研究者の夕暮れ

 ――扉を開くと古い紙のにおいが鼻腔を突いた。


 世界を茜色に染める夕暮れ、放課後の時間はテンプスがこの学校で最も待ち望んでいる時間である。


 この養成校最大の自慢である巨大書庫は、この国でも有数の蔵書数を誇る。


 この書庫には古今東西のあらゆる種類の書物が集まる、最古の論文、一般的に流通していない類の歴史書、絶版本その他もろもろだ。


 無論、厳しい貸し出し制限と閲覧制限はあるが――テンプスはそれを緩和するすべがあった。


 この学園では筆記試験上位5名に個人の研究室が与えられる特権がある。年二回の前期後期の試験に知識のすべてを注いで、彼はこの特権を得た。


 この特権は研究室のみならず、閉鎖書架へのアクセスも許可される。


 少なくともテンプスは一回生の頃からほぼ毎日通い詰めたが、全体の蔵書量は日々増え続けている、ここをすべて読み終えている生徒はおそらく存在しないだろう。


『新規入荷本が6冊……いらんな。行くか。』


 とはいえ、今日の――いや、ここ一年の彼の活動拠点はここではない。必要な資料はすでに集めてあった。


 一応目を通した近古の棚にいつも通り目ぼしい物がないことを確認した彼はそこを素通りし、青い背表紙の棚から抜け出した。


 黄色い背表紙の遠古を超えて、赤い背表紙の太古代の棚を越えて――彼が向かったのはその先、自身の研究個室だ。


 研究個室は5m角の真四角の部屋だ、人を招く程度の事ができる――普通の学生はここで教師と論文の相談をするらしい――広さで一列に並んでいる。

 

 後輩や弟たちに出くわすこともあるのだが、今日はいないらしい。


 とりとめもない考えと共に自身のネームプレートのかかった研究室の扉を開く。


 内部は机だけが置いてある詫びしい空間だ、ある程度はいじってもかまわないといわれたが、テンプスは特にいじる気にもならずに元あったまま放置していた。


 まだ、こちらの部屋に移ってまだ二か月弱、おまけに結局一年かそこらでいなくなる部屋だ、いじったとしても意味がないだろうと考えていた。


 定期的な清掃員の清掃のおかげで塵一つない室内を進み、机の前で立ち止まる。机の上の物の配置は変わらない、誰かここに侵入したということもないようだ。

 ひとまず、自分の聖域は守られているらしい、テンプスは机の上に広がったままの物を見て、胸をなでおろした。これがなくなるのだけは避けたい事だった。


 まるで雲のようにまっさらでシミ一つない真新しい白い布の上に置かれていたのは、ひどく細かい部品を解剖された蛙のように並べられた機械――文字盤に特徴のある其れは懐中時計だった。


 備え付けの椅子に腰かけながら彼はこれが無事だった事実に安堵していた。毎日していることだが、こいつだけは手を出されるわけにはいかないのだ。


 これ――この懐中時計がここ最近の彼の研究内容であり成果だった。


 彼の研究しているの実現のためにこの装置が必要なのだ。



 ――太古スカラー文明


 現在、そう呼ばれている文明が歴史から姿を消したのはもう二千年以上前のことだ。


 非常に栄えたこの国は伝承に曰く傲慢で、しかしそれが許されるほど強かったとされる。


 都市は黄金に輝き、飲む水は霊薬のごとき効果を示し、物に手で触れることなく生活をすると言われたこの文明は現代から見ても発達した文明を持っていたことが伺える伝承とその証拠たり得る文化的特徴が散見された。


 その中でも、ひときわ異彩を放つ逸話が『魔法を使わずに不可解な現象を起こした』というものである。


 曰く、彼らの文明圏においては魔法・魔術の使用を禁止しているらしき石碑が見つかっており、実際に魔力やそれに類する神秘学的力の形跡は発見されていない。


 それでも彼らは世界を席捲するほどの力を得た。その理由は?


 それが彼の研究課題だった。


 それほど研究者の多い項目ではない。競合他者がいないのは彼にとってもかなり有益な状態だった。


 そうして丸一年研究を続けて――今目の前にあるものは彼らの文明の遺物の再現品だ。

 それほどたいそうな代物ではないが――テンプスにとっては有用だった。


 これが何なのか彼にはすでに分かっていた。が、それを証明するためには彼はこれを完成させる必要がある。


 十年前――七歳の時、ある人物の本を読んで仮説を立てて以来、永延取り組んでる研究だった。


 それでも完成はまだ先の予定だったし、彼としても別段急いでいるわけでもなかったのだが――


『まさか、あいつこの学校の方に来るとはなあ……』


 彼がどうこうされる分にはいい、頑丈さには自信があったし何より実害など乏しいものだ。


 が、弟やその友人たちの名誉がかかっているとあっては手も抜けない。自分の様な兄がいることで引き起こされる事態は何パターンもあり、そのどれにおいても弟は愉快な思いをしないだろう。


『あいつはてっきり、高等法院の方に行くと思ってたのになぁ……』


 だからそれほど急いでいなかったのだが……


 が、彼がいるというなら急いだほうがいいだろう、一年もかかったがそう遠からずお披露目と言えるはずだった。


『――これで、あいつらに対する風評が減ればいいんだが……』


 不肖の兄を持たせてしまった弟にせめても悪評を立てないようにと祈りながら、テンプスの日は暮れていく。

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