんな奴がなぜ自分の天から授かった力よりも強い力を発揮している?


 あれは無残に殺されるべきなのに……


 そう考えながら、彼は自分の『隠れ家』に入り込んだ。


 重い隠し扉を開け、体を滑り込ませた彼を出迎えたのは彼の宝物――絵だ。


 五年にわたり描き続けてすでに一万枚を超えた――絵。


 それは彼が愛して、彼を愛したいとし子たちの肖像だった。


 彼女たちはシャイで、彼に直接的に愛を伝えてはくれない。


 ゆえに、絵に起こした。


 こちらに微笑む笑顔、こちらにかける声、こちらに向けられるはずの好意――そう言ったものすべて。


 ここが彼の楽園だった。


 ここにいられることそのものが彼の夢だ。


 彼が走っているのはそういった『宝』を取りに行くためだ――どれもまだ十分にいないのだ。


 彼は急いで準備を始めた。


 彼のタガが外れた欲望に再現はない、彼は壁に張り付けられたあまたの絵をすべて壁からはがし、部屋に備えてあったカバンに次々と絵を放り込んでいく。


 当然すぐに埋まったカバンに当たり散らしながら、部屋にあった布を風呂敷のように使いながらさらに絵を詰める。


 全ての絵を持ち出すつもりだった。


 ここに二度と戻れないのなら、この宝を置いていくわけにはいかない。


 一万枚を超える絵をはがすのは決して容易な事ではない、急ぐ必要がある。


 彼は人手を増やすために、腹から『それら』を生んだ。


 それらはどれもこれもまともな人の姿をしていなかった。ある者は角を生やし、ある者は裸で腹の出た男の姿をしていた。


 はるか昔に自分を喰い殺したときと何も変わらな――はるか昔?喰い殺された?何を……いや、どうでもいい。


 首を振って彼は自分の寝床にある自分の力の源に向かった。


 ベッド脇の小さな金属片を手に取る。


 それは小さな枝切り鋏だ。


 これが自分に天からの力をくれた。


 物を遠くから投げる力を得て、傷をたやすく癒やす。天からの祝福――これさえあれば。


「――ああ、やっと見つけました、やはり下でしたか。」


 鈴の鳴るような声が響いたのはその時だった

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